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第三章 痕(きずあと)
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しおりを挟む「あ、ごめんなさい、話変な方にいっちゃって」
「変じゃねえよ。そっか、真名月さんはそうなんだな。親父は、……あれは買春までやってたな、たぶん。クソ野郎だよ」
蓮乃くんの、コーヒーを持つ手が震えた。
「でもさ、おれ、嫌いになれねえんだ親父のことは。小さいころから週末はいつも家族サービスしてくれたし、旅行にも何度か行った。生活費は普通に入れてるし、今のところ困窮してるってこともない。とりたてて華々しいとこがあるわけじゃねえけど、家族を大事にする、地味でも立派な人だと思ってた。……そうなると、おれの嫌悪感て、相手の女の子に向かっちゃうんだよな。ま、一人じゃないのかもしれんけどな」
蓮乃くんが自嘲気味に笑った。
その目はもう私に向かずに、視線は地面に落とされている。
「男手玉に取って金巻き上げて当たり前のような顔してるなんてやつ、ろくでもない女に決まってる。親父の相手の子はおれと同じような年恰好で、たぶん高校生なんだろ、ずいぶんすれたことできちゃってんだなあって、金はあっても落伍者だよなって。まあ需要があるから供給してるだけだもんな、どうせ開き直って未成年をブランドにして荒稼ぎしてんだ、いつか後悔する日が来るはずだ、……とまあこんな具合に、人様の不幸を願ってたわけだよ。情けないだろ。でも――」
蓮乃くんが顔を上げた。
私と目が合い、思わずびくりと肩が震えてしまう。
「――でも、真名月さんがいた」
「私……?」
「そ」
「私は、……それこそ、パパ活してた人なんだけど……」
「なんの得もないのに、クラスではぐれ者みたいになってた鈍村さんと、仲良くしてるだろ」
「してる、けど、それは特に私が人格者だからとかじゃなくて、単純に気が合うので……得とか損とかは、あんまり考えたことが」
「それがいいんじゃねえか、損得なしっていうのが。あと、人から金巻き上げるのが当たり前なやつは、紅茶一杯もらって、あんなハトが豆鉄砲食らったような顔はしねえよな。そういう子もいる」
「それは、……そうかもね?」
蓮乃くんの話は、ところどころ飛び飛びになる。
だから、彼が抱いていた葛藤が私に理解できたわけじゃない。
でも。
「おれはパパ活してるやつらを見下しながら、できることなら、話したこともない人間を、一面だけ見て決めつけるような、そんな勝手なやつにはなりたくねえとも思ってはいたよ。だから、証拠が欲しかったんだ。パパ活とか援交とかひとくくりにしないで、人によっちゃそいつごとの事情があったり、誤解があったりするはずで、それを汲める向き合い方をするべきなんだって思えるような、生きた証拠が。……いや、なに言ってんだろうな、おれ。人を、真名月さんを証拠扱いして」
「ううん。きっかけになれたってことだよね。それが……さっき言ってた、私への恩?」
「そう。あー、なんか語っちまった」
蓮乃くんがコーヒーをあおった。
私も、だいぶ温度が落ち着いてきた紅茶を喉を鳴らして飲む。
「あ、じゃあこの紅茶ってテストみたいなものだったの? おごってもらって、私が平気な顔してるかどうか?」
「え!? いや違う違う、それは今思っただけ! これ買ってきたのは純粋なる善意であり好意! あ、飲み終わったか? じゃあ、空いたカップもらうよ」
蓮乃くんがすいと出してきた手に、私の紙カップは素直に受け渡されていった。
これから学校のごみ箱で捨てるんだろうから、私が持って行ってもいいのに。
やっぱり彼には、私にはない自然な思いやりがある。
その蓮乃くんが、二つのカップを手に、動きを止めた。
「どうかした?」
「いや。今、ふと思い出して。……援交してる男って、こういう女子が食べ終わった後のごみみたいなの持って帰るやつがいるっていうけど、なにに使うんだろうなって」
「……返して」
「おれはなんもしねえよ!? ちゃんとこの後すぐに、適正に処分します!」
