愛を知る

天渡清華

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その2

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 やはり、予感は的中したらしい。
 事務所を通じての坂上からの依頼を受け、アズマは坂上がツアーのリハーサルをしているスタジオにやって来た。だが、広いリハーサルスタジオには誰もいない。大きなホワイトボードに貼られたスケジュール表を見ると、今日リハーサルはオフだ。
 スタジオにはキーボードが置かれている坂上の居場所を中心に、楽器や機材、譜面台などがメンバーごとにセッティングされている。ギター、ベース、ドラム、それにスタッフの居場所。それぞれの場所に着くべきミュージシャンやスタッフがおらず、煌々とした明かりの中ですべてが沈黙している部屋に一人。なんだかいたたまれない。
 誰もいないのに明かりがついていたのは、どういうことだろう。もう坂上は来ているのか。だが部屋に人の気配はなく、アズマはスタジオに入ってまっすぐ一番奥まで進んだ、休憩用にテーブルと椅子が置かれた場所に行き、椅子に座った。
 暖房が入っておらず肌寒く、一度は取った黒いマフラーを巻き直す。アズマは今日も全身を黒一色で包んでいた。
 坂上はこれ以上、どうしようというのだろう。今ここにいる自分は、もう坂上を受け入れ、快楽をそのまま快楽として味わうことはできない。いや、しない。福島にしか、この身体は満たせなくなってしまった。
 ドアが開く音。笑みを含んだ坂上が現れ、やけに丁寧な仕草でしっかりとドアを閉める。缶コーヒーを二本持った手で暖房をつけ、空調が動き出す。すぐには話を終わらせないつもりだろう。
「呼び出してごめん」
 目が落ちくぼみ、少しやつれたようにも見える坂上の顔。着ている服もいつもとは違い、部屋着の下だけを履き替えたような、よれよれのトレーナーにジーンズだ。福島から話は聞いていたが、思っていたよりもひどい。福島と二人きりで会ってから約一週間、坂上はなにを思って日々を過ごしたのか。
「仕事だって聞いたから」
 もちろんギャラは出るよ、と言いながら、坂上は缶コーヒーを一本アズマの前に置き、向かい側の椅子に座った。自分の分の缶コーヒーを開け、ぐっと飲む。
「きれいだよね、アズマさんは」
 アズマは無言で坂上を見た。地を這うような声。笑顔の中の、笑っていない昏い瞳。ある程度覚悟してきたつもりだが、胸がざわめく。
「そんなに警戒しないでよ。俺は話がしたい、それだけなんだ」
 坂上は肩をすくめて見せ、缶コーヒーをことりとテーブルに置いた。
「とりあえず、飲みなよ」
 コーヒーを勧めてくる坂上に、アズマはただ小さくうなずいた。
「でもそんなきれいな顔して、二股かけるなんてひどくない?」
 二人だけのスタジオに、わずかに坂上の声が響く。こんな話を、普段音楽があふれるこの場所でしたくはなかったな、とアズマは思った。
「二股? 健介がそう言った?」
 アズマはさも不思議そうに言った。坂上が眉を寄せる。
「いや……」
 アズマの返しが予想外だったのか、坂上の表情に少しの緊張と困惑が浮かぶ。
「二股どころじゃないよ。まあ、堂々と言うことじゃないけどさ」
 この際、自分の本性をぶちまけ、坂上に思い知らせてやろうと思った。坂上が自分に勝手に抱いている幻想は、もう邪魔でしかない。
「業界では有名かと思ってたけど、うぬぼれだったかな」
 あっけに取られたか、それともなにを言い出すか分からないのか、ただアズマを見ている坂上。セットされていない髪が、暖房の風に揺れる。
「アズマリョウは誘えば必ず抱ける男だって、聞いたことない?」
 アズマは首をかしげて微笑んだ。こういう自分の仕草が、どういうわけか人を引きつけてしまうらしい。意識してやっているわけではないのに、なんて面倒なんだろう。これからは福島さえそばにいてくれればいいのに。
