泉界のアリア

佐宗

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第二部 虚構の楽園

15三途の河③

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 天幕の裏に馬を繋ぎに行っていたイスマイル少年が、追いついてきてアシュレイドに敬礼し、後ろについた。
 ナシェルが河向こうを眺めながら近衛士に呼びかける。

「イスマイル、そなたはこんな冥界の果てまで来るのは初めてだろう」
「はい、殿下。この河の向こう岸が地上界……」
「行ってみたいか?」
との王子の問いに、イスマイルはちらりとアシュレイドに視線を送ってきながらも
「……はい。一度でいいので見てみとうございます」
と正直に答えた。

「つまらぬ所だぞ。憂さ晴らししようにも倒すべき魔物はおらぬしな……」
「殿下はご覧になったことがおありなのですか」
「ああ、出かけたことがある。まだ冥王宮に住んでいたころにな。ちょうどお前くらいの年の頃だったか……。ヴァニオンに唆されて、二人で家出したのだ」
「殿下ッ」
 家出の話など、とアシュレイドは止めようとしたが、ナシェルは声もなく笑ってそれを制し話を続ける。

「我ながら考えもなしに無鉄砲だった…。そのうちに人間共のせせこましさに嫌気がさしてきてな。冥界の方がましだと気づいて帰りたくなった。何週間も地上界テベルに居ると力も弱まって、意思も薄弱になってくるらしい。
 だが私を連れ出してくれたヴァニオンに云い出し辛くてな。最終的には見つかって連れ戻されたが、内心では帰れてほっとしたものだ。
 地上界の旅も、ときには気晴らしにいいが、やはり帰るべき所あっての家出だからな……」

 アシュレイドとイスマイルは大河の雄大な流れをその目に焼き付けながら聞いていた。

「私はここ暗黒界を我が住処と決めている。将来また家出したくなったときに、帰ってこられる所を失わぬよう、こうして己の家を守っているというわけさ。兵たちには苦労かけるが……」
「この河の先までが、殿下の家……なのですね」
「そう、お前たちも含めて」
 アシュレイドは思わず背を伸ばし、イスマイルは頬を染めた。

 「勿体無いお言葉でございます」
 「そうだ、勿体無いついでにアシュレイドに渡しておこう」
 ナシェルに促されてイスマイルが懐から何か包み紙を取り出し、アシュレイドに手渡してきた。
「? 何です?」

 金一封などより休息とか休暇とかの方がよほど嬉しいのだがな、と思いつつ封筒に入ったそれを開けてみて、アシュレイドは驚いた。
 息子アシュタルが描いた父親の似顔絵であった。『おとおさまへ げんきですか』と辿々しい字で書いてある。
 胸が熱くなった。
 暫く息子とは顔を合わせていない。司令官職として暗黒界を預かる身であるのに加え、妻は王女の乳母として疑似天アルカシェルに住んでいる。若い父親は単身赴任の境遇であった。さらに今回の洪水である。激務に追われ、家族と次に会えるのはいつになるか分からない状況だったのだ。

「姫のはおまけだ」
 云われて二枚目を見ると王女ルーシェルミアが描いた激しいタッチの己の似顔絵であった。『あしゅれいへ けっこんしてね らぶ』と書いてある。けっこん? 冗談だろう。らぶ……?

「姫様まで……なんと勿体ない……! 有難うございます。まさか殿下、これをわざわざ届けてくださるおつもりで」
「そんな訳あるか。視察だ視察。私はそんなに暇じゃない」

 ぷいと顔を背け下流の方に歩き出した王子を追って、イスマイルも微笑を投げながら遠ざかる。

 兵たちに気安く声をかけ、皆に驚かれているその流麗な後姿が、湧き上がる熱いもので霞んだ。

(殿下……いつまでも若様気分が抜けないと思っておりましたが、いつのまにか部下の心をがっしり掴まれるようにおなりになって……)

 子供達の温かい絵を抱きしめながら、アシュレイドは一礼して愛すべき主君を見送った。


 彼らの守るべき住処すみかが、将来、この対岸より思わぬ形でおびやかされることになろうとは、この時点で誰も予測してはいなかった。この地の支配神であるナシェルですら、己のしでかした過ちの代償を、そのように大きな形で支払うことになろうとはよもや予期していなかった。

 それほどにステュクス河はいま、平素の落ち着きを取り戻して悠然と彼らの前に横たわっており、清々たる流れを湛えていたのである。


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