2 / 2
第2話「前髪3ミリの哲学」
しおりを挟む
午前十時。瑞希がはさみを研ぎながらコーヒーをすする。店の空気はまだ柔らかい。そこに現れたのは、常連の前髪3ミリ教徒・田島さん。彼女の信仰は揺るがない。
「今日も、三ミリでお願いします」
瑞希は一拍置く。確認は儀式だ。「三ミリ、ですね」
「ええ、三ミリ。ちょうど眉の上、でも眉は見せたくないんです」
この“でも”が出た瞬間、戦いの火蓋は切られる。三ミリで眉が隠れる確率は、天気予報で言えば晴れ時々雷雨。瑞希は経験上、風速と頭の角度によって0.8ミリの誤差が出ると知っている。
「田島さん、今日は湿度が高いので、乾くと若干上がるかもしれません」
「じゃあ、2.7ミリで」
もう単位が工業レベルである。瑞希は心で「ここはNASAではない」とつぶやき、口では「かしこまりました」と微笑む。
カット中、田島さんはスマホの前髪フォルダを開く。スクロールには“過去の前髪たち”が整列していた。
「この日の感じが理想なんです」
撮影日を見ると、去年の梅雨明け。湿度47%、風速2メートル、担当は自分。あの日はドライヤーが偶然神がかっていた。瑞希は言う。「今日も近づけます」
「でも、友達に“前髪重いね”って言われたんですよ」
「そうなんですね」
「でも夫には“軽い方が老ける”って言われて」
人間関係がカットラインを超えてくる。瑞希は内心、「夫と友達の前髪基準を統一してくれ」と祈りつつ、慎重に三ミリを刻む。
レンが隣で呟く。「三ミリって、もはや切る意味あるんすか?」
「あるのよ。人間は三ミリで人生が変わることがある」
「髪ってより、気持ちの話すね」
「そう、だから怖いの」瑞希は一呼吸。最後の毛束を落とす。鏡の中、田島さんの眉は、奇跡的に影で隠れている。
「完璧です」瑞希が言うと、田島さんは微笑む。
「これで職場の人にも“いつも同じだね”って言われるんです」
“変わらないこと”が、彼女にとっての安心なのだ。
会計後、瑞希はカルテに「前髪2.7ミリ、眉ギリ・湿度高」と記す。北条が通りかかり、呟く。「瑞希、前髪3ミリ組は利益率低いぞ」
「でも満足度は高いです」
「満足度で光熱費払えたらな」
北条は去り、瑞希は笑う。美容師とは、ミリ単位の哲学者であり、矛盾を整える翻訳者だ。
夜、SNSを開くとレンの投稿が光っていた。
今日の学び:三ミリのこだわりは、自己肯定感のバロメーター。切りすぎると人生まで軽くなる。
瑞希はそれに「いいね」を押す。
その指先には、たった三ミリぶんの誇りが、確かに残っていた。
「今日も、三ミリでお願いします」
瑞希は一拍置く。確認は儀式だ。「三ミリ、ですね」
「ええ、三ミリ。ちょうど眉の上、でも眉は見せたくないんです」
この“でも”が出た瞬間、戦いの火蓋は切られる。三ミリで眉が隠れる確率は、天気予報で言えば晴れ時々雷雨。瑞希は経験上、風速と頭の角度によって0.8ミリの誤差が出ると知っている。
「田島さん、今日は湿度が高いので、乾くと若干上がるかもしれません」
「じゃあ、2.7ミリで」
もう単位が工業レベルである。瑞希は心で「ここはNASAではない」とつぶやき、口では「かしこまりました」と微笑む。
カット中、田島さんはスマホの前髪フォルダを開く。スクロールには“過去の前髪たち”が整列していた。
「この日の感じが理想なんです」
撮影日を見ると、去年の梅雨明け。湿度47%、風速2メートル、担当は自分。あの日はドライヤーが偶然神がかっていた。瑞希は言う。「今日も近づけます」
「でも、友達に“前髪重いね”って言われたんですよ」
「そうなんですね」
「でも夫には“軽い方が老ける”って言われて」
人間関係がカットラインを超えてくる。瑞希は内心、「夫と友達の前髪基準を統一してくれ」と祈りつつ、慎重に三ミリを刻む。
レンが隣で呟く。「三ミリって、もはや切る意味あるんすか?」
「あるのよ。人間は三ミリで人生が変わることがある」
「髪ってより、気持ちの話すね」
「そう、だから怖いの」瑞希は一呼吸。最後の毛束を落とす。鏡の中、田島さんの眉は、奇跡的に影で隠れている。
「完璧です」瑞希が言うと、田島さんは微笑む。
