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「赫の王」との闘い6
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(頑張れ。この痛みは永遠には続かない。もうあと、五分か、十分か、それ以上でも、絶対に耐えてやる)
雷蘭はくちばしを食いしばった。
己を鼓舞する脳裏の声は、雷蘭自身の声にも、切風の声にも、茉莉の声にも似ていた。
やがて、恒河沙の体が振り上げられる間隔が、少しずつ長くなった。
いいぞ。あたしが粘れば粘るほど、こいつは力を失い、死に近づいていく。自分も口が塞がれているような状態なので苦しいが、根競べならば負けない。
何度でも来い、と胸中で唱えた時、不思議な事態が起きた。大した前触れもなく、ひときわ大きな衝撃が来た。
不意打ちに、備え損ねた雷蘭は、大きな混乱とともに、ずるりと――あっさりと――恒河沙の口からまろび出た。
「……え?」
外界が見えなかった雷欄には、推量することしかできなかったが、どうやら恒河沙は、地面ではなく太い木立に首を振って激突させたようだった。
雷蘭の体が地面に着く前、翼さえ広げる前に、恒河沙が横薙ぎに振った首が雷蘭を弾き飛ばした。
「うッ!」
ばきん、翼の骨が折れる音が聞こえた。
そして雷欄は地面に転がった。もう飛べない。
「雷蘭さん!」
半泣きの茉莉が、雷蘭に駆け寄ってくる。
雷蘭は人間の姿になり、叫んだ。
「来るな、マツリ! 霧風様を連れて逃げろ! あんたたちが無事なら、まだ負けてない!」
だが茉莉は止まらない。その手には、いずれかの犬妖から借りたらしい脇差があった。
「ばか、マツリ、そんなもので」
雷蘭のすぐ向こうには恒河沙がいる。目を血走らせ、泡立ったよだれを垂らして、けだものの本能を全開にして、駆け出した。
雷蘭は、覚悟を決めた。自分がここでうずくまっている限り、茉莉が逃げないのなら。こんな足手まといは、手遅れになってしまえばいい。そうすれば茉莉も諦めるだろう。霧風までやられるよりもずっといい。
大鴉の仲間は、雷蘭を含め、みんな別の大陸から日本へ渡ってきた。そして、祓い師に追われ、気がつけば雷蘭は独りになっていた。心は荒み、行状は荒れ、目に映るものすべてを憎みかけていた。
切風に拾われなければ、どうなっていただろう。野良の妖怪として、安易に人を襲い、祓われて骸になっていただろうか。
それよりはずっといい。切風や茉莉を、信じられるものを信じたまま、自ら終わりにできるのは。
雷蘭は立ち上がった。最後に、敵将よりは友人を瞳に映したいと、後ろへ振り返った。
おや、と思った。
必死で駆けつけようとしている茉莉の眼には、理性の光がある。
「雷蘭さん、しゃがんでください!」
この状況で、人間の少女に何ができるのか。脇差一本で、本当になんとかできると思っているのか。
幾多の疑問を抱えたまま、雷蘭は言われるがままにしゃがみ込んだ。それは友人への信頼からであり、また、絶対不利な状況から勝利目前まで漕ぎつけた軍師への畏怖からだった。
雷蘭のいるところへは、茉莉のほうが一瞬先に着いた。しかしほぼ同時に、恒河沙が二人の眼前に迫って牙を剥いた。
茉莉が脇差を投げ捨てた。
空になった両手を伸ばして、恒河沙の口に自ら飛び込んでいく。雷蘭が仰天した。
(切風さんに教わった通りにやればいい。力の流れに逆らわず、利用する――)
少女のか細い白い手が、大熊の巨大な顎の毛をつかむ。
(――相手は、一直線に突っ込んでくるだけ。視力を奪われていて、細かい対応はしてこない。両腕がなくて、攻撃は絶対に口だと決まっている。そこまで分かっていれば――)
茉莉は一度伸ばした両手を引き戻した。
体を反転させて、思い切り前傾した恒河沙の喉の下に潜り込む。
「――私にだって、捉えられます!」
恒河沙は自らの勢いそのままに、前方に体を投げ出させられた。
