棘を編む繭

クナリ

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第四章 7

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「手に入ると信じてた。普通なんて、少なくとも努力さえすれば手に入るものだって。だって、普通なんだから。その可能性をゼロにしないために、この子は、ここまでやらざるを得なかった。そういうことだよね。少し分かるよ、私も……そうだったから。その当り前さに、どんなに憧れたか。ごめんねクツナ、私ね、お母さんとのことで、クツナたちにも言えないこと、たくさんあるの」
 以前、クツナはキリに、親のことで羨ましがられたのを思い出した。キリのことはいくらでも知っている。しかし、知らないことも膨大にある。知られたくないことも、知ってはならないことも。
 そして繭使いとしては非凡極まりないキリが、「普通」を切望している。ひどい皮肉に思えた。
「ダメだ、この子の繭がどんどん萎れていく。これじゃ、心が壊れる……」
 キリは泣いていた。それでも、その指はさらに速度を増していく。だが肝心の繭自体が壊死してしまえば手の施しようがない。次にキリが何をするか、クツナはすぐに感づいた。
「おい、キリ。お前、まさか」
「クツナはだめだよ。終わった後、私を頼むね」
 その肩をつかもうとしたクツナよりも早く、キリは、自分の胸元に右手を当てた。そして、そこで光っている己の繭をつかみ、引きはがす。左手の指で、体とつながった糸を切り離すと、右手の中の繭の塊はソフトボール大に丸まった。
「ぐううううッ!」
「やめろ!」
 クツナは、声による静止しか、ここに至ってはできなかった。
 それほどデリケートな行為だった。自分の繭を、他人に移植しようというのは。
「大丈夫、そんなに、致命的じゃないところを、使うから」
「ふざけるな! それなら僕のを使え!」
「クツナのじゃなじまないよ、きっと。この子とは違いすぎるから。でも私は、――」
 キリの繭が少女の胸の上に置かれる。半開きになっていた少女の目が、少し開いた。
「――私は、けっこう、この子と同じ」
 キリの繭は、球状からほどけ、少女の繭と溶け合っていく。灰色がかっていた少女の糸が、輝き出した。成功した。クツナは思わず安堵の息をついたが、引き換えにキリの顔色は土気色になっている。
 アルトのように痛みに対する精神制御の術を身につけていないキリは、その激痛にただでさえ正面から向かい合っていた。
 限界が近づいている。しかし、息を荒らげながらも、キリは穏やかに口を開いた。
「ねえ、クツナ。繭使いってさ、おっかないよね。その気になって技術を身につければ、きっと、人を半身不随や精神障害にだってできる。心臓も、肺も、脳も、理論上はその活動を止められる。凄く怖いことだと思わない?」
「何を……こんな時に」
「私、繭使いになりたいわけじゃなかった。それなのに、そんな奴が、こんな力を持ってるって、よくないってずっと思ってた。私を仲間だって言ってくれるクツナとアルトに、後ろめたかった。でも今、この子を助けられたら、私は生まれて初めて、繭使いでよかったって思えるの」
 そう言うキリの、思いつめた表情に、クツナはいてもたってもいられなくなった。少女の体を挟んでキリの向かい側にしゃがむ。