 かといって、人づきあいしていく中で笑わずにいるのはさすがに無理だ。だが誘われればほとんど断らなかった自分を変えたように、他のことももっと自覚的に選び、行動して生きていかなくてはいけない。
 福島がいれば、それができる。強くあれる。我ながら、本当に今さらな決意だ。
「こんなクズに執着するだけ時間の無駄だよ」
 アズマは笑みを消し、まっすぐに坂上を見た。
「……嘘、だろ?」
 坂上の顔が引きつる。福島とのことを問い詰めるつもりだったのだろうが、逆に追いこまれているようだ。それなのにまだ、分かろうとしないのか。アズマの中に、あわれみと嗜虐欲のようなものが同時に生まれた。
「例えば拓に抱かれたその日に、健介を部屋に呼んで泊めて何回かヤって、その二日後ぐらいには前から寝てる相手の誘いで寝る。他にも、何人か寝る相手がいる。俺の生活はずっとそんな感じ」
 今度は意識して、坂上がきれいだと言う顔がなおさらきれいに見えるように、アズマは笑ってみせた。案の定、坂上は一瞬化け物でも見るような顔でアズマを見ると、目をそらす。
 だがもう、そんな生活は過去のものになりつつある。今まで寝ていた複数の相手との関係は、うまく切れたはずだ。もともと、最近寝ていたのは割り切った関係を求めていた年上の相手がほとんどだったから、一度二度と断っていたら連絡してこなくなった。しつこいのは坂上だけだ。
「分かっただろ、俺が裏方でいる理由。こんなん人前に立たせらんないって、自分でも思うもん」
 アズマは長い脚を組み、椅子の背もたれに腕をかけた。受け止めきれないのか黙ったままの坂上を、うっすら笑みを含んだまま眺める。冬の月のような、冴えて冷たい横顔。
「でも、健介はこんな俺でもいいって言ってくれる。クズはクズ同士よろしくやるから、これからは俺に関わらない方が拓のためだよ」
 ひでえ、と顔をそらしたまま坂上はつぶやいた。
 なにがひどいのだろう。自分の言い草がか。この生き方自体がか。坂上の抱く幻想やプライドを打ち砕いたことがか。それとも……。思いつく理由が多すぎて、おかしくなってくる。
「……なんなんだよ、俺の人生……!」
 うつむいて肩を震わせ、テーブルをたたく坂上の声は、涙に震えているようでもあった。
 ああ、そっちか。冷たくアズマは思い、ただ黙って坂上を見守った。経験上、これが本心からの反応にしろ演技にしろ、下手にそばに行くと暴力を振るわれたり、とにかくろくなことにならない。
 デビュー前のことはよく知らないが、坂上はスムーズにメジャーデビューしてその後も順調な音楽人生を歩んで来たし、いわゆる修羅場に慣れていないのだろう。それに、持って生まれた素質や能力の差はどうにもできない。坂上は周りが見えてなさ過ぎる、と福島が思うのも、持てる者だからこそだ。人生は、残酷だ。
 坂上がゆらりと顔を上げる。据わっている瞳。
「ねえ、飲みなよコーヒー」
 アズマは目の前の缶コーヒーに目をやった。外見はなんともなさそうだが、明らかになにかある。
「なんで、飲んでくれないの?」
 坂上が席を立つ。幻が立ち上がるかのようで、アズマは身構えた。涙に濡れた顔は、明るすぎる照明のせいで、無様な坂上の表情をなおさら強調するかのように輝く。
「あんたが欲しいんだよ、アズマさん」
 まっすぐに見つめたまま、テーブルを回って近づいてくる坂上の瞳が恐ろしい。アズマは椅子を倒して立ち上がり、ドアに向かって走ろうとした。
「あんただけでも欲しいんだよ、あいつになにもかも取られてたまるかよ!」
「あっ……!」
 コートの裾をつかまれて、アズマは床に転んだ。坂上が足にしがみついてくる。血走った目。逃げようともがいたが、力が強くて振りほどけない。
「あんたがコーヒー飲んでくれたら、こんな手荒なことしないで済んだのに」
 おそらくコーヒーにはなにか薬が仕込んであったのだろう。アズマは恐怖を感じて、ますます激しくもがいた。
「暴れないでよ、あんたも他の連中もなんでみんな健介がいいの? 俺がなにしたっていうんだよ……!」
 右手でアズマのジーンズのベルトをつかみ、坂上がぐっと身体を寄せてくる。そのまま両手でベルトを外そうとする、血走った目。
