泉界のアリア

佐宗

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第二部 虚構の楽園

39異変②

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「殿下、おいでになりますか!? 殿下!」


 廊下から聞こえてきたのは王女の乳母殿の声であった。穏やかな彼女にしては珍しく声が緊迫している。

「……イリスか、どうした?」
 ほとんど裸だったヴァニオンが、慌てて服を取りに奥の湯殿に駆け込むのを横目で見ながら応じる。
「失礼いたします。ああ、殿下がいらしてよかった……姫さまが……!」
 扉が開き、イリスが口走りながら駆け込んできた。


「姫さまが見当たりませんの!」


「……見当たらない? ルゥが? また森にでも行っているんじゃないのか」

 イリスの声に只事ならぬ気配を感じ取りつつ、ナシェルは至極平静を装った。ルゥは決められた時間以外にも城を抜けて遊びにいくことはままあり、姿が見えずとも別段不思議なことではない。

 だが城に仕える者たちの便宜上、この疑似天も他の小世界と同じように刻を設けてある。ナシェルも暗黒界ではその刻に従って政務をする。今は6つ刻……つまり地上界でいうところの一日の始まりの時刻、朝というべき刻だった。

「お食事も召し上がらずに出かけられるなんて、姫さまに限ってあり得ませんわ。それに申し上げにくいですけど、寝起きのお悪い姫さまが、自らお目覚めになるなんて……こんなこと、今までなかったことですわ」
「確かにそれはおかしいな。いつからいない?」
「11刻すぎに寝かしつけたのが、確認した最後ですわ」

 ナシェルは嘆息した。6刻以上もの開きがある。それではいつから居ないのか判然としない。だが無理もない、ここ疑似天は平和でのんびりした王女の箱庭。侍従の数も少なく、たびたび城内を巡回せよというのも酷な話だ。

「どこへ行ったのか予想もつかないか? アシュタルはいるのか?」
「ええ、息子は私と同じ部屋に寝ておりましたわ。今、普段遊びに行く場所へ探しにやらせておりますけど、」

 そこへ侍女のひとりが現れ、声高に告げた。

「サリエル様もいらっしゃいません!」
「サリエルも……居ないだって?」

 背後で声が上がる。乳兄弟は服を着ながら現れ、ナシェルと視線を交わした。

 二人が同時に居なくなったとすれば、別々に行動しているとは考えにくい。
 だが王女にサリエルがついているとすれば、大丈夫なのではないか、とナシェルは一瞬考えかけた。

 重大な可能性に思いを致すほどの緊迫感が未だ持てずにいたのは、怠惰な性分のせいなどではない。
 想像をはるかに超えていたからだ。

 現実から目を背け『これはそんな大事ではない』と思い込もうとする心理が、まさにこのときナシェルの心に起こっていた。



 救いを求めるような眼差しを向ける女たちに対し、ナシェルは命じた。

「探しに行ったアシュタルが戻るのを待て。あの子のほうが我々よりよほど王女の行き先を知っているだろう。二人が城内にいないことは確かなのだな? ならば万が一に備えて城の人手を全て集めておいてくれ。やみくもに探し回れるほど、ここ疑似天とて狭くはない」
「おい、万が一って何だよ……」

 横合いからヴァニオンが口を挟む。

「勘繰るな。私が言及しているのは例えば森で何かしらの事故に遭って帰れずにいるという可能性だ。それ以外の他意は、」

 ない、と云いかけてナシェルは言葉を呑み込んだ。

 目の前に立つ乳兄弟を凝視する。乳兄弟もまた、ナシェルを真っ向から見据えていた。その視線は言外に『滅多なことを云うな』と凄んでいる。

 あり得ない。それはあり得ないだろう。
 サリエルがここを……疑似天を出て行くなどということは!

 出て行ってどうするのだ。どこへ行く? 暗黒界エレボスを抜けて三途の河ステュクス河を越え、地上界テベルを目指すのか? 馬鹿げている。あの者に、そんな体力が残っているはずがない。

 ……だいたい黒天馬がなければ三途の河を越えることなど……

 次の瞬間、ナシェルは弾かれたように部屋を駆け出していた。ヴァニオンがすぐ後ろを追ってくる。

「殿下! ヴェルキウス様!?」
「どうなさいましたの!」

 部屋にとり残された乳母殿と侍女が叫び声を上げる。

「そなたらはそこに居ろ!」

 ナシェルとヴァニオンは階段を駆け下り、外へ出、城の裏手に回って厩舎を確認した。

 幻嶺セルシオン炎醒アイシス……、彼らの愛馬たちは繋がれたままのんびりと干草を喰んでおり、主君の姿を認めてもぞんざいに耳を動かしただけである。

 やはり杞憂だったかと、二人は息をついた。黒天馬がなければ冥界を去ることはおろか、この疑似天アルカシェルを出ることすら不可能だ。

 馬が盗まれていない以上、サリエルはここ疑似天を出て行ったわけではないだろう。
 やはり王女に連れられて、森の奥に珍しい花でも摘みに行っているだけではないのか?

 ナシェルは願望にも似た想像を働かせてみる。

 王女ヽヽが、サリエルを連れて行ったのだろう、おそらく。
 サリエルが、王女を連れて行ったのではないはずだ。

 前者と後者では、後に続く言葉も事の重大性もことごとく変わってくる。


「ヴァニオン、そもそもサリエルの様子がおかしかったのはなぜだ?」

 馬が無事だったとはいえ、棒立ちのまま話して居られるほど事態は好転していない。足早に、二人は花園の庭を臨む城の表側に回った。
 ヴァニオンの表情には苦悩と後悔の色が浮かんでいる。

「サリエルを抱いてないって、前話しただろ……。そのことだよ」
「もっと具体的に話せ、私に今さら隠すほどのことでもあるまい」

「ちょっとしたすれ違いがあってな……。あいつはもう一度抱かれたなら、死んでもいいと云ったんだ。だが俺は、もう二度とあいつを抱いちゃいけないと思ってた。で、仕方ないからあいつだけ処理してやったんだ。そのあとで……突っぱねちまった」
「突っぱねた? 抱いてやらなかったのか」
「……、そんなこと、出来るわけねえだろ」

 抱いてやればよかったのに。
 己だけ処理されるなど、私だったら屈辱を感じるだけだ……。
 だがその言葉はヴァニオンの表情を見れば、胸裏に仕舞い込むしかない。

 おそらく一度抱いてしまえばたがが外れる。ずるずると関係を続ければサリエルの病が再発し、余計悪化する、そう案じているのだろう。

 何故こうも上手くいかないのか、こいつらは……。

 ナシェルはため息をつく。
 まぁヴァニオンにしてみれば、己と王の関係もお互い様なのだろうが……。



 サリエルの物悲しい面影が、瞬間、脳裏を過ぎる。
 背筋を嫌な汗が次々と伝い落ちてゆく。

 様々なことが、こうも同時に起こっている。
 彼の姿が消えたことも、もう杞憂などではないと分かる。
 だがなぜ、ルゥと一緒に?

 事態が予想以上に逼迫していることを、ここへきてナシェルははっきりと認識した。

 ―――まさか、見られたのか?



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