泉界のアリア

佐宗

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第一部 血族

19別れと誕生と①

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 ……それが悪夢であることは明らかだった。
 暗い闇に包まれた、永い永い廊下の中央に、ナシェルは立っていた。

 進んでよいものか、それとも退るべきなのか。
 考えあぐね、誰か導いてくれる者を待つかのように彼は立ち尽くしていた。

 押しつぶされそうな闇に……普段は安らぎすら感じるはずの巨大な闇に、なぜか今は眩暈すら覚えた。
『……ル』
 かぼそい呼び声に面を上げれば、遥か前方にぼんやりと霞がかった金色の光が見える。
『……愛しているわ、ナシェル』

 優しい声が光の中からそう囁きかけた。その声の主が、愛しい王妃セファニアだと、瞬時に気づいた。
継母上ははうえ……』

 もっとそばに。もっと近くでその言葉を聞きたい。ナシェルは光射す方向へ踏み出そうとした。
 闇神の世継ぎである彼にとって、光はあまりにも眩しかったが、それに対する嫌悪感は不思議と湧いてこなかった。
 それどころか、この機を逃してはもう二度と継母に会えぬであろうという焦燥感が、彼を無我夢中で光のほうに向かわせた。

 だが、どれだけ追いすがろうとも、光は遠ざかってゆく。美しい継母の面影も声も、ぼんやりと霞んでゆく。
『何処へ行かれます! 継母上……!』
 手を伸ばせる限り伸ばし、喉を嗄らして叫んだ。

『世界をお創りになった創世主さまの御許へ……。そこには争いも何もないの。
神も魔も、天も冥も、正統も異端も。私たちを遮るものは何もない……』
『待ってください!』
 背後から忍び寄る闇が、ナシェルの足を取って前に進ませじとしているかのようだ。
 四肢は酷く重くなり、一歩ごとに鉛の負荷を足されているような錯覚。

『私を置いていくのですか……』
(余を置いて行くのか、ティアーナ!)
 ハッとした。父の声だ。

 生まれ出る直前、ティアーナの腹の中で、ナシェルも確かにその悲痛な叫びを聞いていた。愛しい妃を喪おうとしている父の、焦燥した声を。
 胎内記憶など信じぬが、もし己を形成する要素の根底にそれがあるとするならば……、その記憶がこの悪夢を見せているのか?

『あなたもここへ来ればいいのよ……待っていてあげる。ナシェル……貴方をセダルから解放してあげる』
『……解放?』

 直感的に、戻らねばならないと、ナシェルは感じた。
 戻らねば……また、父上を独りにしてしまう。

 引き返そうとして、ナシェルは躊躇した。いつの間にか眼前まで近づいた光の中から、白く細い継母の手が伸びて、こちらへ来よと誘っている……。

『ナシェル……愛しているのよ。もう振り返らないで……』
『……エル、何処へ行くのだ』

 不意に優しいセファニアの声を遮り、背後から低く響いてくる声がある。

死の影の王シャフティエル…こちらへおいで。行ってはならぬ。我々は光の世界では生きては行けぬのだから』
『父上』
 引き付けられるように振り返れば、闇の中に浮かぶ紅玉の双眸がある。それはだんだんと人の形をとり、闇の中に鏡のように自分と同じ、白い容貌が浮かび上がった。

『どうしたの、そなたの父はここだよ。なぜ逃げようとする……?』
『父上』
『戻っておいで。余の許へ。共に堕ちようと誓ったのではなかったか? そなたは、余をまた孤独にするつもりなのか』
『い、いえ……』
『いい子だ……さあおいで。もはや余の孤独を癒してくれるのはそなたのみ。ティアーナも、セファニアも、みな余を置いて去ってしまう。余のそばに在れるのは、余の血を引くそなただけ。そなたのいない世界など、余には耐えられぬ』

 そう苦しげに繰り返す父の、その背の向こうに広がるのは虚無の闇。継母の後ろに射す光とは対照的に、そこにはただ何もかもを飲み込もうとする奈落の淵があった。

『ナシェル……振り返ってはだめ』
『ナシェル、父の許へ戻って来よ』

 呼びかける二つの声に挟まれ、ナシェルは進退窮まって立ち尽くす。
 走ってもいないのに激しい動悸がし、息が上がる。
 大粒の汗が頬から顎へ流れ、滴り落ちてゆくのを自覚した。

『継母上。…父、……上』

 後ろから不意に、冷たい白い手がナシェルを捉えた。あ、と思う間に後ろへ引かれ、次の瞬間にはもう虚無の闇に抱きすくめられている。父の冷たい手が二の腕を掴んでくる感触が、夢にもかかわらずやけにはっきりしていた。

 その途端。
 前方の光は消滅した。浮かび上がっていた継母の神々しい姿もまた。
 世界は暗闇に舞い戻り、ナシェルは再び闇の中に居た。

 そして“闇”そのものが己の父であった。

 頬を伝う雫を涙とも気付かずに、闇に抱かれながらナシェルは、はっきりと継母の最期を、感じていた。



◇◇◇


「……ッ!」
 目を覚ますと、見慣れた私室の天井が目に飛び込んできた。寝台の上にいる。
「夢、か……?」

 汗で額に張り付いた黒髪をかきあげ、荒い呼吸を鎮めながら、ナシェルは今一度振り返る。
 継母を失ったのだと直感させるには、充分すぎる悪夢だった。
「そんな馬鹿な。ただの夢だ」



 そのときテラスから入ってきた闇の精が、側へ来て恭しく、御子神よ、冥府にて主神がお呼びであると告げた。妃神が死んだのかと尋ねても、口数の少ない闇の精は、詳細は知らぬと云って多くを語らぬ。

「まさか……」
 呆然としながらも何とか立ち上がり、近習のイスマイルを呼んで着替えた。
「冥府へ行く。今何刻だ」
「3ツ刻過ぎであります、殿下」

 近習には冥界貴族の子弟が数名、交代制でついている。今宵は魔獣界のヴァレフォール公爵の末孫がその任に当たっていた。仮眠していたのであろう少年は、眠い目を苦労して見開きながらナシェルの脱いだものを拾い集めた。

司令官アシュレイドには冥王宮より私にお召しがあった旨を、ヴァニオンは……たぶん領地に退っているだろう、登城したらすぐに追いかけてくるように伝えろ」
「畏まりました。あっ、ヴェルキウス様の居所なら存じ上げております。まだ城下におられるものと、」

 小姓は何かを思い出して、たったいま目が覚めたようにナシェルを見上げた。
「黒翼騎士団にいる私の兄が、勤務明けにヴェルキウス様の奢りで城下で飲むと話しておりました。だいたい兄たちが行く店は見当がついております」
「そうか、お手柄だ。今からそなた厩舎番を叩き起こすついでに城下まで走っていって、供をいたせと奴に伝えてくれるか」
「畏まりました」
 少年は鳥のような身軽さで退出した。

『世界をお創りになった創世主さまの御許へ行くの……そこには私たちを遮るものはなにもないのよ』

 夢の中でナシェルを呼んでいた優しい声が、まだ脳裏にこびりついている。
 外套の釦を留めるナシェルの指はこわばっていた。

 それはとても確信に近い予感だった。
 衣装棚の脇に置かれた姿見の向こうで、群青色の双眸が、自分を冷めた目で見つめている。


 死の精を従え地上界の人の死を司る者よ。
 愛する女神の生死すら左右できぬお前は、神として何と無力なのか。
 そしてこれからお前は大きな悲しみに耐えなければならない。
 その覚悟はできているのか、と。

 その目は語っていた。




 ほどなく城の地階に降りたナシェルは、黒天馬の幻嶺をつないでいる厩舎で、乳兄弟のヴァニオンと合流した。

 城下で余暇を過ごしていたらしいヴァニオンは、しかしナシェルの鬼気迫る様子から、只事ではないと瞬時に悟ったようである。
「ヴァニオン。セファニアが……夢に現れて……、消滅、したのだ。父上が、精霊を飛ばしてきて」
「分かった。とにかく冥府まで急ごうや」
 ヴァニオンはナシェルを落ち着かせるように肩に手を置き、馬の方へ促す。

 高貴な二人の青年はそれきり言葉もなく、それぞれの黒天馬に跨った。黒々と光る翼をはためかせ、エレボス城の厩舎から暗黒界の宙空へと一足に飛翔する。

 ウォォォォォォ……、ウォォォォォ……

 哀しげな魔獣の嘆きと聞き違える、暗黒界エレボスの強風。その風を黒き翼で受け流しながら、黒天馬は一路、王府を目指す。
 供をするヴァニオンは、無我夢中の様相で馬を叱咤するナシェルの背を見つめ、思う。
(消滅する夢を見たってのか? ならば、もう遅いのかもしれない)

 哀しい予感に、手綱をぐっと握り締めた。
 自分なら、サリエルの亡き骸など見たくもない。魂を失った躯など、それは愛しい者でも何でもない……。
 ひたむきさを隠さないナシェルに、お前は本当に馬鹿な奴だと、内心で呼びかける。
(だけど、俺とお前は似ているな。その馬鹿さ加減が……結ばれようのない恋に、ここまで狂うことができるという、そのどうしようもなく愚かな所が)

 愛する者の死に様など見てどうなる、といいつつ、ヴァニオンにもナシェルの気持ちが痛いほど分かるのである。
(俺も、お前のように取り乱すのだろう……。あいつが死ぬという、その時がきたら)

 脳裏に浮かぶのは、自分がこの手で引きずり落とした、月の神の姿。セファニアよりもずっと後にこの冥界に堕ちたというのに、彼の病の進み方はセファニアのそれよりもずっと早い。神格が違うから、なのだろう。

 その分、死は早く訪れるということであり……。
 ヴァニオンは、やり切れなさに馬上で唇を噛む。
(……今のお前の姿が、明日の俺の姿かもしれない)

 だからこそ、打ちひしがれたナシェルの姿を見たくないのだ。愛する者の亡きがらに、頬を擦り寄せ涙せねばならぬ運命が、自分にも巡ってくるのかと思うと。

(他人事とは思えねえ……、だから、こんなにも苛ついてんのか、俺は)



 ヴァニオンの心の叫びをかき消すように、暗黒の空に響き渡るは魔獣の絶鳴のような風音。
 宙を翔ける黒き騎影ふたつ。
 手綱を緩めるナシェルの手の甲の白さと、そしてヴァニオンのあかくたなびくマントの裏打ちの色だけが、今は暗闇を彩る僅かな色彩であった。


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