泉界のアリア

佐宗

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第二部 虚構の楽園

6 冥王宮へ②

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  王子ことナシェルが、勘違いではなく実際に避けていた冥王の許を訪れたのは、ひとえに異母弟エベールの禍々しい科白せりふを聞いたからであった。

  王女の秘密を知っているのだと、言外に告げてきたあの凄艶な眼差し。

  彼は冥王によって虚無界の領主に封じられようとしていた。第二王子でありナシェルに対する嫉妬に溢れた彼がその程度の領土で満足するはずがない。

 打てる策は限られている。冥王に直訴してもう少しましな、いやエベールに相応しい領土を与えさせることでこちらも貸しをつくり懐柔する……。

  おそらくエベールを力で黙らせておくことはできないだろう。もしくはそう仕向けることが彼の策かもしれないと思う。だがこの時点でまだナシェルはエベールの己への憎しみを測り違えていたのだ。




 ……長い口づけに耽溺していたかのように見えた王子であるが、やがて自制心が僅かに快楽を上回ったのであろう、冥王は不意に振りほどかれ目を瞬かせた。

  後ずさった王子は、上気した頬とは裏腹の、氷のような視線で冥王を射抜いていた。

「ばっ…場所も弁えずによくこんなことができますね! 父上」
 「おお、やっと余を父上と呼んでくれたな」
 「誰か通ったらどうするんです」
 「もうすぐ夕餉の時間だぞ。馬を走らせたので腹が減った。そういえば今宵は公爵どもと会食することになっておる。ちょうどよい、そなたも同席せよ」

  まったく噛み合わぬ会話に、ナシェルは苛々しながら袖で唇を拭った。

「…腹など減っておりませぬ。話があると今、申し上げたでしょう」
 「話は夕餉の後だ。同席せぬなら聞いてやらぬぞ」
「……」

  沈黙を恭順の意と捉えた冥王は、ナシェルが晩餐にそぐわぬ簡素な黒の騎装を纏っているのを見咎めた。

 「冥界の後継者ともあろう者がそんななりでは示しがつかぬ。今どき下級貴族共でももう少し着飾っておるぞ。どうしてそなたはそう身なりに無頓着なのだ。着替えを用意してやるからついて参れ」
 「着替え? 嫌です面倒だし。大体ふだん殺風景な暗黒界にいるのに誰を相手にしじゅう着飾っていろと?」

「ナシェル…。子供のような我儘を云うな。
 喰いたくなくとも時には重鎮どもと飲食を共にせねばならぬし、威信を示すためにそれなりに身形を整えなければならん。それが、そなたもいつか為る日がくるであろう……為政者というものだ」
 「そんな、」

  そんな日は来ませぬ。

  ナシェルはその言葉を飲み込んだ。馬鹿馬鹿しい。ずっとお側にいてくださいと云うようなものだ。そんな台詞とても吐けない。


 だが冥王は何と云ったか?
 いつか己が冥界の支配者に為る日がくるであろうと?
 では貴方は何処へ行くというのだ。
 この私を狂わせ、支配しておきながら……一体どこへ逃げるというのだ?
 腕をぐいと引かれ、思考は中断された。




 四間続きの広大な居室に着くと、早速セダルは侍官を呼んで王子を着飾らせるよう命じた。

 髪を結われようが化粧でもされようが、もうどうにでもなれ、とナシェルは諦めの境地で侍官たちが手際よく己の服を脱がしにかかるのを眺めた。

  父が用意させたのは、黒地に銀糸でうっすらと大まかな蔓草模様の施された、豪奢な長衣だった。下に穿く幅広の袴も同じ黒の合布で作られている。
  長衣は前開きで、胸元で交差させて着る仕様のものだ。襟も釦もなく、腰紐で束ねるようになっている。
  裾と袖口の刺繍は白で、幻獣界の水鳥を模してある。
  腰から下の両脇には切れ込みがあって下の袴の黒が強調される意匠であった。

  裾はかなり長かったが、着てみるとかすかに床に触れる程度の丁度良い身丈であることから、己のために作らせたものであることが窺える。

  普段の己の格好とはくらべもつかぬ仰々しさにナシェルは閉口した。
  何より気にかかるのは合わせた衽の合間がかなり開いていて、鳩尾みぞおちまで見え隠れすることだ。

  冥王は侍官の一人に真新しい宝石の箱を持ってこさせ、役目を終えた彼らを退がらせた。

  鏡の前でぶつぶつ不平を鳴らしていたナシェルは、不意に父が背後に立って鏡越しに己を覗き込んできたために、躯を強張らせた。

  鏡を挟んで、同じ顔が四つ。
  紅玉の双眸と目が合うと、一瞬にしてその眼差しは彼を囚う。
  獲物に狙いを定めた獅子の眼光のように。
  王は意味深な冷徹な微笑を投げかけた。

  ナシェルの戦慄をよそに、宝石箱の蓋が開けられ、王の手には銀の額環サークレットが握られている。

  セダルは白い手を廻してそれを、王子の額に嵌めた。
 冷たい指が顳をなぞるのと同時に、ひんやりした金属の感触に包まれる。思わず目を閉じ……、そして再び開けると、彼の群青色の双眸の上に、さらにひとつ輝く同色の宝石があった。

 瞳とほぼ同大の蒼玉は、サファイアだろうか……蔦の如く絡みつく銀のふちどりに嵌めこまれて、凍るような光を放っている。

 また私を縛るつもりなのだ……こんな冷たい銀細工の枷で……。
 銀の額環は後頭部で鎖状の留め金で固定された。細長い銀の鎖を背中に垂らし、留め金を王子の流れる黒髪の中に隠すようにしながら、冥王は鏡越しにナシェルの全身を確認し、その完成度に目を細めた。

 目の前に立つ半身を賛美するのに、もはや言葉は不要なほどであった。


 恍焉とした王の視線を避けるようにナシェルは、手を顔にやり、額飾りを不快そうに摘んだ。

「これ、おかしな呪がかかってたりしないでしょうね……」
「呪とはどんな?」
「二度と外れないとか、居場所がお見通しとか……貴方の意に背くと頭痛がするとか」
「そういうふうにして欲しいのか……そなたつくづく被虐嗜好だな」
「違います」
「これは残念ながらただの飾りだよ。さあ、そろそろ時間だ、先に夕餉の間に行っておれ。余は湯浴みをしてから参る」
 「……今から風呂? 私の着替えをしげしげ観察している暇があったなら、その間に入って来ればよかったのに」

 王子の突っ込みをかわすようにセダルは優雅な足取りで湯殿の方に消えた。

 まったく何を考えているのかさっぱり判らない。

 ナシェルはもう一度己の煌びやかな姿を鏡に映し、嘆息した。

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