35 / 45
第四章 9
しおりを挟む
キリの家は、四階建てのアパートだった。名前をヤマガタハイツという。元はクリーム色だったのだろう外壁はくすんだ灰色になり、あちこちに細かいヒビが入っている。
廃墟同然とまでは行かないが、入居者はかなり少ない。近いうちに取り壊されるという噂が何度も囁かれていた。
アルトを伴って自宅の棟に到着すると、キリは自転車を置いて階段を上がった。アルトは大人しくついてくる。
キリの家は三階にあったが、それを通り過ぎ、四階よりもさらに上へ向かう。立ち入り禁止ではあったが、勝手知ったるキリがノブを少しゆすると、古く脆弱な扉の鍵はあっさりと開き、二人は屋上に出た。
ぽつぽつと、雨が降り始めていた。それにも構わず、キリは屋上の中央辺りへ進み出る。
使い道の分からない構造物や、何のためにあるのかもよく分からない凹凸を除くと、歩き回れる平らなスペースは、学校の教室二個分というところだった。
「キリ、こういうところは君の弱点だと思う」
「何のこと?」
ドアを背にしたアルトが笑っている。出入口を抑えられているようで気にはなったが、どの道、むざむざと逃げるようなつもりはキリにはなかった。
「大変な時に、一人になることを選ぶ。味方のいる場所じゃなく、敵のいないところへ行こうとする」
「敵とか、味方とか! 私は……」
「それに、人は話せば分かるとどこかで信じてる。君は繭使いとしては天才の類かもしれないけど、今は君の悪いところが全て揃っている。その顔色、どうしたんだ?」
少女への繭の移植など敢行したせいで、ただでさえ体調は悪い。それに加えてこの寒い中を自転車で休みなく走り、キリは疲労もピークに来ていた。頭痛がし、腹の奥が重い。
風邪を引いたように関節が痛み、筋肉に力が入らない。
「それじゃ、僕に勝てないな」
「勝つって、何よ」
「まだ、僕が君に危害を加えないと信じてるのか? 僕はね、誰よりも君をこそ、粉々にしてやりたいと思っているのに」
キリは思わず腰を落とし、スタンスを肩幅よりも広げた。アルトとは三メートル近く離れている。こんなに離れて、警戒しながら彼と会話するのは、初めてだった。
「どうしたのよ。何があったの? 私やクツナも知らないこと?」
「また、どうしてか。質問さえすれば答が手に入るとでも? 会話する必要はない。まだ分からないのか。君、まさか、君の母親さえ、いつかは君が見も知らない男より、自分を選んでくれると思ってるんじゃないだろうね」
脈絡のない会話は、動揺を誘うためだ。そう分かっていても、キリは全身の血が逆流するのを感じた。
大人は本当のことを言われると怒る、なんて話を、いつかしたっけ。大人でなくても、怒るものだな。
頭はそんなことを考えながら、体が動いていた。アルトに駆け寄り、右の平手を振りかぶる。
しかしより速く動いたアルトの平手が、振り下ろされたキリの手を弾いた。
「うっ!」
うめいて、キリが後ずさった。二人の間が、二メートルほど離れる。しかしキリには、それが充分な距離には思えなくなっていた。さらにじりじりと、半歩ずつ距離をとる。
「暴力のいいところは、分かりやすさだね」
「アルト……!」
「容赦さえしなくていいのなら、君が僕に敵うわけがない。今の僕は、君を好きに改造できる。どんな風になりたい? クツナの母親? それとも僕の父親?」
「繭を、そんな使い方! クツナは、私たちの力を、『幸福の舟』だって言ってたのに!」
それまで絶え間なく浮かんでいた笑いが、アルトの顔から消えた。
「何だって? クツナが君に?」
「そうよ、私たちの……」