「相手のことなんかなんも考えちゃいないからだろ! 欲しい欲しいってそればっかりで、俺のこと大事にしてくれたことがあったかよ!」
 アズマは怒鳴ると同時に、思いきり坂上の胸を蹴った。坂上の手が離れた隙に立ち上がり、とにかくこの部屋から出ようと必死にドアに急ぐ。
「……あんたがきれいなのが悪いんだ」
 空虚な、背筋をぞっとさせる声が追ってくる。
「あんたが、きれいだから……」
 背後にいるのは、生きている人間ではないような気すらする。アズマはなんとか坂上に追いつかれる前に、スタジオを出た。もつれる足で走る。玄関を出て、細い路地から大きな通りへ。大きな通りを私鉄の駅の方へ。
 やけに息苦しい。坂上にしがみつかれた感触が残り、血走った目が、あんたがきれいだからと言った声が、目と耳にこびりついて離れない。寒い。
 黒いコートのボタンを止め、マフラーを巻き直す手が震えた。ふと、歩道で立ち止まる。
 これは気温から来る寒さや震えではない。そう気づく。坂上の常軌を逸した行動に、それをさせたのは自分だということに、心を殴られたようだ。
 アズマはすぐ横のビルの外壁に、ふらりと肩で寄りかかった。額を右手で押さえる。
 最近、これまで三十年も生きてきたくせに知らなかったことを、今さら知ることが増えた。自分の本当の気持ち、他人の痛み。自分の身勝手さ、醜さ。それはおそらく、他の人間ならとっくに知っているはずのことばかりで。坂上に言ったことはそのまま、自分のことだ。これまでどれだけの人の心を知らずに傷つけてきたのか。
 冷たい風が吹き、足元を落ち葉がかさかさと音を立てながら流されていく。足早に、自らの意思で歩いているようにも見えた。
 自分も帰ろう。こんなところでいつまでも止まっているわけにはいかない。なんとか気を取り直して歩き出した時、コートのポケットでスマートフォンが震えた。ぎこちなく取り出すと、福島からの電話だ。
『アズマさん、今どこ? 大丈夫?』
 いきなりの切羽詰まった声。それなのに福島の声は、アズマの胸にあたたかく響く。
「……大丈夫、って……?」
 ぼんやり応えてから、福島が事務所かどこかで今日の予定のことを知ったのかも知れないと気づく。
『拓に呼ばれたんでしょ、なんで言ってくれなかったの?』
 やはりそうだった。福島はいつだって、自分を気にかけてくれている。
「大丈夫、なにかされたわけじゃないから、大丈夫……」
 次第に震える声。道行く人の視線に、アズマは立ち止まり建物の方に身体を向けた。
『泣いてるの? 今どこ? スタジオの近く? 教えて、迎えに行くから』
 心から心配そうに、矢継ぎ早に言う福島の声に、涙があふれる。苦しい。
 アズマがなんとか今いるところを伝えると、すぐ行くから待ってて、と言い電話は切れた。福島がどこから来るのかは分からないが、事務所にいたならそう遠くはないはずだ。
 坂上もまだ、スタジオでひとり泣いているのだろうか。福島が言うように坂上が自業自得だとしても、こんな自分のために泣くことはないのに。いやあれは、坂上自身のための涙か。どちらにせよ、傷ついた心から流れた涙であることには違いない。
「アズマさん!」
 福島の声に、アズマは振り返った。黒い車の運転席から身を乗り出し、助手席の窓を開けてアズマを手招きしている。ほんの数分しか経っていないような気がしたが、そんなはずはない。
「早く乗って」
 アズマは歩道から車までの短い距離を走り、飛びつくようにドアを開けて車に乗った。すぐに車が走り出す。
「とりあえずすぐ近くのホテル取ったから、そこに行くね」
 ボックスティッシュを差し出してくる硬い声に福島の顔を見ると、これまで見たことがないほど厳しい表情だ。
「早く確かめたいから」
 なんとなく、なにを、とは訊けなかった。車はお互い無言のまましばらく走り、やがてホテルの地下駐車場に吸いこまれた。
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