泉界のアリア

佐宗

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第一部 血族

10堕ちし月神②

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 ……それは地上界テベルでのことだった。
 ある日気ままに冥界を抜け出し、人間の姿に身をやつして旅に出たヴァニオンは、地上界で世にも美しい一人の青年に出会った。
 三日月の美しい夜、人里離れた寂しい丘の上でのことだった。

 背を向けて何かを拾い集めているその人影に、ヴァニオンは馬から降りて呼びかけてみた。
『お前、何をしている』
 金の髪を長く伸ばし、青い瞳でこちらを振り返ったその青年の手には、きらきらと光る小さな塊がいくつも握られていた。星の綺麗な晩に、それは星よりも遥かに煌いて、青年の体全体を包み込んでいた。

『月のかけらを集めているのです』
 彼はそう答えた。瞳は悲しげに曇っていた。
『月の、かけら?』
 ヴァニオンは問い返しながら天を見上げた。月なら宙天に輝いているではないか、と云おうとしたが、青年のほうが先だった。

『誤って落としてしまったのです。これが無いと、満月の形を作れないので……』
 おかしなことを云う奴だと思った。気がふれているのかもしれない。
『するとそのかけらを集めて、満月を作るって云うのか』
『そうです。私が毎晩この仕事をやらなければ、テベルの人々は暦を知ることができません。現に、今宵は、昨晩から月の形が変わっていないので、早く拾って帰らなければ人々の暦を狂わせてしまうでしょう』

 こうしてはいられないと、青年は再びかけらを拾い始めた。その頬にさらさらと金の髪がこぼれて、月の光に照らされている。黙々とかけらを拾うその姿は、人間とは思えぬ美しさだ。
 ヴァニオンはふと聞きとがめた。

 地上界テベルの人々、といわなかったか。

 そんな云いかたをするのは、地上界の民ではない者のみ。天上界アルカディアか、冥界の者だけ。
 そしてこの金色の髪……。
 そうか、こいつはアルカディアに住む神族なのか、と思い当たった。きっと月の満ち欠けを司る神なのだ。それが、月の満ち欠けに必要な月のパーツを落として、それを拾いに来た……。

 面白い、と唇に笑みがこぼれた。それを隠して、ヴァニオンは青年に近づいていった。

『手伝おうか、ひとりでは拾いきれまい』
『……お願いしたいところですが、これは私の落ち度。一人でやらなくては、意味がありません』
『罰を受けたのか』
 青年は答えないが、沈黙が肯定を意味している。一人で集めるよう云われてきたのだろう、しゃがむ背中が疲労の色を隠せずにいる。

 それにしてもなんと美しいのだろう、この天上界の住人は。色味は全く異なるが、ナシェルにも引けをとらない美貌だ。

 ヴァニオンはその姿を凝視するうち、この獲物をとり逃す手はないと思うようになっていた。
 ふと見れば、彼の足元にも、光る小さな物体が落ちている。ヴァニオンはそれを黙って拾い上げ、気づかれぬようそっと懐に入れた。
 懐の中が、火がともったように一瞬熱く火照った。



 ……やがて全部のかけらを拾い集めた青年は、それを数えてため息をついた。
『ひとつ足りない……』
 探して辺りを見渡すその背にヴァニオンは、そういえば……と呼びかけた。

『俺は向こうのほうから来たのだが、きらきら光るものを見かけたぜ。もしかしたら、そのかけらだったのかもな』
『本当ですか。向こうとはどちらです?』
『だいぶ向こうのほうだぜ、歩いては行けそうもない。それにあんた、だいぶ疲れているようだし、何なら乗せてってやろうか』
『ですが旅の方、それでは貴方にご迷惑がかかりましょう。お気持ちだけで……』
『いいってことさ、どうせ行くあてもない旅だ。ほら乗りな。えっと……名前は何て云うんだ?』
『サリエルといいます』
『そうか、俺はヴァニオンだ』
『感謝します、ヴァニオン殿。でもあの……本当によろしいのですか』
『そんなに云うなら後でひとつ、何か願い事でも聞いてもらおうかな。それでいいだろ』

 ためらうサリエルを自分の鞍の前に跨らせ、ヴァニオンは馬の腹を蹴った。愛馬の炎醒アイシスは地上界ではその黒い翼をしまい、普通の馬の姿をしている。彼は地上を走るのに慣れていない上に二人も乗せられたことに憤り、鼻息を荒くして息巻いている。ヴァニオンはサリエルが振り落とされないよう、片手で手綱を握り、片手をサリエルの腰に廻した。

 世間知らずの天の神、お前がついてくるから悪いのだと、ヴァニオンは胸中で繰り返して自分の卑劣さを頭から追い払った。

 黒馬はひた走る。冥界への入り口へと……。
 



 無論、“月のかけら”とやらは返してやったさ、とヴァニオンはその時のことを回想する。
 若かったとはいえ、後先考えぬ行いだったと、今思えば後悔せぬでもない。

 あのあと、黄泉への入り口付近で二人は馬を降り、月のかけらを探した。ヴァニオンはすばやく懐から本物のかけらを取り出して、さも今見つけたようにサリエルに手渡したものだった。
 感謝するサリエルは、『私にできることなら何でもしましょう』と云った。この一言を、彼は今も後悔しているに違いない。

『俺の望みは何かだと?俺の望みはあんたさ……』
 魔族の本性が剥き出しになった一瞬。ヴァニオンの瞳が、底の見えない奈落の闇色をしているのに気づいて、ようやくサリエルは彼の正体を悟ったのだ。

 暴れるサリエルを無理やり黒天馬の背に引き上げ、冥界の入り口を潜った夜。それが、サリエルが夜空の月を見た最後の晩だった。
 サリエルはしきりに天王の名を叫んでいた。その唇から他の男の名が発されるのが許せず、レオンの名を呼ぶ口を塞いだものだ。



 サリエルが集めた月のかけらはその辺りにばら撒いておいた。誰かが見つけて天上界に持ち帰ったであろう。あるいはサリエルを攫ったのが魔族の仕業と気づかれたかも知れぬが、いまだに取り返しに来ないところを見ると、サリエルの位はそれほど高いものではなかったのだろう。

 天王レオンの恋人の一人だったようだが、もしかけがえのない存在であったなら、レオン自ら奪い返しにくるところだ。それがないのも見ても、彼の天界での境遇が窺えた。


 もうずいぶん昔のことだが、今でもはっきりと覚えている。
 離れに近づくにつれ、微かな鳥琴リュートの音色が耳に入ってくる。
 物悲しい旋律だ。天上界を懐かしんで奏でる曲。
 忘れ去られた、月神一族の青年……、もはや神司は失われているだろう。一族のほかの神が、その司を受け継いでいるに違いない。もはや、天上界に帰るところなどないのだ。
 だからそんな風に、いつまでも故郷を懐かしむのは止めてくれ……。

 胸の詰まりそうな思いを堪えて、ヴァニオンはドアを叩いた。
 ぴたりと、旋律が止んだ。息を忍ばせる気配が、扉越しに伝わってくる。返答を待たずに、ヴァニオンは部屋に入った。

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