その力の流れが茉莉の手元で縦に変化し、恒河沙は顔面から地面に突っ込む。自重のすべてを己の顔で受け止め、一瞬恒河沙の気が遠くなった。
だが。
「女……こんな小手先の技で、わしを――」
激高した恒河沙が起き上がる。怒り心頭に発し、膝をついたまま、首だけが上へ高く伸びた。
「ああ、今のでお前を倒せるとは茉莉も思ってねえよ、熊公」
茉莉と恒河沙の間に、切風が立っていた。
黒い剣を手に、すでに上体を大きくねじっている。そして、
「ありがとうな。それだけ晒してくれると、首が切りやすい。――『一震』」
だん。
茉莉はもちろん、雷蘭にも恒河沙にも目で追えない剣閃が、水平に走った。
そして、恒河沙の首が飛んだ。
どん、どんと二度ほど転がって、首の切断面を地面につけて、首が立つ。
「茉莉、まだ油断するなよ。雷蘭連れて下がってくれ」
「はいっ。雷蘭さん、歩けますか?」
「平気だよ。どこか折れただけだから……」
「雷蘭さん、さっき、捨て身になろうとしたでしょう」
いきなり言い当てられ、狼狽しつつ、まあねと雷蘭は頭をかいた。
「だめですよ。私もさっき、少し考えてしまいましたけど。私たち、出会ったばかりなんですから」
「なに、その理屈は」と雷蘭が小さく吹き出した。それでも、恒河沙の首からは、三人とも目を切っていない。
背後を取り囲んでいる「赫の王」の軍は、絶望的な状況を前にして腰が引けつつある者たちと、恒河沙のもとへ駆けつけようとする者たちに分かれていた。
力押しで来られれば、切風側が多勢に無勢なのは変わらない。茉莉は後ろを見回すと、犬妖たちに指示を飛ばした。
「引いている敵は狙わなくていいです。前に出ようと突出しているところを、集中的に狙い撃ってください!」
犬妖たちが応と答える。
その戦法は単純だが効果的だった。前のめりになっていた兵――ほとんどは旗本たち――が、精密な斉射に、瞬く間に数匹射倒された。
それでも犠牲を厭わなければ犬妖の部隊に攻め寄せることはできたはずだが、「赫の王」軍は戦力よりも戦意のほうが急速に失われていっている。
「おい、熊公。塵になる前に直に訊いときたいことがあるんだよ。……どうして信州に攻め込んできた?」
切風が問うと、恒河沙の生首が口を開いた。
「……信州は、日の本にあって他に比類なき数多の霊地を持つ。水が豊かで天険を擁し、強力な神々も多い……。しかも今は、確固たる頭領もいない。……狙わん道理がないわ」
「なんでだよ。自分の土地で満足してればいいじゃねえか。そうすれば、こんな目にも遭うことはなかったよ」
「……霊山に守られ、外界と半ば隔絶していた貴様らには、分かるまい……。かつての七王をすべて束ねるくらいの力がなければ、その己の土地でさえ、守ることがままならなくなりつつある……」
「……なにが起きてる? 伊達や酔狂で、周り中が信州を併呑しようとしてるわけじゃねえってくらいは分かってんだよ」
「わしと、貴様らでは……見えるものが違い過ぎる。なにを答えようと誤りになろうよ……。わしらは怪異、この世のよどみとあわいに息づくあやかし……ゆめ、分かり合えるなどと思うな」
「ああ、そうかよ。……なにか言い残すことはあんのか? 最後の頼みくらいは聞いてやるよ」
恒河沙の首が、黒い塵に変わっていく。
耳も、頬も、赤黒い毛が漆黒に染まって、空中に溶けていく。
「弟どもは……降伏したなら、首を取らずに……」
「軍の中にいるやつらか? そんなのは頼みじゃねえよ。当たり前だろ。ほかになにか、無理を言ってみろ」
茉莉は、「赫の王」軍が波が引くように包囲を解いて下がっていくのを見届けてから、切風と恒河沙のほうへ振り向いた。
その口が塵に変わる直前、ほんのわずかに、恒河沙の巨大な口の口角が上がったように見えた。
「……貴様の敵を倒せ」
恒河沙の頭部すべてが黒色に染まった。
ざら、と塵の塊が地に撒かれ、風に巻かれていく。
