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第四章 感染
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しおりを挟む父親に棄てられた。
あんな人でも、父親だった。でもあの人は、一度犯罪を犯した後もやめなかった。家族が傷つくと知っていたのに。自分の欲望を満たすことを優先させた。
私の優先順位なんて、その程度のものだったんだ。
そんなふうに考えたことがなかったわけではないけれど、とらわれるほどのことでもないとも思った。でも今は、その父親の記憶が、尋常でなく屈辱的な、私の人生に取り返しのつかない深い染みをつけられたような不快感を伴って、まざまざとよみがえってきた。
「どうだ……?」
うん、平気。
そう答えたいのに、空気が上手く吐けない。
さなみのことを考える。姉として、さなみを学校に復帰させてあげられないことを、きっと頼りなく思われているんだろう。
もっと有能な姉がいればよかったのに。もう愛想をつかされているかもしれない。こうしている間にも、私のせいで、妹はまた自殺を図っているかも。
なんとか鉄子の家まで自分の足でたどり着いたけど、二階の鉄子の部屋に入ると、もう立っていられなかった。
鉄子が、学習机のすぐ横に布団を敷いてくれて、私の右手首に触らないようにしながらタオルを巻き、そこに黒い手錠――いくつか持っているみたい――をはめて、机の脚とつないだ。
左手首にもタオルを巻いて、その上からガムテープでぐるぐる巻きにされて、こちらは部屋のドアノブまで長く伸ばした荷造り用のビニールひもで縛られている。
鉄子が家の中のものを色々探してくれたけど、ものがあまりない家のようで、私の手を固定するのにちょうどいい道具がほかに見つからなかったらしい。
下半身の上には、折った敷布団が三枚ほど、身動きできないよう重しとしてどっしりと乗せられていた。
私のお母さんは、あまり気が強いほうじゃない。だからはっきり言わないけど、私のことをきっと嫌っている。もっと可愛げがあって、父親が罪を犯す前のさなみみたいな子供のほうがいいはずだ。
そうだ、さなみがいるんだから、私はいなくたっていい。そうすれば生活費や学費も、さなみの分しかかからないで済む。子供が二人いるって、便利だ。一人いなくなってももう一人がいる。私がいなくなれば、お母さんはあの父親の遺伝子を持つ人間がこの世から一人減って、喜んでくれるに違いない。
考えれば考えるほど、私はもう死んでいい。誰も困らないし、悲しんだりしない。私には友達がいないし、家族にだって嫌われているんだから。
むしろ、いなくなったほうがいいことずくめだ。
今や私の思考の大部分は、そうした、今までの嫌な思い出や、表面化させることのなかったコンプレックスを、ひどく鮮明にすることで占められていた。
これが、フラッシュバックか。確かにきつい。生きたいことへの意志とか、生きようとする理由が一つずつ剝ぎ取られて、選択肢の矢印がことごとく自殺願望に向かっていく。
どんどん、自殺に活路を見出していく。
でも、これは分かっていたことだ。台風に備えてガラスをカバーで覆うように、あらかじめ知っていれば、対応できる。――はず。
「てつ、こ」
「ん?」
吐きそうなほどの悪寒とだるさが強まる中で、なんとか声を絞り出した。
「鉄子、私のことで、親から怒られたり、するかな……」
「親? さあな。たぶん、今日は帰って来ないよ。週末ならいたかもしれないけどな」
普通の状態なら、鉄子の家の事情をあれこれと訊くいい機会だったかもしれない。
でも、今の私はそれどころではなかった。
私が無意識に何度も力いっぱい腕を引くせいで、重い机がずれかけているし、鉄子が私に直接触れないようにしながら苦労して結んでくれたビニールひもは、二重でも三重でも頼りなく、もう四重になっている。
「いざとなれば、救急車を呼んでやるからな」
「だめ、だよ……鉄子が、騒ぎに、なっちゃう……」
フラッシュバックは続いていた。一度頭の中にひらめいた記憶と悲観的な思考は、何度も何度も激しく明滅して、その隙間に別のトラウマが次々に差し込まれてくる。
最悪の気分だった。だからこそ強制的に深呼吸する。気を楽にして、天井をぼんやり見る。
「そんなもの、リツの安全には変えられないね。ただ、下手すればリツ側の醜聞になりかねないし、事情を知らない人だと適切な対処がされるとは限らないから、可能な限り私がやってみるよ。といっても、縛りつけて動かさないってだけだけどな」
「鉄子は優しいなあ」
鉄子が困ったように笑った。
