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第二部 虚構の楽園
40異変③
しおりを挟む「殿下、殿下!」
そのとき遠くから呼ばれ、目を眇めて見遣ると、森の方向から走り出てきたアシュタル少年が、花園を転がるように走ってくるのが見えた。
「アシュタル!?」
王女の乳兄は花園の中央で立ち止まり、荒い呼吸に肩を上下させながら叫んだ。
「大変です、ルゥが……ルゥとサリエル様が消えちゃったんだ! 壁の向こうに!」
「壁の、向こう……?」
二人はアシュタルに駆け寄った。森の奥から長い距離を走ってきたらしい少年はまだ息を乱しながら切れ切れに、
「崖の下に大きな穴が開いてるんです。多分、そこから……」
「穴? 何のことだ。何故そこだと分かった?」
「ルゥがときどき内緒でそこを何度も探検しているのを僕、知ってたんです。それでまさかと思って行ってみたら、これが落ちていたんです、ルゥがいつもポケットに持ち歩いてる……」
アシュタル少年が掌を広げてナシェルに見せたものは、丸く平たい形をした金属製の加工品であった。
「これは……何故こんなものを、ルゥが」
絶句するナシェルの横合いからヴァニオンが覗き込む。それが何を意味するものか瞬時に悟った彼は、愕然とした面持ちでナシェルを見つめた。
地上界の品物だ。地上界を旅したことのある二人には、それが何なのかが分かる。
位置や方角を調べるために旅人が用いるもの。名前は何と云ったか……。
アシュタルから手渡され裏返すと、ルゥの配下の命の精が一匹、裏にへばりついていた。気を失っている。
精霊がこういう状態であるときは、おそらく主神である女神も大概、気を失っているとみるべきだろう。
「サリエルも? あいつも一緒だってのか」
ヴァニオンに急に肩を掴まれ、少年は頷く。
「殿下、とにかく早く来てください。エベール様も怪我をされてるんです、止めようとなさって、刺されたと」
「エベールだと!?」
急に出てきた思わぬ名前に、思わず息が止まる。
「刺された……? サリエルに……? まさか、あいつはそんなこと絶対にしない」
掠れ声のヴァニオンの肩を、ナシェルは強く掴んだ。現実に引き戻すように。
「ヴァニオン、部屋に戻って私の剣を取って来い」
「……!」
「で、殿下……」
アシュタルの泣きそうな声を無視して、ヴァニオンの肩を握る。
「王女が連れ去られたんだ。一刻一秒を争う。何度も云わせるな。それから人を寄越すんだ」
剣でどうする気だなどと余計なことは、ヴァニオンは訊かなかった。ただ張りつめた眼差しを一瞬、ナシェルに向けた。
踵を返して城の方に走り去る彼にはもう目もくれず、ナシェルは少年に向き直った。
「アシュタル、案内してくれ」
無論ナシェルとて、そんな物騒なものをサリエルに向けたくはない。本来それは冥界の奥地に棲まう荒ぶる魔獣たちに対して用いるものだ。同族に向けるものではない。使わずに済めばそれでよい。
だが……しかし。
(万が一、私の娘になにかあれば、たとえサリエルといえども……)
そのことだけは揺るがない。何が起こっているのか知らぬが……ルーシェだけは、取り戻さなくては。
アシュタル少年に先導され、森の奥へと急ぐ。
世界の果ての壁が見えるほど奥地まで来るのは、ナシェルも初めてだ。
茂みを突っ切り、木の根を避けて走りながら、なぜここまで現実的に造られているのかと森の深さを呪った。
「そこです、殿下!」
背後から、アシュタルの声が飛んだ。ナシェルは踏鞴を踏むように立ち止まった。その先は地面がなくなっている。崖だった。
「こんな所に崖が……」
その下に黒い人影がわずかに見えた。崖のふちが鋭角に切り立っているため全身は映らない。
「エベールか!?」
上から声をかけると、かすかに人影が身じろぎした。
「あ……兄上……?」
「待て、動くな。私がそっちへ行く。アシュタル、まだ走れるか? もう一度途中まで戻ってヴァニオンを」
「は……はい」
「いい子だ、頼むぞ」
息を上げながらも気丈さを失わずに頷く少年の髪に、ナシェルは軽く触れてやった。少年は弾かれるように、もと来た道を走り去った。
崖下まで降りると異母弟が岩に身を預けるようにして倒れこんでいる。最初に目を奪われたのは、その肩の出血だった。
傍らに、短剣が落ちている。
「エベール!」
ナシェルは異母弟の傍らに膝をつく。
――あの酒に何か仕込んだのか?
問い詰めたいのは山々だったが、今はそれどころではない。
異母弟を支え起こし、ざっと傷の具合を確める。血の量に比べて傷は深くはないようだ。
「一体、何があった? あの二人はどこだ?!」
「あそこです……、あの壁に開いた穴から……」
エベールの左指が幽かに持ち上がる。
彼の指し示すままに視線を上げたナシェルの眼に飛び込んできたものは、あり得べからざる異常な光景であった。
この小世界の行き止まりを示す土の壁。その壁に斜めに入った亀裂が、視線の先で人が通れるほどの大きな横穴となっている。
この時点でようやくはっきりと、ナシェルは感じとった。
この穴から幽かに吹き込んでくる、異世界の風を。
この冥界の秩序を乱す、地上界の気を。
言葉を失うナシェルに、異母弟は告げた。
「兄上、サリエルはルゥを連れて行ったんです……僕は引き留めようとしましたが駄目でした。揉み合いになり、刺されてしまって……」
ナシェルは遠いところに居るような感覚でそれらを聞いていた。愚かな己への憎悪心で叫び出したいほどだった。
なぜ今までこの地上界の匂いに満ちた風に…この『風穴』の存在に気づかずにいたのか!
いうまでもなくそれは魔族との度重なる交わりの所為であった。
成り行き任せに魔の白濁を身の内に吐かせたことでナシェルの神司は昨今ひどく衰えていた。
こうした風の匂いを受け止める感知力は、全く発揮されずにいたのだ。
さらに悪いことに、ここは女神ルーシェルミアの造った結界の中だ。
ナシェルはここへ来るときは王女とサリエルに配慮し、配下の精霊をすべて切り離している。
この疑似天にいる限り彼らを使役することはできぬ。
死の精か、闇の精霊を飛ばして洞穴の中をうかがうことさえできないのだ。
茫然と立ち上がり、『界の裂け目』に近づく異母兄に向けて、エベールが苦しげな声を投げてくる。
「兄上にもお分かりになりますか?
この裂け目は、たぶん……地上界に通じているんです。サリエルがどうしてこんな場所を発見したのか分かりませんが、彼はここを抜けて恐らく地上界に出ていったんだ。ルーシェを連れて……!」
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