そして、二人で笑いながら、買い物をした袋を持って、学校へ向かう。
なお、八割ぐらいの荷物は蓮乃くんが持ってくれた。せめてもう少し分担しようと言っても、体力と腕力の差から考えるとこういう配分になる、と言って譲らない。
「おれさあ、親父のあれ見ちゃってから、いろんなこと考えてたんだ。もし、万が一、親父がパパ活じゃなくてまじであの時の子が好きで、家族を捨てたりしたらどうしようとか」
「それは……ないと思うけど……」
「万が一だよ、万が一。でもさ、女子高生の側としてはどんなもん? 客じゃなくても、いい年した男が、本気で君が好きなんだって言ってきたら。好意を寄せられて、一応嬉しいもんなの?」
「いや……ええと……」
考える。
その様子を懸命に想像して検討するのではなくて、一瞬で出る結論を、どのくらいのオブラートに包んで伝えるべきか。
「いや、悪い。考えるまでもねえよな」
「うう」
「気色悪い、一択だろ?」
「……はい。ごめん……」
蓮乃くんがため息をついた。
「謝らんでくれ。すげえ分かるから。あ、あとさ、真名月さん。連絡先交換しねえ?」
「連絡先? ……とは?」
「いや、だから、電話番号とか、SNSのIDとか」
「……今?」
蓮乃くんが、首を突き出した。
「え、今じゃないほうが変じゃね?」
「……私、特に電話番号を教えるのは少しまごつくと思うけど、それでよければ」
「まごつく? なんで?」
「あんまりやったことないんだ。友達が少なくて」
「はは。ちょうどいいじゃん、おれで練習しなよ」
蓮乃くんは、手慣れた様子で、電話番号とメッセージアプリのIDを交換してくれた。
その経験値の差は、なんだかちょっと悔しい気がする。
学校に着くと、教室には半分くらいの人数が残っていた。事前の設営に割り振られたメンバーなのだろう。当日の接客のシフトが多い人は、事前準備で負う作業が少なくなっている。
蓮乃くんは、ドアをくぐって教室に入る前に、私に小声で言った。
「ありがとうな」
「え?」
「親父のこと、あんなふうに話して、ちゃんと聞いてくれる人がいたらいいなって思ってたんだ。凄く気が楽になった。おれが、普通より思いやりがあるって? 真名月さんのほうが、ずっといいやつだよ。これからも、よろしくな」
「えっ。あ。うん」
なにをかは、判然としないものの。
なにかを誉められた、らしい。
「おーい、ただいま! どんどん進めちゃおうぜ!」
蓮乃くんが大きな声でクラスメイトに言う。
私は目立たないように教室に入り、さっきまで作業していた場所に戻った。
それから一通りのノルマを終えて、帰る時間になり、下駄箱に行くと、鉄子がいた。
「あれ、鉄子?」
「お疲れ」
「待っててくれたの? 道混むから、帰りにくい時間になるのに」
「さっきまで、私も作業してたからな。珍しく。周りと距離とって、一人で」
「そっか。……なにか、怒ってる?」
「別に、なにも怒ってはいない」
そうは言うけど、どこか、視線がじっとりと湿っている。
「機嫌悪い?」
「いいや。全然。……ずいぶん楽しそうだったじゃないか、今日は」
「そう? 段ボールに色塗ったりするのは、人と話すことが少ないから気が楽ではあったけど」
「違う。教室じゃなくて、買い出しに行った時だ」
あ。
そういえば、鉄子には、私のパパ活が蓮乃くんに見られていたことは、言ったほうがいいのかな。
いや、だめだ。蓮乃くんが内緒にするって言っていたんだから、私もそうしないと。……正直、こういうところの状況判断が私は凄く苦手なので、間の抜けた考え方をしているかもしれないけれど。
「……リツ?」
「あ、ううん、なんでもない。楽しかったというか、慣れないことだったので……」
「浮かれてたか?」
「浮かれ? なんで? そんなふうに見えた? え、鉄子ついてきてたりしたの?」
まるで気がつかなかったけど。
「別についていってはいないっ」
「そうだよね」
「途中までしか」
「来てるんじゃない。心配しなくても、男の子でも蓮乃くんとは普通にしゃべれるから、連絡先とか交換しただけだよ」
今日はなんだか、普通ばかり言っている。
「なっ? 人と、れ、連絡先を……リツが……?」