「違う。僕たちのだ、それは」
アルトが歩き出した。キリに向かって。両手を少し広げて、腰だめに構えている。
「アルト……何があったの。ううん、何があったって、そんな風になるわけがない。繭をいじったのね。自分で、自分の」
「少し人格を変えて大人しくさせるくらいで済ませてあげようかと思っていたけど、気が変わった。君は、父のように、廃人にする」
本気だ。キリは悪寒とともにそれを悟った。両手の指はまだしびれている。しかし、抵抗するしかない。
その時、自転車のブレーキ音が、下方から聞こえた。
弱い雨の中、キリのアパートに着いたクツナは、階段を一段飛ばしで上がっていく。部屋の場所は知っていた。三階だ。
到着し、激しくドアをノックする。しかし、応答はない。この時、キリの母親が珍しく昼間から出かけており、部屋の中には誰もいなかった。
「留守なのか? それじゃ、この周りのどこか? くそ、キリ! アルト!」
クツナが呼ぶ声が、キリの耳に聞こえる。
心強かった。今すぐここに来て、加勢してほしかった。
しかし同時に、こんなアルトをクツナに見せていいのかという躊躇が、キリに応答をためらわせた。
キリは、繭使いの勝負なら、アルトに後れを取ったことはない。直接互いの繭を、それも敵意を持って扱ったことはなかったが、それでも自分の方が優位なはずだ。
疲労はあったが、ここまでに繭使いを連発しているはずのアルトもまた、万全ではないだろう。
一度アルトを無力化――できれば気絶――し、それからクツナを呼べば、それが一番いい。
アルトの指摘は当たっていた。キリは追い詰められた時、一人で立ち向かうことを選ぶ。
二人は互いに踏み出した。
開いていた距離が一気に縮まり、キリは息を呑む。
アルトへの攻撃と防御を、同時にやらなくてはならない。攻撃に夢中になった隙をついて無力化されるわけにはいかないし、防御だけでもしのげる見込みはない。
単純だけど、右手で攻撃、左手で防御。それでいくか、と考えた時、キリの思考が一瞬止まった。
――攻撃? 誰を? 防御? 誰から?
――私たちは、たった三人の……
キリの体から力が抜けた。肩が下がり、何かを言おうとして口を開く。
しかし、アルトは止まらない。
巨大な楽器を操作するかのように、荒々しく、しかし正確に。アルトの両手が、防御など全く顧みずに激しく動き、そのために自分の繭が壊されていくのを、キリは棒立ちで見ていた。
キリは才能と負けん気では、友人二人を大きくしのぐ。それが全くの無抵抗というのは考えていなかったのだろう、アルトの顔に狼狽が浮かぶ。しかし、一度発動した術式は淀みなく奔り続けた。
――あれ?
アルトの技にさらされながら、キリは思う。
――もしかして、アルト。
――私なら、止めてくれると思ってた?
繭の塊がいくつも無理矢理に削られ、強度を失ったところからちぎり飛ばされる。キリの四肢から力が抜け、内臓の動きが弱まり、頭には霞がかかった。生命体としての機構そのものが弱体化していく。
――クツナにはできなくても、私なら、アルトを容赦なくやっつけてくれると思った?
――私なら、アルトに勝ってくれると思ってた?
二人の繭は触れている。繭使い同士だからこそ、今まで、お互いの繭を触れさせて、その心を深く読むようなことはしなかった。記憶と心を直接交錯させるのは、これが初めてだった。
キリは、独り言のように、けれど問いかけるように、胸中で告げる。
――アルト、あなたのことは許せない。
――でも、他にどうしようもなかった?
――私は、それに気づいてあげられなかった?
