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第三章 痕(きずあと)
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しおりを挟むそんなことを考えていたら、後ろから声がした。
「うわ本当だ、リスカ女と歩いてる」
振り返ると、別のクラスの女子が二人、私たちを見ていた。金髪のロングと、茶色いボブカットの二人。
二人とも顔には見覚えがあるけど、知り合いというほどの接点はない。
「えー、本当に堂々と普通に帰ってるんだ。あの黒女、ある意味、自転車とかよりやばい接触事故になるのに」
そして二人はけらけらと笑った。
明らかに、こちらに好意を持っていないのが分かる。なにか言い返そうとして、上手く言葉が見つからないでいる間に、鉄子に目配せで止められた。
相手にするな。行こう。鉄子はそう合図する。
けど、私は腹立たしくて仕方がない。
なんであんな言い方ができるんだろう。なにが楽しくて、人を嗤うんだろう。
「ちょっと、あの、あなたたち」
「よせ、リツ」
「だって」
「話して分かる手合いじゃないんだよ、ああいうのは」
それが聞こえたのだろう、二人が鼻白んだ。
金髪の子が言ってくる。
「黒女、なにその言い方。ていうか触ったら手首切るとか、全然意味分かんないんだけど」
ボブの子が続いた。
「横の女もさあ、なんか二人でよくいるっていうよね。そいつが平気なんだったら、リスカうつるってのも嘘なんじゃないの」
そして二人はつかつかと寄ってきた。
鉄子が一歩引く。
「おい、お前ら、私に触るなよ。痛い思いをするのはお前らだぞ」
けれど金髪のほうは、顎をくいと突き出して吐き捨てた。
「あーはいはい、そういうのいいから」
鉄子が、落ち着いた低い声で言う。
「私を嗤うのはいい。それはお前たちの問題で、親でもない私には止められないからな。お前らがどういう人間であるかはお前らの勝手だ。それでも、しなくていいけがはしないほうがいいだろう」
それを聞いてさらに踏み出してきたのは、ボブのほうだった。
「はあ? なに上から!?」
「おい、私に触るな!」
「上から、上からア!」
そしてボブの子は、鉄子の額をぱしんと叩いた。
「鉄子!」
金髪の子が、「西村!?」と驚いた声を出す。ボブの子の名字が分かったところで、別にありがたくもないけれど。
「大丈夫だって、あー人のデコとか触ってちょっと気持ち悪。けど触ると死ぬとか嘘に決まってんじゃん。ユウもやる?」
鉄子の、マフラーから覗く顎がこわばっている。歯ぎしりをしているんだ。
私は鉄子に、小声で訊く。
「鉄子。今……」
「ああ。うつった。感染させた。感覚で分かる」
小声で答えた鉄子が、今度ははっきりした声で告げる。
「おい、ユウとかいうんだな、金髪頭。そのおかっぱ連れ帰って、刃物がないところに縛りつけとけ。友達に死んで欲しくないだろ」
「はあ? だから、なんでお前さっきから偉そうに……西村?」
ボブの子の顔から、つい今の今までの、憎々しげな表情が消えていた。
感情の起伏がない顔で、薄いバッグを開けると、中からポーチを取り出す。
そのジッパーを開けて、取り出したのは。
「西村、なにやってんの。それハサミ?」
ボブの子は、小ぶりなハサミをいっぱいに開いてわしづかみにすると、刃を左手首に当てた。
「西村!?」
ガリッ、とハサミの刃が白っぽい皮膚を引っかく。カッターナイフほどの切れ味がないので、切れはしなかった。でも、赤い筋が浮いて血が滲みだしていく。
そこへ、ボブの子は無言のまま、ためらわずにもう一撃を加えた。肘を上げ、体をかがめて、一度目よりもさらに力を込めている。少量の血がしぶいた。
その腕を金髪の子がつかんだ。
「西村、やめなよ! だめだって! おい、お前らも止めろよ!」
金髪が叫んだ。ボブのほうは、「やだ……悪くない、あたし……あいつが勝手に」と呟きながら、涙とよだれを流している。
でも、鉄子は落ち着いた声で答えた。
「このところ、発症が早いやつが多いな。対処がしやすくて助かる。悪いけど私は触れないんでな。一晩だ、それだけ耐えたらなんとかなるよ。私だって人に死んで欲しくはない」
そう淡々と告げる――触れられないのでそれしかできない――鉄子はともかく、ハサミでは死にはしないだろうけど、私はボブの子を止めないといけない。
鉄子は表には出していないけど、今、ショックを受けているはずだ。自分のせいで傷ついている他人を目の前で見て、平気な性格ではないのはもう分かっている。
とにかく一度ボブの子の腕を縛ってでも、落ち着くまで見張っておかなければ。
彼女のためというよりは鉄子のために、踏み出した時。
金髪の子の甲高い声が、私の耳朶を打った。
「お前黒女、まじかよ! こんなの異常過ぎるだろ! 死んだほうがいいよお前、誰もお前なんかにいて欲しくないから! 迷惑だから死ね! まじお前一生一人で、絶対死ぬまでどっかで一人でいろよ!」
金髪の子にすれば、目の前でいきなり起きた異常事態に、混乱して口にした言葉だったのだろう。