「そのうろたえ方、傷つくんだけど!?」
半眼になった私の視線を遮るように、鉄子が、黒のマフラーをぐいと鼻の上まで上げた。忍者の覆面みたいだ。
「もういいっ。ほら、帰るぞっ」
急かされて、ローファーを履く。
そして私たちは、連れ立って歩き出した。
もちろん鉄子は、人に当たらないように気をつけて帰宅しなくてはいけない。
その緊張感を私も保ちつつも、父親の犯罪のことがあってから何度目かの、気持ちがふっと楽になった一日だったような気がした。
蓮乃くんの話を聞いて、驚いたせいかもしれない。
こんなふうに、これからいろんなことが起きて、今までにあった嫌なことも上書きされて、忘れていくのかな。
そうだといいな、と思う。
学校を出て、表通りへ。
人通りの多い歩道を、鉄子と注意して歩く。
横断歩道を超えて、駅の向こうの裏通りまで。
相変わらず、表通りが混む時間でも、裏通りはまるで別の町のように静かだった。
私は、鉄子の家まで一緒に歩いた後、引き返して電車に乗る。
鉄子は無駄足を踏ませていると言って気にするけど、鉄子とゆっくり過ごせるこの時間を、私は無駄だとは思わない。
「鉄子」
「ん。どうした?」
「私、きりのいいところでパパ活やめようと思う。前に設定した目標金額には届かなそうだけど、なにかほかの、割のいいアルバイトとか探そうかなって。受験勉強が本格的になる前にある程度貯めちゃいたいな」
「……そうか。いいと思うよ。でも、どうしてまた?」
「心配してくれる人がいたからさ」
「……ほお。今日の男か?」
「いや、クラスメイトを今日の男っていう言い方はどうかと」
「私のほうが前から心配しているのに」
あれ。
表情の変化が分かりにくい――そもそもマフラーでいつも以上に顔が隠れているのもあり――けど、もしかして鉄子、すねてる?
「あ、だから、鉄子のおかげで、そういう考え方ができるようになったってことだよ。最初のきっかけは鉄子だってば」
「取り繕うようにどうも」
あ、ああ、もう。
ふくれた友達の機嫌の直し方なんて、私に分かるわけがない。ただひたすら、右往左往するだけだった。
鉄子に一番感謝しているのは確かなのに。でもそれを今慌てて口にしても、かえって真実味がない気がする。
「私だってな――」
鉄子のその声は、消え入りそうなくらい小さかった。
「――私だってな、本当はもっといろんなことができるんだ。どこかに出かけたり、家で一緒に過ごしたり、……伝染さえ、しなければ」
その声の小ささと反比例するように、私の胸の中で、巨大な欲望が首をもたげた。
私が一度口に出して、今日までにも何度も考えてきたこと。
――鉄子を治したい。
どうしても。
悠長なことなんて言っていないで、できるだけ早く。
今こうしている間にも、鉄子は自殺願望に蝕まれ続けているはずだ。回復した傍から、また心も体も削られていく。それが毎日続いている。
それに鉄子のお姉さんがすでに治っていて、今は元気なのなら、「病気」を治すことができれば、鉄子が抱き続けている自殺念慮もなくせるのかもしれない。
お姉さんに会いたい。
迷惑かもしれないけど、鉄子が苦しみから解放される可能性があるなら、話を聞いてみたい。お姉さんだってそう望む可能性は高いはずだ。
前に鉄子に止められたけど、そこにしか突破口が見つからない。お姉さん以外の家族からは、鉄子と似たり寄ったりの話しか聞けなさそうな気がする。
でも、もし私が強引にお姉さんのところに行ったら、鉄子に嫌われるかもしれないな……。
私が鉄子から距離を置かれるとして、それもつらいけれど、今私と離れたら、鉄子はたぶん一人ぼっちになってしまう。
ひいき目なしに見て、今一番鉄子の近くにいるのは私だ。鉄子が、両親とあまり仲よくなさそうなのは、今までの様子からうかがい知れる。
ただでさえ、落ち着いて見えていても実は不安定な状態の鉄子を、一人にはできない。
かといって、なにもできずにいるのは耐え難い。
結局、「どうしよう」だけが何度も頭の中を駆け巡っていく。
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