「なんだそりゃ。それこそ当り前じゃねえか……」
切風が振り向くと、茉莉が、雷蘭を朔日に乗せたところだった。
「茉莉、これで敵の総大将は倒した。中軍の残党は……追わなくていいか」
「はい、もう散り散りになっています。これからすぐに決めなくてはいけないのは、私たちが『赫の王』軍の前軍と後軍、どちらに向かうかなんですけど……」
当初の計画では、首尾よく恒河沙を打ち取れたら、雷蘭が戦場の様子を俯瞰して、前後どちらに加勢するかを決める予定だった。この中軍の位置からならば、どちらを攻めても挟撃にできる。
ただし後軍のほうは実質的に戦闘力を持つのが千哉だけなので部隊として心もとなく、基本的にはこちらを先に助けに行きたい。
しかし他方、敵前軍を相手取っているのは切風軍の主力なので、これを壊滅させられるようなことになったら目も当てられない。千哉がもう少し粘ってくれるなら、前軍を挟撃に行きたいのも事実だった。
なにより、茉莉のいる第二軍だって、敵の前軍と後軍から挟まれる位置にいるのである。ここからの動きをしくじれば、自分たちが挟撃を受けてしまう。確実に効果的な方面へ向かう必要があった。
しかし当の雷蘭が翼を折られ、戦場を俯瞰することができない。これは痛手だった。
「一か八かで、どちらかに行くしかないんでしょうか……」
雷蘭に聞こえないよう小声で切風に言う。
しかし切風は、「そーだなー。雷蘭飛べないもんなー。しょうがないよなー」とやや大声で言い放った。
茉莉が慌てて雷蘭のほうを見ると、朔日の上で、雷蘭が顔を真っ赤にして震えていた。
「き、切風さんっ! 配慮が欠けていますよ!」
「まーまー、いいんだって。じゃ、総大将命令。おれたちは北側にいる敵の前軍を倒しに行きまーす」
茉莉は、そう言われて、前のめりになっていた体を戻した。
「そ、……そうですか。紺模様さんも伊織さんもワタヌキさんも、みんないるんですもんね……。やらせるわけには……でも……」
「あのさ。言っとくけど、別にあの茉莉と馴れ馴れしい人間なんかどうなってもいいからほっとけよってんじゃないからね」
「えっ。違うんですか」
「えって。まるきり違うわけじゃないけど割と違う。これでもおれさ、総大将だから」
切風は、右手の親指で自分をさした。
「茉莉とは年季が違うし、茉莉の知らないことで知ってることもある。茉莉のできないことで、おれにできることだってあるんだよ」
「それは……たくさんあると思いますけど……」
「この一戦の全部の責任を、君に負わせるわけないだろう。そんなものは常に、総大将が負わないとね。あとなんか、言っときたいことある?」
「……あります」
切風の腹の傷は、衛生班らしい犬妖が応急手当てをしていた。血は止まっているし、人間とは体のつくりが違うのだろうが、それにしても軽いけがではない。
「なに、言ってみて」
「その傷……まだ戦って、大丈夫なんですか」
茉莉には、大丈夫、という言葉を使うのは抵抗があった。大丈夫かと訊かれて大丈夫ではないと言うのは、よほど切羽詰まった者だけだろうと思えた。だが、そうとしか訊けない。
「ああ、そうだな。あんまり大丈夫じゃないけど、ちょうどいいと言えばちょうどいいよ」
「……ちょうどいい? なにがですか?」
今度は、切風は両手の親指で自分をさした。
「この怪我を味方が見れば、自分たちの総大将は自分が傷を負ってもひるまず戦い抜くやつなんだって、分かってくれるでしょ。大事なんだよ、それが」
「そういうものですか……」
「自分の目で見たものって、説得力が違うからね。ほら、見なよあいつら」
切風が手で示したのは、部下の犬妖たちだった。
今まではそれどころじゃなかったので気づかなかったのだが、どうも、彼らが茉莉を見る目が、今までよりも温かく肯定的に感じる。
「な……なんでしょう? どういうこと?」
「さっき、君がやったんだろ。敵の首領、泣く子も黙る『赫の王』を、素手でつかんでぶん投げた」
