棘を編む繭

クナリ

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第四章 10

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「生きているのか」
 しゃがみこんだクツナの背後から、場違いに落ち着いた声が聞こえた。
 振り返ると、さほど表情豊かとはいえない普段よりもことさらに無表情なアルトが、そこに立っている。クツナは叫びそうになる喉を押しとどめて、口を開いた。
「アルト。ひとまず僕は応急処置をする。救急車を呼んでくれ。その後、話をしよう。聞きたいことがたくさん……」
 しかし、アルトは返事をせずに、背中を向けて歩き出した。その先には、ここまで乗ってきた自転車がある。
「アルト?」
「風邪を引くなよ、クツナ。雨が冷たい」
 こともなげにサドルにまたがるアルトに、クツナの感情が弾けた。
「待てよ! ここへ来い! 僕だけじゃ、救急車が来るまで容体を維持できないかもしれない! ただでさえ繭がひどい状態で――」
「僕が困ることは何もない」
「そんなセリフ、吐くような奴はろくなも」
「信じるなよ、何も。僕のことも、そんな信じ方はするな」
 アルトがペダルを踏みこむ。
「待ってくれ。頼む。行くな……キリを――キリを、助けて!」
 こんな、すがるような頼み方は、クツナは今までにした覚えがない。
 アルトはそれを聞くと、何度か軽くうなずいた。
「じゃあね、クツナ。また明日、学校で」
 そう言い残して、アルトは走り去った。
 クツナは、頼れる存在がこの場から失われたショックと、決して頼ってはならない脅威が去ったことの安堵を、同時に味わっていた。 
 急いで救急車を呼び、それからクツナは再度キリの繭に触れる。
「クツナ」
「キリ! 動くなよ、大丈夫だからな」
「ごめん、私……アルトを」
「後で聞く。先にお前の体だ」
「頭、かばったし、あちこちすごく痛いけど、何とか……。それより、私の繭、ひどいね……なんだか、スカスカのボロボロになってる」
「いくらかなら、しばらくすれば回復するさ」
「いくらかかなあ、これ。なんだか、風邪引いただけで死にそう」
 苦笑するキリの上で、クツナの両腕が舞い始める。
「繭使い? ここで?」
 雨を受けるアスファルトが、濃く変色している。雨足は強まりつつあった。そのお陰で人通りも少ないのが、いいことなのか、悪いことなのか。
 しかし、クツナは迷わなかった。
 繭をよく見て分かったが、思ったよりもキリの状態は悪い。衝撃で痛覚がマヒしているようだが、骨や筋肉に活力がなく、細かい骨折や筋肉の断裂は数えきれない。休めば回復するというより、放っておくだけで朽ちて行ってしまいそうだった。
 こんな状態で今まだ口がきけるというのは、ほとんど奇跡に近い。内臓も、今にも活動を止めてしまいそうだった。
 クツナには、アルトがキリにここまでのことができてしまうということが、信じられなかった。しかし、今は全ての雑念を頭から追い払う。
「救急車に乗ったら、当分僕には手の出しようがないだろ。繭がこれじゃ、治せるケガも治らない。軽く麻酔するけど、痛みが弱くなったからって動くなよ」
「分かってるって……でも、体のケガを治すだけの繭の量が足りないよ。ほとんどちぎられちゃったから。ほんとに、首から下が人形みたい」
「他で補填する」
「まさか、クツナの繭?」
「いや……僕の繭を、拒絶反応なしでキリに組み込めるような技術は僕にはない」
「確かに、特に異性だと厳しいかもね……」
「キリの繭を、全身から少しずつかき集めて切り取り、身体の健常維持に関わる部分につぎ込む。まず内臓、次に外傷だな。それから全体の強化――というより回復。他に多少影響が出ても、許してくれ」
「待って。私の、何の繭使うの? どこのどんなやつ? 言っとくけど……」
「体のダメージに直接影響しない部分から選ぶと、中心的な材料になるのは、記憶の繭だ。なんとかだましだまし包帯代わりにして、なじませて――」
「言っとくけど、記憶はダメだから! そんなことしたら、体が治っても思い出が消えちゃう!」
 叫んだキリが、せき込む。落下の衝撃だけでなく、肺や気管支も弱っている。
「他に適当な素材はない。生活に支障が出るような、根源的な記憶は残す。それ以外は」
「それ以外って、何!? 私と、クツナやアルトの! この規模の治療をしたら、ほとんど忘れちゃうじゃない!」
「僕らのことを忘れても、キリは生きていける。今下手をすれば、どんな後遺症が残るか分からない。繭をできる限り治して、あとは医者の世話になる。それしかない」
 クツゲンの指は全て切れた。アルトの父親も、もう繭使いに期待はできないだろう。このキリの壊滅状態の繭がそのままでは、医療の効果も減衰する。今手を尽くさずに、何らかの悪影響がキリの体に残った場合、どれほど後悔することになるか、クツナは想像しただけで腹の底が冷えた。
「記憶って、私の人生だよ。それをなくしてなんて」
「その人生は、まだ続くんだ」
「嫌だ、そんな。……せっかく会えたの。小さい頃、私は出会えないんじゃないかと思ってた……家とは違う居場所……私と同じ、一緒の、仲間……それなのに」
 クツナは、繭を繰ってキリの意識を薄れさせた。
「目が覚めた時、キリは僕らのことはろくに覚えていないかもしれない。でも、また出会えるよ。僕はこれからも傍にいる」
「クツナ、……」
「何かを失くすわけじゃない。やり直すだけだ。だから」
 短い沈黙。その間、二人の視線は外れずにいた。
「クツナ」
「ああ」
「笑わないでね。私、なんとなく、なんとなくね」
「笑わないよ」
「記憶がなくなっても、クツナのことは忘れないような気がする」
 二人の視線が合った。ほんの少しの沈黙。
「やっぱり、笑ってる。そんなことがあるわけないって」
「笑ってない」
「忘れないから、絶対。約束。そうして、私たち、また、三人で」
 そこまで言って、キリは気を失った。
 クツナの両手が素早く動いた。言語や習慣などの生活の維持に必要な部分を除いた、いわゆる思い出と呼べる部分の繭を、手早く切り出していく。なだめるように形を整え、切断面をほぐし、損傷して機能不全に陥りかけている内臓の繭につないだ。多少ぎこちないが、これで自己治癒するだけの活力は得られるだろう。
 数分後には、救急車が到着する。それまでに終わらせなくてはならない。
 それは、数時間前に路地裏で少女を治したキリに、勝るとも劣らない速さと、無謀さだった。
 クツナの指は、そのせいで二本切れた。
 施術の最中、キリの繭に触れていたクツナの脳裏に、痛みとともに、繭が持つ記憶が流れ込んできた。
 家族や学校での思い出が少ない。これだけだったら、とても体の立て直しには足りない。
量も質ももっとも豊かだったのは、クツナとアルトとの思い出だった。
 記憶の繭を、内臓やその他の体組織を支えるものに変質させるのは、思い出を入れた墓穴に土をかけるような感覚だった。
 そして最後にクツナは、このアパートの屋上で、キリがアルトに何をされたのか、その記憶を見た。
 何か固いものがこすれ合うような、不愉快な音が響いている。
 クツナが、それが自分の歯ぎしりだと気付いたのは、救急車のサイレンがけたたましく鳴り響いた時だった。
 雨はついに、豪雨に変わっていた。
 叩きつけるような雨音の中、クツナは、空に向かって絶叫した。
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