「なに言ってるんだ、そんなこと――」
「鉄子、手首切りたい」
表情は変わらない。口調も。お互いに。
でも、表面を取り繕っても、私の頭の中は確実に作り変えられていた。
「そうか」
「切らせて」
「どうかな」
鉄子は、変わらず淡々としていた。
私だけが、だんだんと言葉に熱を帯びさせていく。
「手首、切りたい」
「そう、そうなる。感染したからな」
「切らせて」
「でも必ずよくなるよ」
鉄子の目元がゆがんだ。
さっきからはぐらかすような答しか返って来なくて、私の持って行き場のない感情がうねり出す。
「手首ぃ。切らせてっ」
「そうだよな」
いつからか私は泣いていた。
「切って。じゃあ鉄子が切って! 手首!」
「私も、今すぐ死にたいよ。罪悪感で潰れそうだ」
「知らない! 切ってよ!」
「でも、ここにいるよ。ずっと傍にいる。今日のことを思い出して、きっと私はまた死にたくなる理由が増えるだろう。でも、離れない」
それから私の声は悲鳴のようになって、もう会話は成立しなくなっていった。
ばか、ふざけるな、切らせろ、これ外せ、鉄子、嫌い、嫌だ、切る、切る、お願い、ちくしょう、人でなし、死ぬ、死ね、ちくしょう、切る、殺すぞ、切れよ、お願い……
そんな言葉を口にした気がする。
小さいころ、なにかで癇癪を起した時に、両親に向かって泣き叫んだことがある。
子供らしい全力で、めいっぱいの声を上げて、あらん限りの力を振り絞って、この願いが聞き届けられるまでは決して後に引くものかと思ったのを覚えている。
でも、ほんの数分で疲れ切ってしまって、結局両親に適当にあしらわれたまま、私の決死の訴えは力尽きるままに終わった。
その時は大声を出して少しは気が済んだのか、幼い私はそのまま寝てしまい、起きたころにはすっかり機嫌を直していた。
たいていの場合、感情の爆発というのはそんなものだと思う。
一時間も二時間も同じ熱量を保って気持ちを燃焼できるようには、人間の精力と機能は設計されていないんだ。
それなのに、この日の私の絶叫は、何時間も何時間も続いた。
「あああ、……あー……!」
疲労はする。もう充分叫んだ、とも思う。
それなのに、お腹の下のほうと左胸の辺りから絶え間なく湧いてくる暗い熱風に吹き上げられて、声も涙も止まらない。
今にも気絶してしまいそうだ。
自分がおかしくなっているのも分かる。
なのに意識が途切れない。頭の奥、ほんの小さな片隅には、いつも通りの自分がぽつんといるのに、体に全く干渉できない。
思い出せるだけのトラウマはもう全部記憶の倉庫から総出になっていて、死にたいのに死ねないからそれでは物足りず、架空の悲劇までどんどん作り出されて、私をさいなんでいく。
手首を切りたい。そこに切れ目を入れて、傷口を大きく広げれば、嫌なものは血とともに残らずそこから排出されるのに。
そうしたら救われるのに。この嫌な場所から、頼んでもいないのに産み落とされてしまった世界から、抜け出すことができるのに。
顔の正面に空いているすべての穴から液体が流れているのを感じた。口からは、よだれだけではなくて、おそらく生まれて初めての泡を吹いているのを、唇の粘膜に感じる。
「ひぃ、ぎい、あああぐうう、……切らぜて、ああぎ……! ごおふ、じねええ……」
つらい。体にはとっくに限界がきている。それでも私はわめき続ける。人間の体はそんなことが可能なようにはできていないのに。
喉の奥から鉄錆めいた匂いがする。いや、匂いだけじゃなくて血の味もする。
鉄子への悪罵の語彙はとっくに尽きて、死ねと殺すしか口にしていない。もっとも、それさえも意味のないただの絶叫にしか聞こえていないだろうけど。
鉄子は、ずっと、私に触れないように、私の足の先にあるドアの前に膝を抱えて座っていた。
私の下半身に積まれた布団の横で、時々視線が交錯する。
鉄子のそれは、憐れむような目ではない。傷ついているふうにも見えない。ただ、こちらを見つめているだけの瞳。
もし鉄子がその双眸になんらかの感情を載せていたら、さらにそれが私を非難するようなものだったら、わずかに残った私の冷静さなんてどうなっていたか分からない。今の私は、目に映るすべてを死の動機に換算してしまっていたはずだ。
でも鉄子は温度のないまなざしをこちらに向けたまま、時折、私の絶叫に対して「そうだな」「そうかもしれないな」と相槌程度の返事をしてくるだけだった。
いつの間にか日が暮れて、たぶん深夜になったのだろうなと思えたけれど、私はもちろん鉄子も食事に行く様子はなかった。
途中から、ようやく、気が遠くなってきた。張りつめっぱなしの神経に限界がきている。
「ぎやあ……ぐう、ひいい……」