「あ、あれは、とっさに切風さんが教えてくれた体術を思い出して。無我夢中だったんですよ」
「ん。おれも、まさかあんな風に使うとは思わなかった。言っとくけどあれ、起死回生の切り札じゃなくてあくまで護身術だからね。……もう、あんまり無茶するなよ」
「とっさだったって言ってるじゃないですかあ……」
今や、犬妖たちは、目に星さえ浮かべて茉莉を見ている。
「でも、その効果は絶大だったよ。君の軍師としての能力と、敵に向かっていく勇気。……正直今まで茉莉をよく思ってなかったやつらもいるだろうけど、これでだいぶ変わる。もちろん、いいほうにね」
どう答えていいか分からない茉莉は、照れ笑いだけを浮かべた。
その横に、朔日が立つ。雷蘭と茉莉の二人くらい乗せても平気だと、身をかがめて茉莉を促した。ありがたく、茉莉はそこに――雷蘭を後ろから抱く形で――またがる。
そして部隊は全員、北へ――『赫の王』軍へと狙いを定めて、駆け出した。
雷蘭はくちばしを食いしばった。
己を鼓舞する脳裏の声は、雷蘭自身の声にも、切風の声にも、茉莉の声にも似ていた。
やがて、恒河沙の体が振り上げられる間隔が、少しずつ長くなった。
いいぞ。あたしが粘れば粘るほど、こいつは力を失い、死に近づいていく。自分も口が塞がれているような状態なので苦しいが、根競べならば負けない。
何度でも来い、と胸中で唱えた時、不思議な事態が起きた。大した前触れもなく、ひときわ大きな衝撃が来た。
不意打ちに、備え損ねた雷蘭は、大きな混乱とともに、ずるりと――あっさりと――恒河沙の口からまろび出た。
「……え?」
外界が見えなかった雷欄には、推量することしかできなかったが、どうやら恒河沙は、地面ではなく太い木立に首を振って激突させたようだった。
雷蘭の体が地面に着く前、翼さえ広げる前に、恒河沙が横薙ぎに振った首が雷蘭を弾き飛ばした。
「うッ!」
ばきん、翼の骨が折れる音が聞こえた。
そして雷欄は地面に転がった。もう飛べない。
「雷蘭さん!」
半泣きの茉莉が、雷蘭に駆け寄ってくる。
雷蘭は人間の姿になり、叫んだ。
「来るな、マツリ! 霧風様を連れて逃げろ! あんたたちが無事なら、まだ負けてない!」
だが茉莉は止まらない。その手には、いずれかの犬妖から借りたらしい脇差があった。
「ばか、マツリ、そんなもので」
雷蘭のすぐ向こうには恒河沙がいる。目を血走らせ、泡立ったよだれを垂らして、けだものの本能を全開にして、駆け出した。
雷蘭は、覚悟を決めた。自分がここでうずくまっている限り、茉莉が逃げないのなら。こんな足手まといは、手遅れになってしまえばいい。そうすれば茉莉も諦めるだろう。霧風までやられるよりもずっといい。
大鴉の仲間は、雷蘭を含め、みんな別の大陸から日本へ渡ってきた。そして、祓い師に追われ、気がつけば雷蘭は独りになっていた。心は荒み、行状は荒れ、目に映るものすべてを憎みかけていた。
切風に拾われなければ、どうなっていただろう。野良の妖怪として、安易に人を襲い、祓われて骸になっていただろうか。
それよりはずっといい。切風や茉莉を、信じられるものを信じたまま、自ら終わりにできるのは。
雷蘭は立ち上がった。最後に、敵将よりは友人を瞳に映したいと、後ろへ振り返った。
おや、と思った。
必死で駆けつけようとしている茉莉の眼には、理性の光がある。
「雷蘭さん、しゃがんでください!」
この状況で、人間の少女に何ができるのか。脇差一本で、本当になんとかできると思っているのか。
幾多の疑問を抱えたまま、雷蘭は言われるがままにしゃがみ込んだ。それは友人への信頼からであり、また、絶対不利な状況から勝利目前まで漕ぎつけた軍師への畏怖からだった。
雷蘭のいるところへは、茉莉のほうが一瞬先に着いた。しかしほぼ同時に、恒河沙が二人の眼前に迫って牙を剥いた。
茉莉が脇差を投げ捨てた。
空になった両手を伸ばして、恒河沙の口に自ら飛び込んでいく。雷蘭が仰天した。
(切風さんに教わった通りにやればいい。力の流れに逆らわず、利用する――)
少女のか細い白い手が、大熊の巨大な顎の毛をつかむ。
(――相手は、一直線に突っ込んでくるだけ。視力を奪われていて、細かい対応はしてこない。両腕がなくて、攻撃は絶対に口だと決まっている。そこまで分かっていれば――)
茉莉は一度伸ばした両手を引き戻した。
体を反転させて、思い切り前傾した恒河沙の喉の下に潜り込む。
「――私にだって、捉えられます!」
恒河沙は自らの勢いそのままに、前方に体を投げ出させられた。
その力の流れが茉莉の手元で縦に変化し、恒河沙は顔面から地面に突っ込む。自重のすべてを己の顔で受け止め、一瞬恒河沙の気が遠くなった。
だが。
「女……こんな小手先の技で、わしを――」
激高した恒河沙が起き上がる。怒り心頭に発し、膝をついたまま、首だけが上へ高く伸びた。
「ああ、今のでお前を倒せるとは茉莉も思ってねえよ、熊公」
茉莉と恒河沙の間に、切風が立っていた。
黒い剣を手に、すでに上体を大きくねじっている。そして、
「ありがとうな。それだけ晒してくれると、首が切りやすい。――『一震』」
だん。
茉莉はもちろん、雷蘭にも恒河沙にも目で追えない剣閃が、水平に走った。
そして、恒河沙の首が飛んだ。
どん、どんと二度ほど転がって、首の切断面を地面につけて、首が立つ。
「茉莉、まだ油断するなよ。雷蘭連れて下がってくれ」
「はいっ。雷蘭さん、歩けますか?」
「平気だよ。どこか折れただけだから……」
「雷蘭さん、さっき、捨て身になろうとしたでしょう」
いきなり言い当てられ、狼狽しつつ、まあねと雷蘭は頭をかいた。
「だめですよ。私もさっき、少し考えてしまいましたけど。私たち、出会ったばかりなんですから」
「なに、その理屈は」と雷蘭が小さく吹き出した。それでも、恒河沙の首からは、三人とも目を切っていない。
背後を取り囲んでいる「赫の王」の軍は、絶望的な状況を前にして腰が引けつつある者たちと、恒河沙のもとへ駆けつけようとする者たちに分かれていた。
力押しで来られれば、切風側が多勢に無勢なのは変わらない。茉莉は後ろを見回すと、犬妖たちに指示を飛ばした。
「引いている敵は狙わなくていいです。前に出ようと突出しているところを、集中的に狙い撃ってください!」
犬妖たちが応と答える。
その戦法は単純だが効果的だった。前のめりになっていた兵――ほとんどは旗本たち――が、精密な斉射に、瞬く間に数匹射倒された。
それでも犠牲を厭わなければ犬妖の部隊に攻め寄せることはできたはずだが、「赫の王」軍は戦力よりも戦意のほうが急速に失われていっている。
「おい、熊公。塵になる前に直に訊いときたいことがあるんだよ。……どうして信州に攻め込んできた?」
切風が問うと、恒河沙の生首が口を開いた。
「……信州は、日の本にあって他に比類なき数多の霊地を持つ。水が豊かで天険を擁し、強力な神々も多い……。しかも今は、確固たる頭領もいない。……狙わん道理がないわ」
「なんでだよ。自分の土地で満足してればいいじゃねえか。そうすれば、こんな目にも遭うことはなかったよ」
「……霊山に守られ、外界と半ば隔絶していた貴様らには、分かるまい……。かつての七王をすべて束ねるくらいの力がなければ、その己の土地でさえ、守ることがままならなくなりつつある……」
「……なにが起きてる? 伊達や酔狂で、周り中が信州を併呑しようとしてるわけじゃねえってくらいは分かってんだよ」
「わしと、貴様らでは……見えるものが違い過ぎる。なにを答えようと誤りになろうよ……。わしらは怪異、この世のよどみとあわいに息づくあやかし……ゆめ、分かり合えるなどと思うな」
「ああ、そうかよ。……なにか言い残すことはあんのか? 最後の頼みくらいは聞いてやるよ」
恒河沙の首が、黒い塵に変わっていく。
耳も、頬も、赤黒い毛が漆黒に染まって、空中に溶けていく。
「弟どもは……降伏したなら、首を取らずに……」
「軍の中にいるやつらか? そんなのは頼みじゃねえよ。当たり前だろ。ほかになにか、無理を言ってみろ」
茉莉は、「赫の王」軍が波が引くように包囲を解いて下がっていくのを見届けてから、切風と恒河沙のほうへ振り向いた。
その口が塵に変わる直前、ほんのわずかに、恒河沙の巨大な口の口角が上がったように見えた。
「……貴様の敵を倒せ」
恒河沙の頭部すべてが黒色に染まった。
ざら、と塵の塊が地に撒かれ、風に巻かれていく。
「なんだそりゃ。それこそ当り前じゃねえか……」
切風が振り向くと、茉莉が、雷蘭を朔日に乗せたところだった。
「茉莉、これで敵の総大将は倒した。中軍の残党は……追わなくていいか」
「はい、もう散り散りになっています。これからすぐに決めなくてはいけないのは、私たちが『赫の王』軍の前軍と後軍、どちらに向かうかなんですけど……」
当初の計画では、首尾よく恒河沙を打ち取れたら、雷蘭が戦場の様子を俯瞰して、前後どちらに加勢するかを決める予定だった。この中軍の位置からならば、どちらを攻めても挟撃にできる。
ただし後軍のほうは実質的に戦闘力を持つのが千哉だけなので部隊として心もとなく、基本的にはこちらを先に助けに行きたい。
しかし他方、敵前軍を相手取っているのは切風軍の主力なので、これを壊滅させられるようなことになったら目も当てられない。千哉がもう少し粘ってくれるなら、前軍を挟撃に行きたいのも事実だった。
なにより、茉莉のいる第二軍だって、敵の前軍と後軍から挟まれる位置にいるのである。ここからの動きをしくじれば、自分たちが挟撃を受けてしまう。確実に効果的な方面へ向かう必要があった。
しかし当の雷蘭が翼を折られ、戦場を俯瞰することができない。これは痛手だった。
「一か八かで、どちらかに行くしかないんでしょうか……」
雷蘭に聞こえないよう小声で切風に言う。
しかし切風は、「そーだなー。雷蘭飛べないもんなー。しょうがないよなー」とやや大声で言い放った。
茉莉が慌てて雷蘭のほうを見ると、朔日の上で、雷蘭が顔を真っ赤にして震えていた。
「き、切風さんっ! 配慮が欠けていますよ!」
「まーまー、いいんだって。じゃ、総大将命令。おれたちは北側にいる敵の前軍を倒しに行きまーす」
茉莉は、そう言われて、前のめりになっていた体を戻した。
「そ、……そうですか。紺模様さんも伊織さんもワタヌキさんも、みんないるんですもんね……。やらせるわけには……でも……」
「あのさ。言っとくけど、別にあの茉莉と馴れ馴れしい人間なんかどうなってもいいからほっとけよってんじゃないからね」
「えっ。違うんですか」
「えって。まるきり違うわけじゃないけど割と違う。これでもおれさ、総大将だから」
切風は、右手の親指で自分をさした。
「茉莉とは年季が違うし、茉莉の知らないことで知ってることもある。茉莉のできないことで、おれにできることだってあるんだよ」
「それは……たくさんあると思いますけど……」
「この一戦の全部の責任を、君に負わせるわけないだろう。そんなものは常に、総大将が負わないとね。あとなんか、言っときたいことある?」
「……あります」
切風の腹の傷は、衛生班らしい犬妖が応急手当てをしていた。血は止まっているし、人間とは体のつくりが違うのだろうが、それにしても軽いけがではない。
「なに、言ってみて」
「その傷……まだ戦って、大丈夫なんですか」
茉莉には、大丈夫、という言葉を使うのは抵抗があった。大丈夫かと訊かれて大丈夫ではないと言うのは、よほど切羽詰まった者だけだろうと思えた。だが、そうとしか訊けない。
「ああ、そうだな。あんまり大丈夫じゃないけど、ちょうどいいと言えばちょうどいいよ」
「……ちょうどいい? なにがですか?」
今度は、切風は両手の親指で自分をさした。
「この怪我を味方が見れば、自分たちの総大将は自分が傷を負ってもひるまず戦い抜くやつなんだって、分かってくれるでしょ。大事なんだよ、それが」
「そういうものですか……」
「自分の目で見たものって、説得力が違うからね。ほら、見なよあいつら」
切風が手で示したのは、部下の犬妖たちだった。
今まではそれどころじゃなかったので気づかなかったのだが、どうも、彼らが茉莉を見る目が、今までよりも温かく肯定的に感じる。
「な……なんでしょう? どういうこと?」
「さっき、君がやったんだろ。敵の首領、泣く子も黙る『赫の王』を、素手でつかんでぶん投げた」
「あ、あれは、とっさに切風さんが教えてくれた体術を思い出して。無我夢中だったんですよ」
「ん。おれも、まさかあんな風に使うとは思わなかった。言っとくけどあれ、起死回生の切り札じゃなくてあくまで護身術だからね。……もう、あんまり無茶するなよ」
「とっさだったって言ってるじゃないですかあ……」
今や、犬妖たちは、目に星さえ浮かべて茉莉を見ている。
「でも、その効果は絶大だったよ。君の軍師としての能力と、敵に向かっていく勇気。……正直今まで茉莉をよく思ってなかったやつらもいるだろうけど、これでだいぶ変わる。もちろん、いいほうにね」
どう答えていいか分からない茉莉は、照れ笑いだけを浮かべた。
その横に、朔日が立つ。雷蘭と茉莉の二人くらい乗せても平気だと、身をかがめて茉莉を促した。ありがたく、茉莉はそこに――雷蘭を後ろから抱く形で――またがる。
そして部隊は全員、北へ――『赫の王』軍へと狙いを定めて、駆け出した。
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身に覚えのない罪で婚約破棄され、“悪役令嬢”の汚名を着せられたクラリス。 彼女が新たに嫁いだのは、北方の辺境を守る「氷の公爵」ことレオンハルト・フォン・グレイフだった。
冷え切った屋敷で彼女を待っていたのは、無表情な夫と、心に傷を負った三人の連れ子たち。 「僕たちに、母はいりません」 初対面で突きつけられた三つの拒絶。しかし、クラリスは諦めなかった。
「称号はいりません。私が欲しいのは――あなたたち三人の『ママ』になれる日だけです」
得意の生活魔法『灯(ともしび)』で凍えた部屋を温め、『鎮(しずめ)』の歌で夜泣きを癒やし、家政手腕で荒れた食卓を立て直す。 クラリスの献身的な愛情は、頑なだった子供たちの心を解きほぐし、やがて不器用な夫の氷の心さえも熱く溶かしていく。
これは、不遇な悪役令嬢が「最強の母」となり、家族を脅かす元婚約者や魔獣たちを華麗に撃退し、最愛の家族から「ママ」と呼ばれるその日までを綴った物語。
王女様は聖女様?おてんば姫の大冒険~ペットのドラゴンが迷子なので冒険者になって探しに行きます!~
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「500年……長い。いや、でも、ドラゴンだし。きっと生きてる、よね?待ってて。約束通りきっと会いにいくから!」
かつての力を取り戻しつつ、チートな魔法で大活躍!愛する家族と優しい婚約者候補、可愛い獣人たちに囲まれた穏やかで平和な日々。
しかし、かつての母国が各国に向けて宣戦布告したことにより、少しずつ世界の平和が脅かされていく。
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剣と魔法が織りなすファンタジーの世界で、アリシア王国第3王女として生まれ変わったかつての賢者が巻き起こす、愛と成長と冒険の物語です。
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小説家になろう、カクヨムさま他サイトでも投稿しています。
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