空中に放り出された光る糸の一本一本は、地面につく前に、風に溶けて消えた。いくつかの大きな束が屋上の床に着くと、氷の粒が焼けた鉄に触れたように、砕けて散った。
――だめだな。
――こんなはずじゃなかったのに。
――私たちは、もっと……
やがてアルトの右手が、大きく空を掻いて、止まった。
「私たち、本当は……きっと、もっと――」
「僕の繭使いでは、人間を即死はさせられないけれど」
――でも……そんなの、夢みたいな、話……
「君の体を、極端に衰弱させた。……何を笑っている」
屋上に風が吹いた。せいぜい、紙くずを転がすくらいの、弱い風が。
キリはそれだけでたたらを踏み、なすすべなく、屋上の端へ流されていく。
体の中身が抜き取られてしまったかのようだった。
自分の体だとは思えない、ただの木偶人形が首から下に繋がれているように、軽く、情けなく、頼りない。
屋上の端には柵がある。キリは立っていられず、そこへもたれた。
今度は空き缶を転がす程度の風が吹き、キリは体が少し浮いて、柵を乗り越えてしまい、屋上のへりへと押し出される。
柵をつかもうとする手には、力が入らない。
「これから、……どうするつもりなの」
「なるようにして、好きに暮らすよ。多少身辺が騒がしくなるかもしれないけどね、大した問題じゃない。僕が殺人を犯したわけでもないから。僕の障害はほとんどが取り除かれたしね。生きやすくなると思う」
「欲しいものだけを手に入れるって、……本当の正解じゃないと思う。アルト、いつかアルトが、もし」
「もし、とかいつか、の話なんかしない」
「アルト、いつか、私たちが」
雨の混じった風が吹いた。
キリの体が、屋上からこぼれ落ちた。
クツナはキリの部屋のドアを離れ、既にアパートから出ていた。
かすかに、聞き知った声の話し声が聞こえる。
「屋外にいるのか? でもこの声、どこから……上?」
アスファルトの上に立つクツナが空を見上げるのと、キリの体が空から降ってきたのは同時だった。
キリの細い体が、鈍い音を立ててアスファルトの地面に打ちつけられる。横たわって動かないキリの横で、クツナは数瞬、動けずにいた。
「キリ」
名前を呼ぶ。しかし、答はない。ぽつぽつと細かい雨粒がキリの体を叩いている。
クツナはひざまずき、キリの繭に触れた。そして、そのあまりにひどい状態に絶句した。ここまで崩壊させられた繭を生きた人間がまとっているのを、初めて見た。
自分の繭をキリのそれに接続し、さらに細かく状況を把握する。
頭を打ったり、他にも致命的な損傷があれば、クツナの力ではどうにもならない。しかしどうやら、頭蓋骨はほぼ無事なようだった。打ち所がよかったのか、脳や臓器に大きな破損は見受けられない。
アパートがもう一階高ければ、こうはいかなかっただろう。しかし、だからといって楽観的にはとてもなれない。
ダメージがないわけではなく、キリの体自体もひどく弱っている。
骨折していると思しき個所もいくつもあり、道路に二筋ほど、血も流れ出している。
廃墟同然とまでは行かないが、入居者はかなり少ない。近いうちに取り壊されるという噂が何度も囁かれていた。
アルトを伴って自宅の棟に到着すると、キリは自転車を置いて階段を上がった。アルトは大人しくついてくる。
キリの家は三階にあったが、それを通り過ぎ、四階よりもさらに上へ向かう。立ち入り禁止ではあったが、勝手知ったるキリがノブを少しゆすると、古く脆弱な扉の鍵はあっさりと開き、二人は屋上に出た。
ぽつぽつと、雨が降り始めていた。それにも構わず、キリは屋上の中央辺りへ進み出る。
使い道の分からない構造物や、何のためにあるのかもよく分からない凹凸を除くと、歩き回れる平らなスペースは、学校の教室二個分というところだった。
「キリ、こういうところは君の弱点だと思う」
「何のこと?」
ドアを背にしたアルトが笑っている。出入口を抑えられているようで気にはなったが、どの道、むざむざと逃げるようなつもりはキリにはなかった。
「大変な時に、一人になることを選ぶ。味方のいる場所じゃなく、敵のいないところへ行こうとする」
「敵とか、味方とか! 私は……」
