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第1話「おまかせ地獄(でも地獄)」
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朝いちの鏡は正直だ。寝不足、むくみ、そして予約表の“おまかせ”の三連撃で、瑞希のフェイスラインはいつもより一段階やさぐれて見えた。“おまかせ”――その甘美な言葉の裏側に、数々の「でも」が潜んでいることを、彼女は骨の髄まで知っている。
「今日はおまかせで」客は笑う。瑞希も笑う。「かしこまりました」微笑みの下で、脳内は避難訓練を開始する。まずはカウンセリング。生活、服、仕事、好きな質感。ここまでは教科書通りに進む。が、はさみを握った瞬間、最初の“でも”が現れる。
「でも、伸ばしてる途中なんです」
伸ばしてるのに切るのか。矛盾は朝露みたいに自然に落ちてくる。瑞希は頷き、毛先を指でつまむ。「では整える程度で—」
「でも量は軽くしたいんですよね」
量は軽く、長さはそのまま。音速で矛盾が二段重ねになる。軽くしても長く見せたい、けれどクビレは欲しい、ただし結べる長さは死守、顔まわりは小顔見え、だけど前髪は作りたいような作りたくないような、でも薄くは嫌。瑞希は心で深呼吸し、口では「いいですね」と言う。プロは矛盾の通訳者である。
ベースを整え、量を取る。レイヤーを入れすぎると後悔されるから一枚ずつ。すく音に合わせて、客の“でも”が増殖する。「でもシャワー後に何もしない派で」「でも会社で目立ちたくない派で」「でも休日は韓流アイドルみたいになりたい派で」派閥が乱立して小さな国連が開かれている。
仕上げ前、瑞希は提案する。「乾かすだけで形になる軽さにしつつ、結べる長さはキープ、顔まわりは“なんとなくある”程度で。前髪は今日は流し気味に置いて、次回調整でも」
「でも今日、友達の結婚式二次会で」
重要案件だ。瑞希は即座にモード切替。巻きすぎれば“盛りすぎ”判定、巻かなければ“手抜き”。ゴールは“頑張った感ゼロで褒められる”。コテの温度、回転数、ほぐし方、オイルの滴下角までが狙撃の世界。レンが隣でブリーチのボウルを回しながら実況している。「瑞希さん、きょうも“でも”多めっすね」
「人はみな“でも”でできてるの」瑞希は笑って、手首だけで波を描く。仕上がった瞬間、鏡の中の客の目が一段明るくなる。成功の手応えは、ほんの一拍遅れてやってくる拍手みたいなものだ。
ところが会計カウンターで、彼女はふっと言う。「あ、でも、やっぱり前髪…切らないほうがよかったかな」
その“でも”は過去に向けられている。はさみでは届かない時間領域だ。瑞希は微笑む。「次回、ほんの2mm戻しましょう。2mmの反省は2週間で成仏します」客は笑い、次回予約の画面を開く。
「じゃ、前回と同じでお願いします」
前回は今だ。時間はミルフィーユになって折り重なる。瑞希は心の中でメトロノームを止め、「承知しました」と押す。押した瞬間、また別の“でも”が未来で芽を出す音がした。
夜、閉店後。北条が集計を読み上げる。「本日、客単価は—」瑞希は数字を半分だけ聞き、残りの半分で自分の指を見る。藍色のシャンプー剤がうっすら染みている。“でも”は落ちないが、オイルは落ちる。レンがXに書いた。「本日の学び:おまかせは、注文の省略形ではなく、矛盾の前置きである」。
瑞希はそこにハートを一個だけつけ、照明を落とす。鏡のなかの自分が、少しだけ軽く見えた。量はそのまま、気持ちだけ。
「今日はおまかせで」客は笑う。瑞希も笑う。「かしこまりました」微笑みの下で、脳内は避難訓練を開始する。まずはカウンセリング。生活、服、仕事、好きな質感。ここまでは教科書通りに進む。が、はさみを握った瞬間、最初の“でも”が現れる。
「でも、伸ばしてる途中なんです」
伸ばしてるのに切るのか。矛盾は朝露みたいに自然に落ちてくる。瑞希は頷き、毛先を指でつまむ。「では整える程度で—」
「でも量は軽くしたいんですよね」
量は軽く、長さはそのまま。音速で矛盾が二段重ねになる。軽くしても長く見せたい、けれどクビレは欲しい、ただし結べる長さは死守、顔まわりは小顔見え、だけど前髪は作りたいような作りたくないような、でも薄くは嫌。瑞希は心で深呼吸し、口では「いいですね」と言う。プロは矛盾の通訳者である。
ベースを整え、量を取る。レイヤーを入れすぎると後悔されるから一枚ずつ。すく音に合わせて、客の“でも”が増殖する。「でもシャワー後に何もしない派で」「でも会社で目立ちたくない派で」「でも休日は韓流アイドルみたいになりたい派で」派閥が乱立して小さな国連が開かれている。
仕上げ前、瑞希は提案する。「乾かすだけで形になる軽さにしつつ、結べる長さはキープ、顔まわりは“なんとなくある”程度で。前髪は今日は流し気味に置いて、次回調整でも」
「でも今日、友達の結婚式二次会で」
重要案件だ。瑞希は即座にモード切替。巻きすぎれば“盛りすぎ”判定、巻かなければ“手抜き”。ゴールは“頑張った感ゼロで褒められる”。コテの温度、回転数、ほぐし方、オイルの滴下角までが狙撃の世界。レンが隣でブリーチのボウルを回しながら実況している。「瑞希さん、きょうも“でも”多めっすね」
「人はみな“でも”でできてるの」瑞希は笑って、手首だけで波を描く。仕上がった瞬間、鏡の中の客の目が一段明るくなる。成功の手応えは、ほんの一拍遅れてやってくる拍手みたいなものだ。
ところが会計カウンターで、彼女はふっと言う。「あ、でも、やっぱり前髪…切らないほうがよかったかな」
その“でも”は過去に向けられている。はさみでは届かない時間領域だ。瑞希は微笑む。「次回、ほんの2mm戻しましょう。2mmの反省は2週間で成仏します」客は笑い、次回予約の画面を開く。
「じゃ、前回と同じでお願いします」
前回は今だ。時間はミルフィーユになって折り重なる。瑞希は心の中でメトロノームを止め、「承知しました」と押す。押した瞬間、また別の“でも”が未来で芽を出す音がした。
夜、閉店後。北条が集計を読み上げる。「本日、客単価は—」瑞希は数字を半分だけ聞き、残りの半分で自分の指を見る。藍色のシャンプー剤がうっすら染みている。“でも”は落ちないが、オイルは落ちる。レンがXに書いた。「本日の学び:おまかせは、注文の省略形ではなく、矛盾の前置きである」。
瑞希はそこにハートを一個だけつけ、照明を落とす。鏡のなかの自分が、少しだけ軽く見えた。量はそのまま、気持ちだけ。
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