でも、今の私には見過ごせない言葉だった。頭の芯がかっと熱くなる。
それは間違いなく、鉄子が自分で何度も反芻してきた言葉に違いなかったから。
鉄子を一人にはしない。あまつさえ、自殺念慮のままに死なせなんてしない。
そのためになにができるだろう。私の「どうしよう」の答は、なんだろう。
私は、自分なりになにかをしようと思う時、よく状況判断を間違える。
パパ活もそうだった。
この時も、おそらくは。
私は、金髪の子に詰め寄った。
ひどい形相をしていたのだろう。彼女は怯えた表情になり、「なんだお前」と言って私の胸を平手で強く突いた。
たたらを踏んだ私の背中が、なにか、薄くて軽い板のようなものに触れた。
振り向くと、それは鉄子だった。
鉄子は私の背中に押されて、後ろに倒れ込みそうになった。
とっさに手を伸ばす。そして前に突き出されていた鉄子の左手を、私の右手で捕まえた。その手を引っ張ると、鉄子の手袋がするりと脱げた。
私は慌てて、またもとっさに、今度は左手を伸ばした。
素手の鉄子の左手を、私の左手が、握手の要領でつかむ。私は初めて、鉄子に触れた。
鉄子が目を見開いて、振り払おうとした。それを察した私の体が、どうしてなのか、反射的に、指を絡めるようにして強く握り直した。
鉄子が、それを見て、顔色を失ってさらに強く振り払おうとする。
けれど、今度は私の全身の関節が硬直して、それを阻んだ。
自分の意志で身動きができない。
その強くつないだ肌の全面積から、ぞっとするような――見えない悪霊が無理矢理体に入り込んできたような――怖気が、一息に私の手の血管と神経を侵してさかのぼり、背骨まで這い上がってくる。
これが――伝染。
「リツ……!」
金髪の子も目を剝く。
「お前」
初めて触れる鉄子の指は、ひんやりとして、でも少し湿り気があって、浅瀬を泳ぐ魚を思わせた。本当なら、とても心地よいはずなのに。
私は、もがいているボブと抑え込む金髪、それに鉄子に向けて言った。
「鉄子に触れたって、……死んだりしない。その子も私も。鉄子も一人になんてならないし、死にもしない」
鉄子が、とうとう力任せに私の手を振り払った。
「リツ! くそ、金髪頭、ほら!」
鉄子黒い手錠を投げ渡して、続けて叫ぶ。
「早くそいつ安全なところに連れて行って、それで固定しろ! いいな、一晩だぞ!」
そう言われて、二人はよろよろと去っていく。
鉄子が私に向き直った。
「なんてことを。私は、リツにだけは……いや、そんなことを言っている場合じゃないな。どこか静かなところ……私の家でいいか、発症する前に親御さんに連絡を入れてくれ、友達のところに泊まるとでも」
「分かった」
私は努めて冷静に、スマートフォンを取り出して、お母さんにメッセージを送った。
外泊はあまりしたことがないけど、文化祭の準備の延長だとかなんとか適当な理由をつけて、手早く送信する。
あまり凝った文面を考える余裕はなかった。
これか。
足元から、真っ黒な蛇が這いあがってくるような予感がしてくる。
頭の後ろ、完全な死角から、私を包み込んで窒息させてしまいそうな、重くぬめりのある気体が忍び寄ってきた感覚。背骨が冷たい。
「聞こえてるよな、リツ。うちまで、ここからなら十五分くらいだ。着いたら私の部屋に行こう。大丈夫、一晩耐えればピークを越える。一度触れただけだし、感染としては、一番軽いやつだ。それで死んだ人は、まだいないからな」
ごめん、鉄子。
私、鉄子に黙ってたことがあるんだ。
私のつぶやきに、鉄子がえっと顔を上げる。
ううん、黙ってただけじゃない。嘘ついた。
私は、左手首のリストバンドをめくった。
いつも、この下を人に見せる時は、少しずらすだけにしている。手首も軽く曲げている。
そうすれば陰になって、手首のしわにも紛れて、よく見えない。色を選んで塗り込んでいるファンデーションも目立たない。
「リツ……それ……」
リストバンドはペイルオレンジ。
さなみにあげたものとお揃い。
ファンデーションは、リストバンドについても、同じような色をしていて。
だからさなみもお母さんも私のそれに気づかない。
私の皮膚が若いせいか、切り方によるものなのか、今では一見しただけでは分かりにくいくらいに落ち着いた。
でも、私がかつて自ら刻んだその傷跡は、鉄子にも見えるように爪で強くこすってファンデーション落とすと、淡く赤黒く浮かび上がってきた。
「私、手首切ったことあるんだ。……まずいんだっけ」
でも死なない。
口元に、なんとか微笑みを浮かべる。
目の前がちかちかして、細かいモザイク模様が、視界の四方から侵食してきた。
「リツ……歩けるか? 私は、リツの手を引けない……私の家まで、来れるか!?」
当たり前でしょう。
頭を振って、前を見る。
泣きそうな鉄子がいた。
そんな顔をさせたくなかったな。
悪寒が背筋を這い上ってくる。
頭蓋骨の裏側から、ざらざらとか、ねっとりとか、ぶちぶちとか、ありとあらゆる嫌な感覚が溢れて、形のない恐怖が込み上げてきた。
でも、なにがあっても、私は死なない。
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