「そんな時は、二人でやるもんなんじゃないか」
「え、でも、私のやり方めちゃくちゃだよ。わけ分からなくない?」
「ここから先は、おおよそ分かるさ。ただ見てたわけじゃない」
 クツナは少女の胸の辺りの繭をほどき、かき分けて、キリの術野を確保した。そして指に走る衝撃に、ここまでキリ一人に施術させていたことを後悔する。生半可な痛みではない。ここまでの反発があるとは思わなかった。
 意を決して再び動き出したキリの指は、もう止まらない。クツナは胸中で驚愕していたが、キリの技は、確実に少女を救い得るところまで進行していた。キリから取り出された繭は完全に少女のそれと同化し、生き生きとした銀色の光を帯びている。
 そしてキリは、少女の回復を確信すると、少女から父親の虐待の記憶を丸ごと切り離した。
「キリ。お前……凄いよ」
「クツナ。ありがとうね」
 何度か、無理な動きがたたって、キリの手から糸の束がこぼれ落ちた。そのまま落としてしまえば繭にとって大きなダメージになるところを、その度に危ういところで、クツナが拾い上げる。イレギュラーな手技に、クツナの指が容赦なく痛めつけられた。
 冷や汗をかきながらの術式が続き、ようやくキリが、最後の糸を結び終えた。その結び目が溶け合うようにして一本の糸になると、近くの糸同士が寄り添って紐となり、繭の塊を形成して、少女の体に戻っていく。
 これで少なくとも、すぐに世を儚んだり、早まった真似をすることはないだろう。
「凄いな、本当に。でも、無茶しすぎだ。自分の糸をちぎり出して、何の影響もないわけがない」
「うん……とりあえず、手が痛すぎて、自転車のハンドルちゃんと持てなさそう……」
 膝立ちになっていたキリの上体がぐらつき、クツナが慌ててそれを後ろから抱き留めた。弛緩したキリの体は、ぐったりと重い。昨日自転車に二人乗りして抱きつかれた時に感じた、揚々とした体の張りが完全に失われていた。
「指、切れたか?」
「痛くて分かんないね……。何本か切れてても、いいけど」
 クツナの指は、とりあえず一本も切れてはいない。クツナは胸中で安堵のため息をつき、青ざめたキリの顔を真横に見ながら、ぼそりと言った。
「この子は、警察に連れて行ったら、また家族の元に帰るわけだよな」
「あの父親がいなければ、何とかなると思うんだ。この子の繭から見た感覚だと、もうのこのことうちに帰ってくるタイプじゃないみたいだし」
「そのまま逐電してくれれば、一番いいんだが」
「何のおとがめもなしで逃げられるっていうのも、ちょっといまいましいけど」
「確かにな。……キリ、すまない」
 キリが、自分の肩口のすぐ背後にあるクツナの顔へ向けて振り返った。
「何が?」
「大した助けになれなかった、僕は」
「そう思ってるのは、クツナだけだよ」
 これから急いで、警察をここへ呼ばなくては。そしてキリを早く休ませてやりたい。そう思うクツナの腕に、キリの体の感触が伝わる。それはあまりにか細く、か弱く、儚く思えた。
 キリが薄く微笑んでいるのを見て、クツナはやるせないような、慈しむような、複雑な思いに囚われていた。

