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第二部 虚構の楽園
14三途の河②
瞬きをも忘れているアシュレイドの前で、馬上の神はひらりと身を躍らせて優雅に降り立った。……ぬかるみの上に。
ぬちょ、と音がした。
「で、で、殿下!」
アシュレイドは己も足を取られそうになりながら思わず駆け寄る。
足元をよく確認していなかったナシェルは己の丈長の革靴が踝まで汚泥に嵌ったことに不快を示し、眉を吊り上げたが、それについては何も云わなかった。
代わりに、慌てて兵士に拝跪を命じようとする武官たちを制して
「皆ご苦労、私に構わず作業を続けてくれ」
と呼びかけた。
声をかけられた者たちは身分の上下に関わりなく陶然となってその美声に聴き惚れた。
近衛士に昇格したイスマイル少年(いや、もうそろそろ少年の域を脱しかけているのだが、まだアシュレイドの目には小姓であったころの彼の印象が大きいのである)が駆け寄り、恭しく手を差し伸べてナシェルをぬかるみから救出した。
手綱をイスマイルに預けて、肩口に流れ落ちる黒髪を掻きやりながら主君は散歩でもするかのように歩き出す。アシュレイドは慌てて半歩後ろにつき従った。
「殿下、このような場所においでになっては危険でございます。河の氾濫は静まったとは申せ、復旧工事の只中でございますぞ。そうでなくともここは最外郭の一号砦よりもさらに外側の、文字通りの最前線であります。
いくら視察と申せど貴方様が直々にお運びになれる範囲を超えております」
「煩いなぁ、この地を治めているのは私だ。領地内で自由に行動して何が悪い」
「開き直られますな! 砦の外であり危険だと申し上げているのです。万一殿下の御身に何か……」
「だから一応、供を連れてきたであろうが」
ナシェルは振り返りざま顎をしゃくってイスマイル少年を示した。
かの少年は魔獣界の領主ヴァレフォール公爵の末孫で、以前はナシェルの身の回りの世話をする近習であったが、近ごろ念願叶って兄のいる黒翼騎士団所属の近衛武官となったのである。推挙したのはアシュレイド自身だったが……。
「新米騎士をひとりだけ連れてきても、説得力はございませぬ」
背が伸びて、可愛らしい少年から涼しい物腰の青年に変貌をとげつつある彼に、アシュレイドはしかし怒りの視線を向ける。なぜ殿下をお止めしなかったのか?
「イスマイルを責めるなよ、あれを遠乗りと云って誘ったのは私だ」
「こういうときこそ乳兄弟どのをお連れになればよいのです! 護衛にはうってつけでしょう。あの御仁はどうされたのですか」
「さあな、まだ疑似天でサリエルと睦言でも交わしているのであろうよ。一応遠乗りに誘ったが奴め、断りおった」
「まこと役に立たない護衛でありますな! なぜお側に置いておられるのか理解に苦しみます」
「ヴァニオンに私の側付きを任じた覚えはない。あれが勝手に私の周りをウロウロしているだけだ。小言を云われる筋合いはないぞ」
アシュレイドは吐き出しかけた溜息と悪態を、主君に聞かれないよう口中に押し込めた。
暗黒界の領主はやがて立ち止まり、その群青色の双眸は、遥かなるステュクス河の水面に向けられた。
「水がようやく引いたところ、といった感じだな…。今回の氾濫は前回よりやはり規模が大きかった。堅牢に造ったつもりであったが、櫓がまさか押し流されるとはな」
「前回の氾濫はおよそ四百年前でありますな。だいたい二,三百年周期で小さな氾濫を繰り返してきたこの河にとって、今回は我慢の限界を大きく超えたのでしょう。いつ来るかいつ来るかと思ってはおりましたが、肝心のところで目測を誤ったようです。まさかこのような規模の被害になるとは…。申し訳ございませぬ」
「そなたが謝ることではない。三途の河の怒りなど誰にも予知できぬ」
主君は清冽な眼差しを大河の流れに注いだまま。
その神なる瞳は対岸の地上界をも捉えているのだろうか…。
「済まなかった…」
ナシェルの瞼がつかの間、瞬きよりも長く閉じられ、失った兵に対する悼みと弔いの言葉が呟かれる。
アシュレイドが主君の横顔に見惚れていると、やおら、その月長石のように白い優美な手が虚空に向けて伸ばされた。
音もなく寄ってきたのは周辺にいた精霊たち……死の精と、闇の精。
数千匹の精霊が、ふわふわと宙を舞いながら次々に主の手の甲に接吻しては離れていく。
アシュレイドはその光景のあまりの神々しさに、直視することすら躊躇った。
顔が紅潮するのを感じる。
数多の精霊を臣下に侍らせるナシェルにとってその儀式は当たり前の日常であったが、そのような力を持たぬ魔族にとってはあまりに輝かしく幻想的な光景だった。
アシュレイドはふと違和感に気づいた。
目を閉じ、傲然と精霊たちの接吻を手に受ける主の雰囲気が、あまりにも冥王のそれと似ている……。
いや、無論、顔はもとより瓜二つなのだが、浮かべる表情や仕草などは大きく異なっている父子だ。
アシュレイドがナシェルの貌を見て、たとえ双眸を隠していたとしても冥王と見間違うことはないはずだった。
それなのに今、一瞬、ここに居るのは本当に王子かどうか迷ったのだ。
(殿下…だよな? 間違いなく)
なぜだろう、同じ姿でも、殿下と陛下をふだん見間違うわけがないのに。
それはごく稀に、今までも感じたことのある違和感だった。
アシュレイドはナシェルの周りに侍る精霊の数をざっと目視した。
普段エレボス城に居るときより遥かに多い。倍数はいる。
(こんな冥界の果てで、これだけ多くの精霊を? とりたてて、呼び集めておられるようにも見えないが…。
力が増しておられるのか…。しかし一体どのようにして……)
そしてアシュレイドは違和感の正体らしきものを発見した。
死の精と、本来ならば冥王の支配下にある闇の精の割合が、ほぼ同数なのだ。
普段ならば8対2ぐらいの割合なのだが。
アシュレイドは思わず声をかけた。
「殿下、この辺りは死の精より闇の精が多うございますか。侍る数が妙な割合になっておりますぞ」
「そうか? 気のせいだろう」
精霊たちを追い払うようにして、ナシェルはとぼけたふりをする。
冥王に抱かれてたっぷり闇の神司を注がれたあとは闇の精に対する支配力が一時的に増し、大抵こうなるのだが、それはアシュレイドの与り知らぬことである。
アシュレイドは疑り深く目を細めてナシェルを見つめていたが、やがてナシェルが再び歩き出したのでそれに続いた。
「工事のほうは? 見たところ復旧だけで相当時間をとられたようだな。やっと着工できるというところか」
「はい、上流の土嚢撤去作業は完了し、あとこの近辺だけです。しかし橋げたの杭を一から打ち直さねばなりません、難工事になるかと」
「時間はかかっても構わぬから事故のないようにせよ。疲れるとおかしな間違いやらつまらぬ事故が起きるものだ。休息をよく取らせて兵たちが疲労困憊せぬように」
「承知いたしました」
「そなたも大分疲れているようだな。指揮官だけは代わりがおらぬゆえ苦労かける。代ってやりたいが」
「そのお言葉だけで充分でございます」
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