泉界のアリア

佐宗

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第一部 血族

27翳りゆく灯①

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 やがてナシェルの上から起き上がり、投げ捨てた鍵を拾い上げてきた冥王は、ナシェルの手枷を外し、擦れて傷ついた手首の痕に唇を寄せた。



「……痛むか?」
「……少し。でも、もう……大丈夫です」
 ちゅ、ちゅ、と繰り返される優しい口づけの音を聞きながら、ナシェルは答え、冥王の美しい黒髪の間に指を埋めた。
 拷問のような辱めの刻は去り、双神の間には漣のようなゆったりとした時間が流れている。

 冥王は闇の精霊に包帯と膏薬を運んでこさせ、ナシェルの手首の擦り傷を手当てした。
 それが済むとナシェルは横抱きにされて、さきほど無理やり捩じ込まれて酷い扱いを受けた後孔にも、膏薬を擦り込まれた。

 手厚い介抱の中に感ずる王の愛に、心がかき乱される。
 王の所業を思い出し、優しく介抱されながらナシェルは涙を流した。
 王は手当てがすむとナシェルの漏らす嗚咽を、唇を塞いで丹念に吸い取ってしまった。




◇◇◇




 二人は露台の長椅子から室内の寝台へ場所を移し、ふたたび折り重なった。
 セダルは先ほどまでの荒々しさとは真逆の優しさで、ナシェルを包み、愛しくてたまらないというように腕の中に閉じ込め、狂おしい愛の言葉を繰り返した。

「そなたを愛しているよ。本当ならば永遠に王宮の閨に繋ぎ閉じ込めて、余以外の者をその眼に入れることすら許したくはないほどなのだ……。けれどそれでは、そなたが発狂おかしくなってしまうであろうから。だから余は我慢して、そなたに自由を与えてやっているのだよ。それが判っているなら、ちゃんと今ここで、余以外に愛する者などおらぬと誓え。愚かな戯びはもう止すと」

 つらつらと説教を垂れながら、王は、熱い愛欲の証を体内にまたも打ち込んでくる。
 だがその行為からはもう、仕置きじみた乱雑さは失せている。獣の毛繕いのように丁寧に、余すところなく体中を愛されて、ナシェルは譫言めいた口調で赦しを請い、誓い、包帯をした両手で王に縋った。

 一言一言に己への溺愛を感じ、これほどに愛されているのだという悦びに満たされる。

 憎悪と愛と。振り子のように揺らぐ己の感情を、ナシェルは口に出して説明することができずに、ぎゅ、と眼を瞑る。

(なぜ私を、貴方の腕の中に、繋ぎとめておいて下さらなかったのです。
 成長して、中途半端な自由を与えられて、私は貴方以外の愛も知ってしまった…。
 貴方が私を自由になどしなかったら、永遠に貴方のもので居られたのに。
 幼い頃のように、二人きりで、他の者を愛することも識らずに暮らせたのに)

 純粋な心で王を思慕することができた、小さい頃が懐かしい。今は違うのだ。
 王の腕の中以外の世界をり、今はもう、己の心はそれほど単純ではない…。

(そんなにも愛しているなら、仔鳥のうちから鳥籠に閉じ込めて、羽根を弱らせ、外の世界など教えなければよかったのに)

 だが、募る言葉は口にできる類のものではなく。
 ナシェルは乱れる想いの代わりに父を繰り返し呼ぶ。己の身勝手さをせめて束の間打ち消そうと。
「父上……父、上」

 混濁する意識。しなやかな躯は甘やかな突き上げを受けて屈折し、さらなる快感を求めて熱く火照る。
 濃藍の瞳が愛欲に溺れて澱む。王は、ナシェルが繰り返し自分を呼ばわり、もっともっとと甘くねだるのを、機嫌良く耳に入れ唇を吊りあげる。

「愛しているよ…………永遠に、愛しい吾が子」

 何度囁いても足りぬとばかり、繰り返し吹き込む。ナシェルもまた喘ぐように父を呼び続けている。
 艶のある黒髪を乱し、何度となく互いに吐精しあい、ナシェルはいつしか王の腕の中で心地よい喪神に身を委ねていった。



◇◇◇



 階下から、城内の日常の生活音が聞こえてくる。
 城の者たちが活動を始める時間になったようだ。

 幾度となく達したあとの、気怠い微睡みに身を委ねていたナシェルは、王がいつの間にか寝台を抜け出しているのに気付いた。
 王は何事か考え込む様子で先程の露台の長椅子に腰を下ろし、暗黒界の陰鬱な風景を見渡しているのだった。
 情事のあとの気だるさを幾許か引きずったまま、ナシェルは寝具の中から王に呼びかけてみた。
「……父上? 何を考えておいでです」

 冥王は長椅子の背もたれに肘を引っ掛けたまま、振り向きもせず答える。
「何って、王女の花畑のことだ。姫が欲しいと申しておるなら、作ってやらねばならん。どこにしようかな……」
「本気ですか?」
 寝台の上で寛ぎながらナシェルは失笑した。「花畑」ほど冥王に不釣合いな単語もないだろう。
「あの辺りはどうだ」
 冥王が露台から見える範囲を指差したので、笑い事ではないと気づいて慌てて身を起こす。
「暗黒界の中に作るのは絶対やめてください。誰が花の世話など……!」
 冥王は冗談だと云って含み笑った。


 そのとき扉を叩く音がして小姓のイスマイルが入ってきた。
 着替えと食事を持ってきたようである。
 ナシェルは焦ったが、小姓は天蓋の中の影には気づかず、露台に居る後ろ姿をを王子と勘違いしたようだ。瓜二つなのだから無理も無い。
「あの、殿下、昨晩は危ないところをお助けいただきありがとうございました」
「ん? 何であったかな……」
 適当に相槌でもうっておけばいいものを、冥王は問い返す。

「昨晩のことでございます。あのお客様がヴァルトリス公爵様だと後から他の者に聞かされました。殿下が来てくださらなかったら、どうなっていたか……」
「公爵? ああ、あれの性癖は余も存じておる。そうか、そなたも危なかったのか」
 おかしな返答にイスマイルは首を傾げ、次いで普段の王子とは違うその紅玉の瞳に気づいた。
 しかし少年はそれらを別の意味に捉えたようである。
「殿下ってば、またお酒を召されていらっしゃいますね? 目が真っ赤です。ほどほどになさいませんと、アシュレイド様にまた怒られちゃいますよ」

 少年は円卓の上に軽食の乗ったトレイを置きながら、澄ました顔でたしなめる。酒をいくら飲みすぎても虹彩の部分は赤くはならないということを失念しているようだ。王がお忍びで行幸してきたとは思いもよらないのだから、仕方がない。
 少年の大人びた忠告に、冥王はとうとう声を上げて笑った。
「ははは、そうだな……忠告に従い、気をつけるとしよう」
 そして寝台の中ではらはらするナシェルをよそに、彼のために運ばれてきたトレイの上から乾酪チーズをフォークに刺して、優雅に口に放り込んだのだった。




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