 クツナは近くの交番で、そこにいた巡査に少女の居場所を伝えた。手短に彼女の環境を説明して道案内をし、やじ馬が増える前にその場を離れた。
 その場でそれ以上できることは思いつかず、ひとまず行政に任せようと考えた。
 少女はあまり大事になることを望まないかもしれないが、ことが少女個人で済むものではないので、中学生二人の手に負えることでもない。
 その間に、キリはこの町を離れていた。
 まだ痛みはかなり残るものの、なんとか自由の利く手でハンドルを握り、自転車を駆る。全身が、鉛の溶け込んだ泥になったように重かった。疲労と痛みで視界が狭まり、関節の稼働も鈍い。それでもやがて、クツナの家の前にたどり着いた。遠からずクツナもここへ戻るだろう。
 キリはキクノとは充分に面識がある。細かい事情を告げずとも、少し休ませてもらうことは可能だろうと思った。手の痛みは続いており、冬だというのに額と背中に脂汗が垂れている。
 そして徐々に、指の違和感にも気づきつつあった。しびれたようになって、感覚がひどく鈍い。少なくとも、何本かはもうこの先、繭の感触を得ることはできなさそうな気がした。これが指が切れるということかと、キリは一人嘆息した。だが、構わない。それだけの意味のあることをした。強がりでなく、そう思う。
「おばさん、キリです。お邪魔していいですか」
 痛む人差し指の先でインターフォンを鳴らしながら、声もかける。
 無言。
 まだ昼前だったが、買い物にでも出ているのかもしれない。当然そうは思ったものの、キリは胸騒ぎがして、御格子家の引き戸を開けた。
 家の中からは物音ひとつしない。しかし、玄関に鍵は掛かっていない。
「おばさん?」
 そろそろと廊下を歩く。
 そして、台所の床に横たわる、二人の大人を見つけた。天井近くから垂れて宙に揺れる、一筋のロープも。
「おばさん! おじさん!?」
 とっさに二人の繭に触れる。クツゲンは気を失っているだけのようだったが、キクノの繭は活力をほとんど失い、こと切れる寸前だった。
 二人の記憶が、キリの繭を通じて流れ込んできた。首を吊ったキクノ。それを発見して驚き、台所から包丁を持ってきてロープを切断したクツゲン。彼は、妻の首に巻き付いた輪っか状のロープも切って解こうとした時、背後から何者かに隙だらけの繭を操作によって意識を断たれ、気絶した。
 一度ロープで吊ったせいで首の骨が折れているキクノは、キリの繭使いでどうにかできる状態ではなく、恐らくもう助からない。そしてキリは、この惨状を起こしたのが誰なのか、二人の記憶の中で、否応なく知らされた。
「嘘……」
 膝をついて呆けそうになるのを必死で耐え、玄関へ戻る。誰か助けを呼ぼうとして、いや、その前に救急車かと思い至る。しかし救急車を呼んだところで無駄なことは、繭を見たキリにはあまりにもよく分かってしまっていた。それでも、呼ばなくては。混乱しているところへ、クツナが戻ってきた。開いたままのドアの前に立ち、ぽかんする。
「あれ、うちに来たのか……どうしたんだ? 何か、変だな」
 まだ状況を把握していないクツナに、キリは叫ぶ。
「クツナ、今家に入っちゃ……ううん、違う、入らなきゃ……でも」

「キリ?」
「救急車、呼ぶの……!」
 キリの切迫した声に、クツナは青ざめながら家に駆けこむ。
 キリは自分の携帯電話で救急車を呼ぶと、再び自転車にまたがり、走り出した。
 アルトを見つけなくてはいけない。見つけたところで、キクノを救うことができるわけではない。しかし、会わなくては。
 キリはアルトの家へ向かって、激しくペダルを踏みしめた。
 クツナもまた、両親の繭に触れ、おおよその事態を把握した。パニックに陥ったクツゲンを失神させるくらい、不意を突けばアルトには難しいことではなかっただろう。
 ただ、仕掛けられた術式は単に気を失わせるものだったので、目覚めさえすればクツゲンに後遺症は残るまいことは分かった。
 問題はキクノの方だった。首を吊る前に施された、いや、その首を吊った原因となった繭使いが、あまりにも悪質過ぎる。
「アルト……くそ、どうして!!」
 クツナは母親の体を慎重に抱きかかえ、施術室へ運び、作業台に乗せた。
 キリが救急車を呼んでくれた気配は察していた。それまでの応急処置だけでもしておきたかった。しかし、どう見てもキクノは致命傷を負っていた。死にかけている。
 これを治せるレベルの繭使いは、少なくともクツナの知る限りは、いない。呆然と立ち尽くしながら、クツナは自失しかけていた。
「クツナか?」
 慣れ親しんだ声を、クツナは、ぞっとしながら聞いた。目を覚ましたクツゲンが、施術室の入り口に立っている。
「なぜだ……どうして彼は、俺たちを……」
 よろよろと作業台に歩み寄るクツゲンの繭は、悲しみと怒りに満ちている。そして両手を一度左右に広げると、キクノの崩れかけた繭に指を入れた。
「父さん?」
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