「それに、人は話せば分かるとどこかで信じてる。君は繭使いとしては天才の類かもしれないけど、今は君の悪いところが全て揃っている。その顔色、どうしたんだ?」
少女への繭の移植など敢行したせいで、ただでさえ体調は悪い。それに加えてこの寒い中を自転車で休みなく走り、キリは疲労もピークに来ていた。頭痛がし、腹の奥が重い。
風邪を引いたように関節が痛み、筋肉に力が入らない。
「それじゃ、僕に勝てないな」
「勝つって、何よ」
「まだ、僕が君に危害を加えないと信じてるのか? 僕はね、誰よりも君をこそ、粉々にしてやりたいと思っているのに」
キリは思わず腰を落とし、スタンスを肩幅よりも広げた。アルトとは三メートル近く離れている。こんなに離れて、警戒しながら彼と会話するのは、初めてだった。
「どうしたのよ。何があったの? 私やクツナも知らないこと?」
「また、どうしてか。質問さえすれば答が手に入るとでも? 会話する必要はない。まだ分からないのか。君、まさか、君の母親さえ、いつかは君が見も知らない男より、自分を選んでくれると思ってるんじゃないだろうね」
脈絡のない会話は、動揺を誘うためだ。そう分かっていても、キリは全身の血が逆流するのを感じた。
大人は本当のことを言われると怒る、なんて話を、いつかしたっけ。大人でなくても、怒るものだな。
頭はそんなことを考えながら、体が動いていた。アルトに駆け寄り、右の平手を振りかぶる。
しかしより速く動いたアルトの平手が、振り下ろされたキリの手を弾いた。
「うっ!」
うめいて、キリが後ずさった。二人の間が、二メートルほど離れる。しかしキリには、それが充分な距離には思えなくなっていた。さらにじりじりと、半歩ずつ距離をとる。
「暴力のいいところは、分かりやすさだね」
「アルト……!」
「容赦さえしなくていいのなら、君が僕に敵うわけがない。今の僕は、君を好きに改造できる。どんな風になりたい? クツナの母親? それとも僕の父親?」
「繭を、そんな使い方! クツナは、私たちの力を、『幸福の舟』だって言ってたのに!」
それまで絶え間なく浮かんでいた笑いが、アルトの顔から消えた。
「何だって? クツナが君に?」
「そうよ、私たちの……」
「違う。僕たちのだ、それは」
アルトが歩き出した。キリに向かって。両手を少し広げて、腰だめに構えている。
「アルト……何があったの。ううん、何があったって、そんな風になるわけがない。繭をいじったのね。自分で、自分の」
「少し人格を変えて大人しくさせるくらいで済ませてあげようかと思っていたけど、気が変わった。君は、父のように、廃人にする」
本気だ。キリは悪寒とともにそれを悟った。両手の指はまだしびれている。しかし、抵抗するしかない。
その時、自転車のブレーキ音が、下方から聞こえた。
弱い雨の中、キリのアパートに着いたクツナは、階段を一段飛ばしで上がっていく。部屋の場所は知っていた。三階だ。
到着し、激しくドアをノックする。しかし、応答はない。この時、キリの母親が珍しく昼間から出かけており、部屋の中には誰もいなかった。
「留守なのか? それじゃ、この周りのどこか? くそ、キリ! アルト!」
クツナが呼ぶ声が、キリの耳に聞こえる。
心強かった。今すぐここに来て、加勢してほしかった。
しかし同時に、こんなアルトをクツナに見せていいのかという躊躇が、キリに応答をためらわせた。
キリは、繭使いの勝負なら、アルトに後れを取ったことはない。直接互いの繭を、それも敵意を持って扱ったことはなかったが、それでも自分の方が優位なはずだ。
疲労はあったが、ここまでに繭使いを連発しているはずのアルトもまた、万全ではないだろう。
一度アルトを無力化――できれば気絶――し、それからクツナを呼べば、それが一番いい。
アルトの指摘は当たっていた。キリは追い詰められた時、一人で立ち向かうことを選ぶ。
二人は互いに踏み出した。
開いていた距離が一気に縮まり、キリは息を呑む。
アルトへの攻撃と防御を、同時にやらなくてはならない。攻撃に夢中になった隙をついて無力化されるわけにはいかないし、防御だけでもしのげる見込みはない。
単純だけど、右手で攻撃、左手で防御。それでいくか、と考えた時、キリの思考が一瞬止まった。
――攻撃? 誰を? 防御? 誰から?
