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クナリ

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<第三章 就職までが職業訓練です>1

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「裏界にもゴールデンウイークってあるんだね」

 ワンルームの私の家で、レモンイエローの丸いローテーブルの横に座りながら、燎火がうなずいた。

「人間社会の慣習にある程度合わせないと、妖怪も働きづらいんでな。レジャー系中心に、連休中こそ忙しくなる会社があるのも現世と変わらねえよ」

 連休の初日の昼下がり。特に出かける予定もない私は、初めて、一人暮らしの私の部屋に燎火を招いていた。
 千葉県北西部は温暖な土地で、今日も外の気温が高いので、レモン果汁にトニックウォーターを注いだ即席レモネードをグラスに入れて出してある。

 燎火は今日も黒ずくめの格好で、さすがに腕まくりしてはいるものの、シャツはいまだに長袖だった。とはいえこれはもう昔からなので、私としては今更驚くことじゃない。
 私のほうは、刺繍の入った七分袖の白いチュニックにブルーグリーンのガウチョパンツで、たぶん気楽そうな服に見えているだろうなと思いつつ、ガウチョパンツの裾はレースになったかわいらしいものを選んであった。
 髪は伸びてきたのをいいことに、ハーフアップから編み下ろしにして、職場ではまずしないアレンジにまとめてある。
……こういうところを、燎火がわざわざ褒めてくれたことはほとんどないけど。

「このトニックウォーターってもっと流行ってもよさそうなもんなのに、そこまででもねえよな」

「そうかも。柑橘類ならなに絞ってもおいしいから、私は大好き。今度はライム入れてみよう」

 燎火が口元のグラスをゆらゆらと軽く振る。透き通りながらもほんのり淡く黄色に色づいた液体はいかにも涼しげで、切れ長の燎火の目によく似合った。

「ああ、いいな。……で?」

「で? って?」

「なにか話があって、おれを部屋に呼んだんじゃねえのか? 連休が明ければもう一二週間でパソコンの訓練が終わるから、それに向けて訊きたいことでもあるのかと思ったんだけどよ」

「えっ? いや、そのあたりのことは勤務中に聞いた話でだいたい分かったつもりだけど……」

「そうなのか? なら、ほかになにか」

「ううん、全然特には。ただ……」

「ただ?」

「……ただ」

「おう、ただ?」

「……燎火、犬の姿になってくれない?」

 わずかに身を乗り出していた燎火の肩がかくんと揺れた。
 それから改めて身震いすると、燎火はあっという間に、私の家ではとても買えないくらいの大型犬に変わる。

「なったぞ。で、なんでだよ?」

 燎火はこういう時、「なんでだ?」と聞いてから変身するのではなく、先に変身してから――私のお願いを叶えてから――変身してくれる。
 昔からそうだった。初めて出会ったころから。

「燎火、伏せっ」

「なにが伏せだ。そらよ」

 私は、うつ伏せになった燎火の柔らかい背中に、私の背中と頭を預けた。
 この間、お店のソファでは座った格好しかできなかったけど、今日は遠慮なく寝そべる。
 うなじのあたりに、燎火の低い体温が伝わってきた。

「……で?」

「だから、全然、なんでもないよ。ただ、……仕事帰りもいいんだけど、仕事とは関係なく会いたいなって思っただけ」

「……そうか」

「だめだった?」

「いや、おれもそうしたかった」

「ふうん……」

 ……。あれ?
 今なにか、燎火にしては珍しいことを言ったような。

 頭の後ろで、もぞもぞと燎火が身じろぐ気配がした。

「あ、ごめん燎火。苦しかったかな」

「いいや。有栖は、いつも軽いよ。まるで羽だ」

 その声は、横からではなく、上から降ってきた。不思議に思って見上げる。
 すると、私の頭の十数センチ上に燎火の顔があった。犬ではなく、人間の。
 いつの間にか燎火は、人間の姿に戻っていた。

「え!? あれ!?」

 こんなに間近で、金色の瞳を見るのは久しぶりだった。
 気がつくと、私の後ろで床に横たわっていたはずの燎火は完全に体を起こしていた。私の上半身を両腕で包み、私の下半身の両脇には黒いスラックスの両足が伸びている。

 ひやりとした燎火の肌の感覚は、今はもう後頭部ではなく、上半身全体で感じられてしまっていた。
 特に腕まくりした燎火の腕からは、私の薄手のチュニック一枚向こうで、かすかに筋肉を緊張させているのまで伝わってくる。
 抱き締められているわけではないけど、完全に私は、燎火の腕の中にとらえられてしまっていた。

 ひ、ひええええ!?
 なんで、なんで!?
 完全に甘え心地でいた私の体が、急激に緊張し始める。
 犬神の感覚は鋭い。心臓の音が早まるのが、簡単にばれてしまっていると思う。そうでなくても、顔が火のように熱くなって、その赤面を見れば私の変調はきっと一目瞭然だ。

「有栖」

「は……はいっ!?」

「おれが人間の社会で――会社で働こうと思ったのは、有栖が高校二年の時だ。おれたちが出会ってから、一年ほどしたころだな」

「あ、う、うん……現世でアルバイトとかし始めたよね……?」

 なんの話だろうと、ちゃんと聞こうとは思うのだけど、この体勢では冷静にものを考えることがまるでできない。
 燎火の意図をはかるどころじゃなくて、とにかく聞かれたことに答えるのが精いっぱいだった。

「あれは、有栖がきっかけなんだ。おれの年齢はざっと四百二十歳ほどだが、今の人格が固まったのは、ここ二十年ほどだってのは言ったな。それまでは、思考も感情も乏しい、犬どころか自然現象みたいなもんだった」

「うん……長生きの割には結構、人間の生活を珍しがってたよね」

 一度、燎火を実家の軒先に泊めた時には、そんな扱いをして怒り出すんじゃないかと思ったけど、「今の飼い犬とはこういう暮らしをするものなのか」とか言って意外に楽しんでいたのを思い出す。

「今の在り様に落ち着いて間もなく、有栖と出会って、いろいろなことを知った。毎日が新鮮で、楽しかった。当分、この愉快な人間の傍で過ごしてみたいと思ったよ。そのためには、人間社会での暮らし方を身に着ける必要があると考えた」

 ゆ、愉快だと思われていたんだ、私。それも含めて、初めて聞く話だった。
 燎火が人間の会社でアルバイトを始めると聞いた時は、私なりに驚きつつも、妖怪ってそういうのに興味があるものなのかもしれないと、勝手に納得していた。
 これは、抱きすくめられているような格好に浮かれている場合じゃないと思い、背筋を伸ばす。

「有栖はなかなか霊感が強いがな、それだけに危なっかしくもある。おれなら君を守れるとうぬぼれたし、実際そうしても来た。だが、ただ単におれの妖力が強いだけじゃだめだ。人間社会のルールの中でも生き抜けるだけの力が必要だろう。そうでなければ、本当には有栖を守れねえ。……君は、人間なんだからな。おれは、有栖の傍で有栖を守る資格が欲しかった」

「し、資格?」

 ……凄く……
 凄く、大事な話をされている。それは分かる。
 でも、胸の奥からこみ上げてくるものが大きくて、熱くて、話の意味を理解しきれる自信がなかった。伸ばした背筋から、力が抜ける。
 今まで、妖怪や霊障が見えてしまう私は、そのせいで危ない目に遭うことが何度かあった。そのたびに、いつも近くにいた燎火が助けてくれた。
 あれは、運がいいのでも、偶然が重なったのでもなかったのだ。
 そんなに明確な意思を持って、私と過ごしてくれていたなんて。

「有栖。今、気になっている、人間の男はいるのか?」

「な、なに突然。いないよ、そんなの」

 人間じゃなければ、いるけど。
 約一名、目の前に。

「そうか。……もしそういう相手がいたなら、しょせん妖怪のおれは、この役割をあきらめなくちゃならねえんだろうなと思っていたよ。まだ、そうしなくていいんだな」

「うん……全然、あきらめなくていいです……」

 当分。ううん、ずっと。
 金色の瞳と、私の視線がぶつかる。
 頭がくらくらしてきた。
 燎火が、私の髪の先を指ですく。

「おれと二人で会う時の有栖は、髪や服が少し変わるよな」

「あっ、き、気づいてた?」

「ああ。今日もそうだ。なんだこの髪は、ことさらにかわいいじゃねえか。それに、……いつもいい香りがする」

「だ、だって燎火犬神なんだもん。嗅覚人間の何千倍とかでしょ? 香りは、ちょっと気をつけたいなって……思っ……わ!?」

 燎火の腕に力が込められた。
 黒いシャツの胸元に、私の体が押しつけられる。

「りょ、燎火……!」

 熱い。
 いつも私より体温の低い燎火の肌が、今までになく火照っているのが、服越しに伝わってくる。

「有栖」

「う、うん……!?」

「おれは、有栖に言いたいことがあるんだが」

「な、……に?」

 喉が鳴った。
 まさか、今日。
 燎火の口から、今ここで。
 そんなこと、全然考えてなかったのに。
 ただの、居心地のいい平和な一日になると思っていたのに。
 なのにそんなことが、あるわけが。

「だが今、それを伝えてしまうと、まずい」

 まずい? ……って、なにが?
 声にならなかったはずの私の疑問に、燎火が答えた。

「おれはまだまだ、職業人として半人前だ。有栖が働き出したばかりの会社の、先輩でもある。……おれの気持ちを口にすることで、今の関係や立場が変わることでやりづらくなって、有栖にしわ寄せをいかせるわけには、いかねえ」

 ん……んん?
 なんだかこんがらがってきた。

「ど、どういうこと?」

「今日の有栖がかわい過ぎる上に二人っきりになっちまったもんだから、危ないところだったが。まだ結論を告げるわけにはいかねえってことだ。悪かったな。いずれ、答を教えるよ」

「答って、……燎火の気持ちってこと?」

「そうだ」

「そ、それなら今、……あの、非常に僭越ですが、言ったも同じじゃないかな? ……なんて……」

 燎火が、私の真上で目をぱちくりとさせた。金色の瞳が瞬く。
 そして、かぶりを振られた。

「ふ。そんなわけがねえだろ? 口にしてもねえことを相手に察せられちまうなんて、ありえねえよ。妖怪と人間どころか、人間と人間だってそうした不確かな意思疎通がすれ違いや齟齬のもとになるだろう」

 ……分かる。言っていることは分かる、けれど。

「……燎火って、人間よりずっと勘がいいんだよね?」

「ああ。人間の勘なんて、基本気のせいだからな。おれとは比べ物にならん」

「なら、私たちのお互いの気持ちって、その勘で分かったりしないの?」

「私たちって言ったって、有栖の気持ちを勘で決めつけるようなことはしねえさ。とにかく、おれがなにを言おうとしたかは、まだ内緒だ。一人で盛り上がったりして悪かった、聞かなかったことにしてくれ」

 ……これは。
 燎火は私を守れるとうぬぼれていたと言ったけど、私だって、これじゃうぬぼれてしまう。
 ……さらには、まるっきりのうぬぼれではないという実感もある。あの肌の熱さに包まれてしまったら、疑いなんて持てなくなってしまう。
 なのにこの犬神はどうやら本気で、今のほとんど告白めいたやりとりから、自分の気持ちを隠しきれるつもりでいるみたいだ。
 ……なんだか私、とても偉そうだけど。

 でももしかして。
 燎火任せにせずに私から言えば、今、私たちの関係に大きな変化が起こせるのでは。
 起こせてしまうのでは?

 また、喉が鳴った。
 口を開く。

「……燎火、さ」

「おう?」

「……外行かない?」

 目の前の燎火の顔が、裏表なく、屈託なく笑った。

「ああ、いいぞ。どこか行きたいところあるのか?」

 これでいい。今はまだ。
 燎火の気遣いはありがたいけど、私からの告白をやめた理由は、もっと利己的なものだ。

 本当にうぬぼれたことを言ってしまうのだけど、どうやら私と燎火は今、両片思いという状態にある――と思う。おそらく。たぶん。
 こんなのは燎火に対して不誠実かもしれないと思いつつ、ちょっとだけ、そんな今が楽しいと思ってしまっている自分がいる。

 妖怪と人間の気持ちには、元から違いがあるのかもしれない。でももし燎火が私の想いを、人間同士の恋愛と同じ意味で受け入れてくれたら、二人の関係はその瞬間から変わってしまう。元に戻ることは、きっともうない。
 それはとても幸せな変化だけど、今のこのひと時が失われてしまうのも、どこか寂しい。
 そんな私のわがままで、ずるいことに、今はまだ知らんぷりをする。

 だから、変わるべき時が来たら、きっと私のほうから告白しよう。
 そう思いながら外出の支度を済ませて、私たちは部屋を出た。
 二人きりの室内から、もっと明るくてずっと広い外へ。

 ささやかな心の機微なんて知ったことではないとばかりに晴れ上がった空。さっきまでの急激な胸の高鳴りは影を潜めて、燎火が隣にいる時特有の居心地の良さが戻ってくる。
 どこかほっとしながら、私は初夏を迎えた空気の中へと歩き出した。


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