フラッシュバックは絶え間なく続く。
クラスから疎外されたこと。嫌がらせを受けたこと。嫌な噂を流され、濡れ衣を着せられ、笑われたこと。当時よりも今のほうが、なぜか心に与える傷はずっと大きかった。
やられたことは消えない。彼らはもう忘れているかもしれないし、他愛ない中学生活の一片の思い出に過ぎないのかもしれない。その屈辱がさらに痛みを増幅した。
同じ記憶の切っ先が、なまることなく、むしろ新鮮な鋭さが倍加されながら、私をえぐり抜いていく。
自分の汚い大声を鉄子に聞かせながら――耐えようと努力で来たのは最初の数分だけだった――、体中の筋肉が過労を迎えてなおこわばるのは、信じられないほどの苦痛で、心身ともに際限なく打ちのめされていった。
けれど、それを、もうすぐ酸欠が断絶してくれそうだった。苦痛にあえぐ肺が、呼吸に何度も続けて失敗している。脳の機能が落ちて、視界が暗くなっていく。全身の感覚が鈍ってきていた。
今に気絶できる。いや、したい。そうじゃないともうだめになってしまう。
そう願っていると、自分の大声のやかましさで動作不良を起こしそうになっている耳が、おかしな言葉を拾った。
「……鉄子」
真冬の嵐のようだった私の声が、急に凪いで、落ち着いていた。
ぼろぼろにしわがれてひどい声音だったけど、そこには理性が感じられた。
でも、私の思考ではなくて、肉体が勝手に紡いだような、機械的な、不自然な声だった。
「どうした、リツ?」
「トイレに、……行きたいな……」
トイレ。自分の口から出た言葉に、暗闇に落ち込みかけていた意識が少しだけ覚醒する。
そんなもの、まったく思い至らなかった。症状が出てから今まで、一度も頭によぎりもしなかった。
感染による悪寒とは別のうすら寒さが、背中に走る。
これは作戦だ。私のではない。なんとかして手首を切るために、死へ向けて自由になろうとする私の体が、勝手についた嘘だ。
感染によってこんなことが起きるのかと愕然としながら、私は鉄子に、私の言葉に耳を貸さないように言おうとした。
でもできない。もう、私の体の中で、私の意志で動かせる部分は、手足はもちろん喉にも残っていなかった。
「ねえ、いいでしょ……。今なら、少しなら、平気だから……」
「トイレか」
「うん……」
「本当に平気なんだな」
違う、鉄子。
今自由にされたら、私は間違いなく、あの台所に飛び込んで、ありかを知っている包丁で手首を切ってしまう。
きっと力いっぱい束を握りしめて、断頭台の刃を落とすように、左手ごと切り落としてしまう。
それを鉄子が見たら。
脳の片隅で、手錠を外さないでと力の限りに叫んだ。
でもこんなに近くにいて、頭の中でどんなに大きな声で叫んでも、不思議なくらいに、心のままの声は頭蓋骨の外には伝わらない。
「うん、平気だよ……。すぐ戻るから、大丈夫だよ……」
鉄子が、膝を抱えたまま口を開いた。
「でもだめだ」
それを聞いた私の体は、目を見開いて、手足をばたつかせ、打って変わって大声を出す。
「どうして!」
「どうしても。だめなものはだめだ。我慢できなければ、そこでしな。私は絶対に怒ったり責めたりしない」
「どうしてえええ!」
私の体は、この作戦が失敗すると、もう静かな言葉を出すことはなかった。
擦り切れた絶叫を繰り返して、狂ったように暴れ続ける。
鉄子が時折、ずれてしまった布団や机を元に戻して、また離れて座る。
筋肉も関節も骨も皮膚も、頭も喉も舌も顎も、私の体を構成するすべてがそれぞれに痛みを訴えて、麻酔なしに終わることなく歯を削られ続けているような苦痛が続き、そのせいでもう気絶するのは無理だった。
間違いなく、拘束もされずに一人でいれば、耐えられずに死んでいた。
なんらかの対策で手首を切らずにいられたとしても、正気のままで狂気の塊を飲み込むような思いをして、精神がまともでいられたとは思えない。
ただ、これを乗り越えれば、鉄子を救えると思った。
視界の端にぼやけながら映り続ける、黒い髪に黒い服のシルエットが、私を励まし続けた。
傍から見れば私は、病気の原因に自分から手を出して感染しただけの、ばかな子供だ。実際、私は今日までずっと愚かで、考えの足りない子供だった。
でも、こうしなければならない理由が、きっとあの時の私なりにあった。
食いしばった歯から、もう何百回目かの、首を絞められた鳥のような軋み音が鳴り響いた時。
本物の鳥の声が聞こえた。
ちゅんちゅん、と平和的で、ありふれた、どこか間の抜けた牧歌的な声。
窓を見た。空が白んでいる。
「……あ」
朝だ。
夜が、終わった。
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