「これで職場の人にも“いつも同じだね”って言われるんです」
“変わらないこと”が、彼女にとっての安心なのだ。
会計後、瑞希はカルテに「前髪2.7ミリ、眉ギリ・湿度高」と記す。北条が通りかかり、呟く。「瑞希、前髪3ミリ組は利益率低いぞ」
「でも満足度は高いです」
「満足度で光熱費払えたらな」
北条は去り、瑞希は笑う。美容師とは、ミリ単位の哲学者であり、矛盾を整える翻訳者だ。
夜、SNSを開くとレンの投稿が光っていた。
今日の学び:三ミリのこだわりは、自己肯定感のバロメーター。切りすぎると人生まで軽くなる。
瑞希はそれに「いいね」を押す。
その指先には、たった三ミリぶんの誇りが、確かに残っていた。
0
この作品の感想を投稿する
あなたにおすすめの小説
百合ランジェリーカフェにようこそ!
楠富 つかさ
青春
主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?
ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!!
※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。
表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。
JKメイドはご主人様のオモチャ 命令ひとつで脱がされて、触られて、好きにされて――
のぞみ
恋愛
「今日から、お前は俺のメイドだ。ベッドの上でもな」
高校二年生の蒼井ひなたは、借金に追われた家族の代わりに、ある大富豪の家で住み込みメイドとして働くことに。
そこは、まるでおとぎ話に出てきそうな大きな洋館。
でも、そこで待っていたのは、同じ高校に通うちょっと有名な男の子――完璧だけど性格が超ドSな御曹司、天城 蓮だった。
昼間は生徒会長、夜は…ご主人様?
しかも、彼の命令はちょっと普通じゃない。
「掃除だけじゃダメだろ? ご主人様の癒しも、メイドの大事な仕事だろ?」
手を握られるたび、耳元で囁かれるたび、心臓がバクバクする。
なのに、ひなたの体はどんどん反応してしまって…。
怒ったり照れたりしながらも、次第に蓮に惹かれていくひなた。
だけど、彼にはまだ知られていない秘密があって――
「…ほんとは、ずっと前から、私…」
ただのメイドなんかじゃ終わりたくない。
恋と欲望が交差する、ちょっぴり危険な主従ラブストーリー。
俺様上司に今宵も激しく求められる。
美凪ましろ
恋愛
鉄面皮。無表情。一ミリも笑わない男。
蒔田一臣、あたしのひとつうえの上司。
ことあるごとに厳しくあたしを指導する、目の上のたんこぶみたいな男――だったはずが。
「おまえの顔、えっろい」
神様仏様どうしてあたしはこの男に今宵も激しく愛しこまれているのでしょう。
――2000年代初頭、IT系企業で懸命に働く新卒女子×厳しめの俺様男子との恋物語。
**2026.01.02start~2026.01.17end**
◆エブリスタ様にも掲載。人気沸騰中です!
https://estar.jp/novels/26513389
ちょっと大人な物語はこちらです
神崎 未緒里
恋愛
本当にあった!?かもしれない
ちょっと大人な短編物語集です。
日常に突然訪れる刺激的な体験。
少し非日常を覗いてみませんか?
あなたにもこんな瞬間が訪れるかもしれませんよ?
※本作品ではGemini PRO、Pixai.artで作成した生成AI画像ならびに
Pixabay並びにUnsplshのロイヤリティフリーの画像を使用しています。
※不定期更新です。
※文章中の人物名・地名・年代・建物名・商品名・設定などはすべて架空のものです。
敗戦国の姫は、敵国将軍に掠奪される
clayclay
恋愛
架空の国アルバ国は、ブリタニア国に侵略され、国は壊滅状態となる。
状況を打破するため、アルバ国王は娘のソフィアに、ブリタニア国使者への「接待」を命じたが……。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる