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第一部 血族
20別れと誕生と②
……命の炎はまさに消え逝かんとしていた。
セファニアは微笑んでいた。母なる女神に相応しい、慈愛に満ちた笑みであった。
出産を終え、残されていた全ての力を使い切って、女神はそれでも微笑みとともに旅立とうとしていた。
全ての罪し者に赦しを与えるような翠色の瞳が、瞬く力すらも失ったかのようにじっと、夫である冥王に向けられていた。
「泣くことはないのよ……私の命は生まれた子に引き継がれるのだから。私はもう一人の新しい私を産んだのよ。ナシェルが、ティアーナ姉さまの体を介して生まれた貴方の半身であるように、私も、自分自身の半身を産んだの……。私の司はあの子に引き継がれるでしょう……」
「そしてティアーナのように余を置いていくのか、そなたも」
冥王は失われていくセファニアの手の温もりを繋ぎとめようと、彼女の細すぎる指を握り締めた。
光に属する神族は、闇の世界では生きられぬ。ナシェルを産んだティアーナがそうであったように。
「セファニア……」
セダルは薄れ行く意識を繋ぎとめようと、幾度もそう呼びかけた。女神は冥王を安心させるように、手を持ち上げセダルの頬を指で拭うような仕草を。目に見えぬ涙が、自分には見えるというように。
「こんなにも優しい貴方を、この黄泉の世界に堕とした天界のレオン兄様たちは、きっとどうかしていたのね……。貴方は邪悪な神などではなかった……ここへ来て、貴方に会って、私にはそれがよく分かりました。
天に呼びかける力が、私にあればいいのに。そうしたら私は天の兄様たちに伝えるのに。貴方が私たちと、どこも変わらないということを……」
「無駄なことだ。今さら天上界に帰りたいとは思わぬ。余にはこの世界のほうが合っている。闇の中にしか安らぎを見出せぬのだから。きっと創世神がわれわれをお創りになったときにはもう、余はこの地に至る命運と定まっていたのだろう……」
セファニアはぐったりと瞼を閉じた。
その瞼の隙間から零れるのは、透明の真珠のごとき涙。
かつて天界に居たころ、その涙からたくさんの新しい命の精を生み出すことが、彼女にはできた。
しかし死に逝かんとしている今では、その力は完全に失われてしまっていた。
「セファニア。余が天から半ば強引にそなたを迎えたこと、恨んでいるのではないのか」
途切れがちな意識を浮上させるために冥王は言葉をかける。
「いいえ……そんなことないわ。私、貴方との思い出を大切にしながら、創世主さまのところへ行くことにします。恨んでなんかいないわ。こんなにも愛しているのに」
「セファニア……」
誇り高き冥界の王は妻にすら涙を見せまいと思うのか、ぐっと堪えて赤き双眸を閉じる。
「ルーシェルミアを、私と思って、大切に育ててね」
「分かっているよ。余は経験者だ。子供の世話なら任せておけ」
冥王の軽口にも、もう微笑する力さえないのか、王妃は眠るように目蓋を閉じていく。
「ルーシェルミアを産んでくれて、ありがとう」
王妃は蒼白な顔をわずかに上下させて応じる。
「……少し、疲れたわ。眠ってもいい?……」
「駄目だ、まだ眠ってはならぬ。もうじきナシェルが来る。目を開けよ、セファニア……!」
しかしセダルの呼びかけにも応じず、王妃は深い深い眠りの底に落ちていった。
閉じられた瞼は、白いというにはあまりにも蒼白く。
セファニアの手を握り締めたまま、声を殺し、冥王はやがて静かに肩を震わせた。
それからどれほどの時間が経ったのだろう。
いつの間にか燭台の蝋燭も熔けて消え、暗闇につつまれた妃神の寝室で、ナシェルは聖なる遺体と対面することとなった。
彼は瞬きすら忘れ、ただ愕然と、白いドレスに包まれた継母の骸を凝視していた。
永い永い時間がかかって継母との距離を一歩づつ詰め、ようやく亡骸の横たわる寝台の前まで来ても、まだ死んだとは信じられなかった。
ただ死の精たちが、神の骸のもの珍しさに飛び回っていた。
乾いた喉から声を絞り出して、ナシェルは命じた。
「……お前たち、継母上に触れるな」
死の精たちは悪態をつきながら、聖なる遺体から離れた。
ナシェルは後ろにいるはずの父の腕を、助けを求めるかのように掴んだ。
「父上」
王はナシェルの手を取り、指に優しく口付けた。そなたも継母の死を受け入れなさいという、無言の意思が込められていた。
ナシェルはゆっくりと寝台の端に座って、継母の顔に手を触れた。冷たいことを感じてようやく実感が湧きはじめた。
父が傍らに腰を降ろしたのか、寝台が揺れて、少し沈んだ。ナシェルの悲しみを受け止めるように、いつになく優しく、髪を撫でられるのを感じる。痛いほど優しく。
「父上……大丈夫ですか?」
悲しみを押し殺し、暗闇の中で父の顔に触れた。それまで一言も発さなかった父は、初めて言葉を発した。
「大丈夫だ。……余はもう悲しみには慣れておる」
父は悄然とした声で答えた。
「余はこれで妻を亡くすのは二度目だから、悲しみにはもう慣れておる。だから大丈夫だ」
父は繰り返す。もはや悲しみも麻痺してしまったという口調であった。
「だがそなたは母の死を見るのは初めてであろうから、余よりも何倍も辛かろうな……」
「何を…………何を仰るのです」
ナシェルは父の手を探り、強く握った。
……なぜだ。なぜ王妃たちはいつも父を置いて逝く?
同じ神族であろうに。
天上界から来た神は冥界では永くは生きられぬ。
地上の生命を司り、天上界の最高神位の女神であった、セファニアでさえ。
ならば己が。同族がいない以上、己ひとりが担うしかないではないか。
父の孤独を癒し、父の狂気と向かい合うという役割を。
「父上」
冥王は労わるようにナシェルの髪を撫でた。
「余は大丈夫だよ。心配するな……。だが今は、しばし側にいてくれ……」
冷たくなったセファニアの亡骸のそばで、双神は長いこと身動きもせず、ただその美しい死に顔をいつまでも眺めていた。
◇◇◇
王妃の間へと続く廊下で、ヴァニオン・ヴェルキウスは、“毒の公爵”ファルクと出会った。
王妃の侍女たちの控えの間の前で、ファルクが所在なく壁に寄りかかっているところに出くわしたのだ。
「おや、従兄弟どの」
「王妃は?」
ファルクは丸眼鏡を押し上げたその指で奥の間を差し、ゆっくりと首を左右に振った。予想してきただけに、ヴァニオンにはそれだけで充分首尾が伝わった。
「王家の主治医殿がこんなトコで何してやがる」
「神々の死病は私にはどうすることもできないよ。無力感に苛まれていただけさ。
それよりちょうどいい。キミに見せたいものがあるんだ。来るかい?」
そう云うとファルクは背後の侍女部屋をノックして、その小さな木戸に体を滑り込ませる。侍女部屋に何があるのかと不審がりつつも、ヴァニオンもあとに続いた。
控えの間は、王妃の死の直後にも関わらず、異様な空気に包まれていた。
十人ほどの侍女が、貴公子が突然入ってくるというありえない状況にも構わず、あたふたと立ち回っている。みな、王妃の死を悲しんではいるが、それよりも今は大きな事に直面しているといった風に。
そして妙なことにこの部屋には沈んだ死の気配は微塵もなく、代わりに新しい命の気配に満ち溢れていた。
ヴァニオンはひるんだ。入ってくるべき部屋とは思えなかった。
しかしファルクは侍女を呼びとめ、ヴァニオンにそれを見せるよう頼んだ。
了解し、一旦奥に消えた侍女が、何か白い布の塊を大事そうに抱えて戻ってくるにいたり、ヴァニオンは嫌な予感に後ずさりした。
「ヴェルキウス様、ご覧くださいまし。セファニア様の遺された、唯ひとつの忘れ形見にございます。抱いてごらんになります?」
侍女に、白い布の塊を押し付けられ、ヴァニオンがこわごわ受け取ると、そこには小さな赤子が、大事に布にくるまれてすやすやと眠っているではないか。
「女の御子さま、王女さまでございますよ。偉大なる冥王陛下の第一王女殿下。王妃様の遺言で、名前はルーシェルミア様と決まりました」
ヴァニオンは小さな命の大きすぎる価値に慌てふためき、どうしていいかわからず思わずファルクに押し付けようとしたが、ファルクは身をよじってそれを避けた。
「避けるなよ!」
思わず叫んだヴァニオンの声に驚いたのか、赤子がおぎゃーっと泣き出した。
とたん、ファルクが避けた理由が分かった。
赤子の目に溜まった涙から、冥界において見る事は珍しい命の精が数匹誕生し、赤子を守るためにヴァニオンをつつき始めたのだ。
「珍しい光景だろう。王女はとてつもなく凄い力を持っている。この冥界において、命の精を造るとはね」
丸眼鏡をかけなおしながら、ファルクが冷静に評する。ヴァニオンは命の精たちに敵と見なされ、つつかれまくった。
慌てて侍女が、ヴァニオンから赤子を取り返すと、途端に精霊たちはおとなしくなった。
「何なのよ!? 俺の扱いって」
「ヴェルキウス様は、お声が大きゅうございますのよ」
侍女の腕の中から当の王女があどけない目をぱっちり開いて、さっき泣いたのが嘘のように、じっとヴァニオンを見つめはじめた。
白い肌に、うっすらと金の産毛。冥界の娘でありながら神族の容姿を持って生まれてきたその子は、あまりにも美しい赤子であった。ナシェルの、娘……。
その小さな、翠色の瞳。
ん、待てよ。ナシェルの娘なら蒼い瞳じゃないのか?
「殿下が私に、例の薬の処方を依頼した理由が分かったよ……」
ぼそりとファルクはつぶやき、ヴァニオンを廊下に連れ出しながらにやりと笑んだ。
「なるほどあれはマズいというしかないね。王女のあの蒼い瞳、殿下にそっくりだった。成程そういうことだったんですね」
「……どういうことだ」
「さっき先に来て王女を真っ先に拝見して、事情をお察しした私は陛下にばれる前にと思って、こっそり薬を献上したのだよ。例の目薬なんだけどね。……いやしかし、もう出来上がってて良かった。あまりの素晴しい出来に、我ながら早く殿下にお見せしたいと思って、試作品を運よく持参してたんだ。……そしたら私も、君と同じように王女の精霊どもにつつかれたというわけさ」
「なるほど、気がきくじゃねえか」
「だって陛下があの瞳の色を覧になったら、マズイんだろう?」
「……口外したら、殺すぞ」
「ふふ……。面白くなってきたね。この秘密を握っているのは、殿下と、私と、キミだけというわけだ。うれしいなあ。でも陛下はああ見えて鋭い御方だ。気づかないはずがないと思うんだがねえ……」
「ファルク、とにかく黙ってるんだ」
「分かった分かった。早くこのことを、殿下に報告したいなあ。また貸しが増えちゃったよ……」
ファルクは面白そうに、ヴァニオンは憮然として、二人は固く閉ざされた亡き王妃の寝室を振り仰いだ。
まだ悲嘆に暮れているのだろうか、冥王とナシェルが姿を現す気配はなく、小さな赤子のいる一室をのぞいて、冥王宮全体は不自然な静寂に包まれている……。
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