愛を知る

天渡清華

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その1

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 いつものような、笑える余裕などなかった。車に乗りこんできたアズマの髪は乱れ、白い顔は一層白く、黒いコートはあちこち汚れていた。なにかされたわけじゃないという言葉は、おそらく半分嘘だ。
 ホテルにチェックインし部屋に行くまでの間、福島は無言だった。アズマにどういう言葉をかければいいのかを、すぐにでもアズマを抱きしめたい衝動を抑えながらずっと考えていた。
「健介とホテル来るなんて、いつぶりかな? なんか新鮮でいいね」
 名の知られた都心の高級ホテル。ツインルームに入ると、アズマはそう言って微笑んだ。ぎこちなく、無理をしているのが分かる。そんな笑顔を見て、福島はさっきまであれほど触れたかった身体に、なんとなく触れることが怖くなった。
「俺の前でまで、無理しないで」
 福島はそう言うと、とりあえずアズマの汚れたコートをきれいにするために、なにかないかと部屋のドア近くのクローゼットを開けた。さすがに高級ホテルだけあり、きちんとした洋服ブラシが備えられている。
「まずはコート……」
 思わず途切れる福島の言葉。洋服ブラシを手にし、クローゼットの扉を閉めた途端に目に入ってきたのは、アズマの頬を流れ落ちる涙。
 長いまつげが瞬く度に涙がこぼれ落ち、噛みしめた唇が赤い。せつなげな表情で泣くアズマは、本当に美しい。福島の中でアズマにかけるべき言葉はますますどこかに隠れてしまい、見つけられなくなる。
「……拓に会うこと隠してたの、怒ってる……?」
「怒ってないよ」
 よかった、と言って涙を拭うアズマは、子供に戻ったかのようだった。
「あんましゃべんないし、笑わないし、俺……」
 言葉に詰まり、また新たな涙がアズマの頬を伝う。もしやアズマは、嫌われたかも知れないと恐れたのだろうか。愛しい。こんなことぐらいで、この気持ちはなにも変わりはしないのに。
「ごめん、ごめんね」
 思わず手にしていた洋服ブラシを投げ捨てて、福島はアズマを抱きしめた。アズマもしがみつくように抱きしめ返してくる。
「本当になんもされてない?」
「なんとか逃げてきたから……」
 アズマには言葉はいらない。すぐにでもただ抱きしめて、安心させてやるべきだった。
 アズマの髪を背中を、肩を腕を、福島は想いをこめて撫でる。キスしようとすると、アズマはわずかに顔を背けてそれを拒んだ。はっきりと分かるほど欲情しているのに、キスは嫌がる。こんなアズマは知らない。
 ごめん、と言うと、アズマは小さく首を横に振った。
「謝るのは俺の方だよ、俺こんななのに、拓との仲だってめちゃくちゃにしちまったのに、なんで健介は……」
 あえぐように言うアズマ。涙は止まらず、かなり混乱しているように見える。坂上といったいどんなやりとりがあったのか。
「愛してるからだよ」
 福島はアズマをまっすぐに見つめて言った。愛を分からせるためには抱くのが一番だが、キスすら拒まれた今はただ抱きしめていよう。
「……愛って、怖いね」
 目を伏せてつぶやくアズマ。福島の背中に回った手が、ぎゅっと福島の着ているパーカーを握りしめる。
「でもたぶん、愛を知らない方が怖い」
 アズマが小さくため息をついたのを、福島は肩に感じた。
「今さらこんなことに気づくの、自分でもどうかと思うんだけど、俺は自分の性欲のためにずいぶんいろんな人の心を踏みつけにしてきたんだなって」
 アズマは変わりつつある。それも、相当大きな変化だ。自らの変化に、アズマ自身の心も追いつけずにいるのではないか。
「拓の様子が尋常じゃなくて、」
「アズマさんのせいだけじゃないんだ」
 福島は思わずアズマの言葉を遮った。しっかりとアズマの肩をつかみ、瞳をのぞきこむ。
「あいつ、わがまま言いすぎて事務所からもキツいこと言われたらしい。だから、あんまり自分を責めないで」
「でも……」
 揺れる瞳。アズマは坂上と直接会い、自分が与えた傷の大きさ、深さを目のあたりにしてショックを受けたのだろう。だが過去まで振り返る必要はない。今さら後悔しても取り返せないことを、あれこれ悩むのは無意味だ。幸せが誰かの、例えば坂上の犠牲の上にあることまでいちいち考えていたら身が持たない。冷たいかも知れないが、それが生きていくということだ。
「ねえ、とりあえずコーヒーでも飲まない? 顔洗って来なよ」
 欲情した状態でずっと抱きあっているのは、アズマにとっては拷問に近いのではないか。もしアズマが自省して性欲を抑えようとしているなら、福島はそれにも当然とことんつきあうつもりだ。
 気のせいか、アズマは少しほっとしたような顔でうなずき、コートを脱いでクローゼットにしまい、バスルームに向かう。福島はその間に備えつけの電気ポットでお湯を沸かし、二人分のコーヒーを入れる準備をした。
 ふと窓の方を見ると、闇に覆われつつある街の明かり。二人分のコーヒーを、福島は窓の方を向けて置かれているソファの前の小さな丸テーブルに置いた。高層階からの夜景を、ソファでくつろぎながら見られるようになっている。
「こういうのもいいね」
 バスルームから出てきたアズマは、顔色も戻り表情もいくらか和らいでいた。ソファに座って待っていた福島の左側に座り、福島の左腕に右腕を絡ませて手を握る。
「まあ俺の場合、性欲ぶっ壊れてる自分が悪いんだけど。健介といるのに、まだキスすらしてないなんて快挙だよ」
 冗談めかして言うアズマの手に力がこもる。抱かれたいのを我慢しているのかと一瞬思ったが、ちらりと見た横顔は穏やかで。坂上との間になにがあったのか、聞くのは後にしよう。
 二人はしばらく、ただ黙って寄り添って窓からの夜景を眺めた。空気が澄んでいるのか、東京タワーと満月に近い月の共演が美しい。
 こころの表面をぬるま湯で洗われるような、優しい安らぎと幸福感。だがもう、嵐は始まっている。嵐が去った後、自分達はどうなっているだろう。こんなふうに寄り添っていられるだろうか。
「……愛してるよ、健介」
 ふいにぽつりと、福島の肩に頭を預けていたアズマがつぶやく。うん、とだけ応えて、福島はアズマの手をきつく握り直した。まだあたりを漂っているかのようなアズマの言葉の余韻を、じっくりと噛みしめながら。
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