――私たちは、たった三人の……
キリの体から力が抜けた。肩が下がり、何かを言おうとして口を開く。
しかし、アルトは止まらない。
巨大な楽器を操作するかのように、荒々しく、しかし正確に。アルトの両手が、防御など全く顧みずに激しく動き、そのために自分の繭が壊されていくのを、キリは棒立ちで見ていた。
キリは才能と負けん気では、友人二人を大きくしのぐ。それが全くの無抵抗というのは考えていなかったのだろう、アルトの顔に狼狽が浮かぶ。しかし、一度発動した術式は淀みなく奔り続けた。
――あれ?
アルトの技にさらされながら、キリは思う。
――もしかして、アルト。
――私なら、止めてくれると思ってた?
繭の塊がいくつも無理矢理に削られ、強度を失ったところからちぎり飛ばされる。キリの四肢から力が抜け、内臓の動きが弱まり、頭には霞がかかった。生命体としての機構そのものが弱体化していく。
――クツナにはできなくても、私なら、アルトを容赦なくやっつけてくれると思った?
――私なら、アルトに勝ってくれると思ってた?
二人の繭は触れている。繭使い同士だからこそ、今まで、お互いの繭を触れさせて、その心を深く読むようなことはしなかった。記憶と心を直接交錯させるのは、これが初めてだった。
キリは、独り言のように、けれど問いかけるように、胸中で告げる。
――アルト、あなたのことは許せない。
――でも、他にどうしようもなかった?
――私は、それに気づいてあげられなかった?
空中に放り出された光る糸の一本一本は、地面につく前に、風に溶けて消えた。いくつかの大きな束が屋上の床に着くと、氷の粒が焼けた鉄に触れたように、砕けて散った。
――だめだな。
――こんなはずじゃなかったのに。
――私たちは、もっと……
やがてアルトの右手が、大きく空を掻いて、止まった。
「私たち、本当は……きっと、もっと――」
「僕の繭使いでは、人間を即死はさせられないけれど」
――でも……そんなの、夢みたいな、話……
「君の体を、極端に衰弱させた。……何を笑っている」
屋上に風が吹いた。せいぜい、紙くずを転がすくらいの、弱い風が。
キリはそれだけでたたらを踏み、なすすべなく、屋上の端へ流されていく。
体の中身が抜き取られてしまったかのようだった。
自分の体だとは思えない、ただの木偶人形が首から下に繋がれているように、軽く、情けなく、頼りない。
屋上の端には柵がある。キリは立っていられず、そこへもたれた。
今度は空き缶を転がす程度の風が吹き、キリは体が少し浮いて、柵を乗り越えてしまい、屋上のへりへと押し出される。
柵をつかもうとする手には、力が入らない。
「これから、……どうするつもりなの」
「なるようにして、好きに暮らすよ。多少身辺が騒がしくなるかもしれないけどね、大した問題じゃない。僕が殺人を犯したわけでもないから。僕の障害はほとんどが取り除かれたしね。生きやすくなると思う」
「欲しいものだけを手に入れるって、……本当の正解じゃないと思う。アルト、いつかアルトが、もし」
「もし、とかいつか、の話なんかしない」
「アルト、いつか、私たちが」
雨の混じった風が吹いた。
キリの体が、屋上からこぼれ落ちた。
クツナはキリの部屋のドアを離れ、既にアパートから出ていた。
かすかに、聞き知った声の話し声が聞こえる。
「屋外にいるのか? でもこの声、どこから……上?」
アスファルトの上に立つクツナが空を見上げるのと、キリの体が空から降ってきたのは同時だった。
キリの細い体が、鈍い音を立ててアスファルトの地面に打ちつけられる。横たわって動かないキリの横で、クツナは数瞬、動けずにいた。
「キリ」
名前を呼ぶ。しかし、答はない。ぽつぽつと細かい雨粒がキリの体を叩いている。
クツナはひざまずき、キリの繭に触れた。そして、そのあまりにひどい状態に絶句した。ここまで崩壊させられた繭を生きた人間がまとっているのを、初めて見た。
自分の繭をキリのそれに接続し、さらに細かく状況を把握する。
頭を打ったり、他にも致命的な損傷があれば、クツナの力ではどうにもならない。しかしどうやら、頭蓋骨はほぼ無事なようだった。打ち所がよかったのか、脳や臓器に大きな破損は見受けられない。
アパートがもう一階高ければ、こうはいかなかっただろう。しかし、だからといって楽観的にはとてもなれない。
ダメージがないわけではなく、キリの体自体もひどく弱っている。
骨折していると思しき個所もいくつもあり、道路に二筋ほど、血も流れ出している。
0
あなたにおすすめの小説
百合ランジェリーカフェにようこそ!
楠富 つかさ
青春
主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?
ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!!
※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。
表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
ちょっと大人な体験談はこちらです
神崎未緒里
恋愛
本当にあった!?かもしれない
ちょっと大人な体験談です。
日常に突然訪れる刺激的な体験。
少し非日常を覗いてみませんか?
あなたにもこんな瞬間が訪れるかもしれませんよ?
※本作品ではGemini PRO、Pixai.artで作成した生成AI画像ならびに
Pixabay並びにUnsplshのロイヤリティフリーの画像を使用しています。
※不定期更新です。
※文章中の人物名・地名・年代・建物名・商品名・設定などはすべて架空のものです。
あるフィギュアスケーターの性事情
蔵屋
恋愛
この小説はフィクションです。
しかし、そのようなことが現実にあったかもしれません。
何故ならどんな人間も、悪魔や邪神や悪神に憑依された偽善者なのですから。
この物語は浅岡結衣(16才)とそのコーチ(25才)の恋の物語。
そのコーチの名前は高木文哉(25才)という。
この物語はフィクションです。
実在の人物、団体等とは、一切関係がありません。
上司、快楽に沈むまで
赤林檎
BL
完璧な男――それが、営業部課長・**榊(さかき)**の社内での評判だった。
冷静沈着、部下にも厳しい。私生活の噂すら立たないほどの隙のなさ。
だが、その“完璧”が崩れる日がくるとは、誰も想像していなかった。
入社三年目の篠原は、榊の直属の部下。
真面目だが強気で、どこか挑発的な笑みを浮かべる青年。
ある夜、取引先とのトラブル対応で二人だけが残ったオフィスで、
篠原は上司に向かって、いつもの穏やかな口調を崩した。「……そんな顔、部下には見せないんですね」
疲労で僅かに緩んだ榊の表情。
その弱さを見逃さず、篠原はデスク越しに距離を詰める。
「強がらなくていいですよ。俺の前では、もう」
指先が榊のネクタイを掴む。
引き寄せられた瞬間、榊の理性は音を立てて崩れた。
拒むことも、許すこともできないまま、
彼は“部下”の手によって、ひとつずつ乱されていく。
言葉で支配され、触れられるたびに、自分の知らなかった感情と快楽を知る。それは、上司としての誇りを壊すほどに甘く、逃れられないほどに深い。
だが、篠原の視線の奥に宿るのは、ただの欲望ではなかった。
そこには、ずっと榊だけを見つめ続けてきた、静かな執着がある。
「俺、前から思ってたんです。
あなたが誰かに“支配される”ところ、きっと綺麗だろうなって」
支配する側だったはずの男が、
支配されることで初めて“生きている”と感じてしまう――。
上司と部下、立場も理性も、すべてが絡み合うオフィスの夜。
秘密の扉を開けた榊は、もう戻れない。
快楽に溺れるその瞬間まで、彼を待つのは破滅か、それとも救いか。
――これは、ひとりの上司が“愛”という名の支配に沈んでいく物語。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる