あやかし職業訓練校は税金で運営されています!

クナリ

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 連休明け。

 就妖社の周りは幅十メートルくらいの草地になっていて、その外周を林が取り囲んでいる。
 事務所の窓の外、その草地に、裾がぼろぼろの和服を着たおじいさんがいるのが見えた。
 その上には、足が三本ある鳥が、羽ばたいてもいないのに舞っている。
 彼らの後ろのほうには、手が鎌のようになっている女の人が、人の目がたくさんへばりついた障子をその鎌に引っ掛けて歩いていた。
 その全員うちの職員ではないはずだけど、裏界では他人の会社の敷地でも通行はお構いなしのようだった。
 危険な妖怪はあまりやって来ないけど、時には社員みんなで避難しなくてはならないほど、大物の怪異が押し寄せる時もあるらしい。

 初めのころは見るたびにぎょっとしていた、そうした得体のしれない存在が当たり前に見える光景は、もうすっかり慣れたものになっている。

 パソコンコースの修了式は、つつがなく終わった(粕村さんも大人しくしていた)。
 修了式では、出席日数や訓練内容の習得などの条件を満たした人に、学校の卒業式よろしく修了証書を渡す。それに、成績を記載した通信簿のようなものも。
 さすがに体育館のような設備はないので、訓練校を代表しての黒芙蓉支店長のあいさつや生徒からの一言感想など、すべての工程はこれまで使っていた教室で行われる。
 教室での最後のイベントを終えて、訓練生は去っていき、A3教室はがらんと静まり返った。

 机や椅子、教卓を布巾で拭き、ホワイトボードも水拭きと乾拭きで細かい汚れを取って、新品同然に仕上げる。
 板張りの床を掃き掃除して、最後に燎火と、机と椅子をきれいに並べた。

「ふう。だいたいいいかな」

「おう、お疲れ。最後まで大変だったな」

「うん……おかげで、しんみりした気持ちにはならなかったね……」

 修了式前最後の一週間は、思いがけないトラブルに見舞われた。
 月曜日、年経た着物の変化へんげが人間に化けた、赤原幸三さんという妖怪――人間としての設定は五十七歳男性――が、ひどい咳をしていた。
 生島さんがそうだったように、妖怪でありながら長年人間社会で働いてきた人だ。そうして完全に人間になりきると、人間と同じ病気にかかることもあるらしい。

 訓練では全日全受講が基本だけれど、もちろん体調が悪ければ休むことはできる。特に、うつる病気については敏感にならざるを得ない。
 たとえば今回のように赤原さんがかかる病気なら、ほかの訓練生や職員にうつることも充分あり得るからだ。
 これは、現世の訓練でも裏界のそれでも変わらない。インフルエンザの生徒がいれば学校を休ませるのと同じだ。
 休憩時間に、私から赤原さんに声をかけた。

「赤原さん、体調がすぐれないなら帰ったほうがいいですよ」

「大丈夫大丈夫! ゴホゲホッ! ちょっと咳が出るだけだから! ゲホオッ!」

 その咳がまずいのだけど、少し諭したくらいでは帰ってくれそうにない。
 ただでさえこの数年、世界中で大流行した感染症があって、直に接触しなくても咳などの飛沫や家具などへの残滓からうつってしまう脅威で知られていた。
 当然、感染症にかかった人には登校してもらっては困る。けれど、インフルエンザくらい症状が重くならずに微熱が出る程度なら、無理をして出席してしまう人というのは少なくない。

 滝じいさんからも、「ずっと咳しとるから、周りの生徒も気になって授業に身が入らんよ」と意見が出て、燎火も一緒になって赤原さんに注意した。

「赤原さん、入校する時言いましたよね。具合が悪い人は帰ってもらうって」

「ゲッフゲフ、大丈夫だよ、マスクしてるから! ゲホッ!」

「それは大丈夫とは言わないんですよ、ほら、荷物をまとめて」

 そう言って机の上を片づけようとした燎火の手を、赤原さんがばしっと払った。

「帰らん! おれは最後まで出るぞ! ゲェホッ! どうしても追い返すっていうなら、病院代は出してくれるんだろうなあ!? ゲホハアッ!」

 机に突っ伏す赤原さんを見ながら、どうしてそこまで……と疑問に思った私に、燎火が耳打ちした。

「赤原さんは失業保険とは別の、訓練給付金っていう制度を利用してるんだ。これは、やむを得ない理由がないのに欠席した場合、給付されなくなる」

 私も耳打ちを返す。

「給付って、いくら?」

「月に十万円。失業保険もそうだが、人間社会で賃貸で暮らしてるなら、ばかにならない金額だ」

「……それは大きいけど、これって『やむを得ない理由』にならないの?」

「感染症だからもちろん、なる。だが『やむを得なかった』と証明するためには、病院で診断を受けなきゃならねえ。当然有料だ。そうしなきゃ単に自分の意志で休んだって扱いで、給付が止まる」

「有料……って、数千円でしょ?」

 燎火が鼻を鳴らした。

「赤原さんのにおいからは、とても素直に、その数千円を払いたくないという強い意志が伝わってきてる。資本社会の現世で生きるには、先立つものが常にいるからな。少額でも、払わんでいい金なら払わんに越したことはねえ」

「それはそうだけど……

「診察さえ受けなけりゃ感染症と断定されることはねえし、そのまま周りにいくらウイルスをばらまいても、感染源だと判明することもねえ」

「そ、そんなの困るよ。疑わしければちゃんと検査受けてくれないと」

「歩けないくらいの重症ならともかく、熱やその他の自覚症状が大したことないなら、登校を続けさえすれば、給付金はもらえる。診断料で無駄金を払わんで済むし、赤原さん的にはなんの問題もねえ。いいことずくめだな。だから止めても来るし、頑として帰らん。実はよくいるんだ、そういう手合い」

「も……」

 問題ないなんてそんなわけがないじゃない、と絶句してしまった。もし本当にそうなら、さすがに勝手過ぎる。

「問題ねえのはむろん、あくまで赤原さんにとってはだからな。この調子で廊下を歩き手洗いを使い、同じ教室の訓練生はもちろん、ほかの訓練に来てる生徒やおれたち職員にどれだけうつろうが、赤原さん的にはは痛くもかゆくもねえんだろ」

「だ、だってそんなの、大迷惑じゃ」

 職業訓練は、その多くの部分が、訓練生を含む関係者の良識や善意、妥当な判断力を有することを前提として構成されている。それは、この制度を知れば知るほど分かることだった。
 だから悪意的だったり過度に利己的な行為に対しては規定にも限界があり、処断などについて細かい取り決めはなく、各訓練校の判断に委ねられる。

「有栖、人の良識に期待するな。生き物である以上、自分の都合を最優先するのがその生物にとっての良識なんだ。で、正直――」

 燎火が頭をかいて言った。もう耳打ちではなく――面倒になったのだろう――、やや小声程度で。

「――正直、咳が出るくらいだと、強制的に帰らせるのは難しいんだよな。給付金が絡んでるとなおさらなあ」

「複雑なところもあるんだ……」

「求職者に、無理矢理金を払って診断を受けろというのもなんだし。かといってそんな受診料なんて金、会社がいちいち払えるわけもなし。ただ喉が痛いだけの可能性もあるしだな」

 それが耳に届いたらしい赤原さんは、ぱっと顔を上げる。

「そうだろうゲホッ! なにしろおれは、土日に熱は出たが今日はもうすっかり平熱になったんだ! 咳が出てるだけなんだよゲッホゲホ!」

 あ。
 耳をぴくりと震わせた燎火の目が、鋭く光った。
 二三日の発熱とその後に続く咳は、例の感染症の特徴的な症状だった。

「熱? ほお、熱が出たんですか」

「ああそうだ、ゲエッホン! だが今はすっかり下がって――」

「分かりました。おれが全責任を持ちますので、いますぐ帰ってください。ほらほら、片づけ手伝いますよ」

 そう言うと、燎火の手はてきぱきと動いて赤原さんの教材を片づけていく。
 赤原さんが慌ててまた手を払おうとしたけど、今度は燎火にはねのけられた。

「な、なにするんだゲホン!? おれには授業に出席する権利がゲホッ!」

「感染症にかかってるらしい人に、そんな権利はないですねえ。ほら、立って。玄関まで送りますから」

 燎火が赤原さんの両脇に手を入れて、有無を言わせずに立たせる。
 そして、中身が空の段ボール箱みたいに軽々と、出口のほうへ運んでいった。

「じゃ、じゃあ明日はどうなるんだ!? おれは来るぞ、咳が出るだけなんだから! あと給付金は!? ゲホ、ゲハッ!」

「医者にかかって領収書もらえりゃ、給付金は出ますよ。それに、明日来ても無駄です。陽性でも、あるいは検査を受けなくても、はっきり陰性でなければ五日間は社内には入れません」

「い、五日!? それは感染症だった場合だろ!? ゲヘッ、そんな証拠もないのに! おれは大丈夫なのに!」

「だから、診察してもらえばはっきりしますって。もし陰性でも、現状充分陽性が疑わしいので、これは我ながら妥当な判断ですよ」

 そう言っている間に、燎火は赤原さんのかばんと本人を抱えたまま、教室のドアに到着した。

「お、横暴だぞゴホ! あっそうだ、熱があったなんて嘘、冗談だよゲホン大丈夫大丈夫ゲホホッ! あっおれあれだよ、喘息かもしれないだろ、だから咳がゴヘゴヘッ! くそっ訴えてやるぞ、十万もらえなかったら訴えてやるからなアアゲホゴホッ!」

「はい、どうぞどうぞ。労働局にでも妖怪機構にでも裁判所にでも、いつでもどうぞ。じゃあ有栖――じゃない古兎さん、教室の消毒よろしくな」

 結局その後、赤原さんはしぶしぶ病院に行き、感染症の検査結果は陽性と出た(なので、やむを得ない理由と判断され給付金は支払われることになった)。
 終了日に行われる修了式は次の月曜日だったので、五日休むとすぐにその日が来る。
 さすがに気まずそうにしていた赤原さんだったけど、修了式には無事出席し、みんなと一緒に訓練を終えたのだった。

 静かになった教室を見渡すと、ここで働きだす前に思っていたよりもずっと多くのトラブルが起こるものなんだと思い知った日々が、私の胸に去来した。

「でもさ、赤原さん、訴えるなんて言った割にはあまり大騒ぎにならなくてよかったね」

「ああ。あの人の場合、肝心なのは給付金だってのは分かってたからな。それさえ支給されれば、そんなに騒ぎ立てることでもねえんだろ」

「し、辛辣。でも、喘息だったって本当なのかな。それなら気の毒だったかも」

「いや、あの時は完全に噓の気配がした。あんなでまかせで我がままをまかり通らされてたら本当に喘息の人はたまらん。さて、教室の掃除が終わったら、妖怪機構に終了届ってのを出すんだが、いい機会だから有栖がやってみてくれ」

「うんっ、やらせてやらせて。ほかの訓練はまだ続いてるけど、パソコンコースはこれで就職活動に本腰入れる時期になったんだね」

 改めてやる気をだすべしと思った私の言葉に、けれど、燎火先輩はすぐには答えてこなかった。

「燎火?」

「……ああ。……そうだな……。きちまったな、ついに、この時が……」

「……そんなに大変なの? 就職したら、その報告をもらって、妖怪機構に結果を報告するだけでしょ?」

 燎火は力なく布巾をたたみながら、ふうと息を吐いた。

「じゃ、いよいよ教えるか。職業訓練の最大の山場、この『訓練終了後の三ヶ月間』の業務を」


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