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第三部 天 獄
26消滅の際に立ち①
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ふたりのほかには誰もいなくなった部屋で―。
レストルは胸の底から湧き上がってきた愛を、その腕に掻き抱く虜囚の、色を失った唇に注ぎ続ける。
これほどに直情的に情熱的に唇を奪えるのも、相手の意識が遠のいているこの瞬間だからこそ。
もし正気であるなら、この虜囚は己の振る舞いに対して何と云うだろう?
返ってくるのは激しい拒絶と抵抗――それ以外にはあり得ない。
決して叶わぬ想いと判っていながら、彼はただただ、愛すべからざる者の唇を貪り続ける。
腕の中でナシェルは、レストルの熱い想いに浸されて、氷のように儚く溶けていこうとしている。
――早くやめなければ。この虜囚が、正気に立ち戻るかもしれない。弟が戻ってくるかもしれない。
そうした内心の警告と同じ比重に膨れ上がりつつあるもの……、それは、この口づけによって今ナシェルの溺れる意識を引き上げ、ふたたび苛烈な眼差しで己を射抜かせてみたいという奇妙な願望だった。
(さあ、目を開けろ。正気に立ち戻り、お前の唇をうばっている俺を、あの挑戦的な視線で貫いてみろ)
意識朦朧となり震えている今のナシェルの姿は、それはそれでレストルに強烈な庇護慾を湧き立たせるが、やはり彼を心底から撼わせたのは、初めて対峙したときにこの麗神が見せたあの、激しいまでの気高さなのだ。
あのときの剛い眼差しを湛えた彼をこそ征服したいというのが、レストルの心に芽生えた欲望だった。
――どれほどの間そうして、一方的な想いを吐きだしつづけていたのか。
不意に虜囚の躯がびくりと上下に跳ねた。
刻の過ぎゆくのも忘れ、仰向いた唇から徐々に首筋へと舌を這わせはじめていたレストルは、突如こわばりをとり戻したナシェルの手ではっきりと、押し返された。
鋭く息を吸ったナシェルは、次の瞬間背筋に力を込めてぐっと首を擡げた。
至近にあったレストルの肩をグイと掴んで引き剥がすと、光彩のもどった群青の双眸で彼を睨めつけてきたのである。
「………ッ!!」
「………気がついたか?」
レストルは咄嗟に、この情熱的な接吻に対する言い訳を考えかけてやめた。この者をどう扱おうが俺の勝手だ……。どんな口づけをしようが……何をしようが。
そしてなぜか安堵した。虜囚が浮かべていたのは己の説明不可能な『甘やかな行動』に対する疑問の表情ではなく、ただ迷いのない昂然とした『拒絶』のそれであったのだ。
拒絶以外、他の感情など一切見当たらなかった。
一つ二つ、ゆっくりと息を吐き本来の落ち着いた呼吸に戻ったナシェルは、まだ顔色こそすぐれぬものの完全に意識を取り戻していた。
その双眸には一瞬前まで存在していたはずの虚ろさと弱さはかけらもなく、レストルを間近に見据えた眼光にはそれらに代わって、何者であろうと断じて屈さぬという強固な意思が、……あのときレストルが見た剛毅が、舞い戻っていた。
「貴様だったか、」
己を抱き起している者をようやく認め、苦々しげに吐き捨てるように呟いた虜囚はやはり明らかに今の口づけの弁解など求めてはおらず、レストルはそれで跳ねた心を落ち着かせることができた。
ナシェルは首を動かすことなく素早く視線だけを周囲に奔らせた。それでどうやら己がこの男によって凌辱から救われ、今の状況にあるのだと悟ったようである。
とはいえ、礼の言葉などが出てくるわけではない。それより寧ろ、早く手を放せと云わんばかりに躯全体でレストルへの嫌悪の色を発し始めた。
なかば圧倒されたレストルが背に廻した手を退けると、ナシェルは緩慢な仕草で床の上に座り直す。
体に打ち掛けられた上着を当然のごとく引きよせ、―――むろんレストルが掛けたものだと判っているであろうに、それに対する感謝の色もなく、だ―――露わな己の躯を隠すように僅かに斜向いた。
その仕草には、惨めな境遇への羞恥を能う限り覆い隠そうとする、極度に張りつめた自尊心が漂っていた。
蒼白い顔をふたたびレストルへ向け、虜囚は掠れた声を発した。紡ぎ出されたのは虜囚に対する監督責任を負う者だと認めた男に対する、痛烈な非難であった。
「貴様……、私に用があると云っていたな?
『異端の神』である私を手下どもに与え慰みものとすることで、私たち冥界神に、おのれら天の神族の優越を示そうというわけか? 勘違いも甚だしいな。……私が、あれしきのことで貴様らに屈服すると思うなよ……」
さきほどまで見せていた繊弱さとはまるで別神のような厳しい口調である。レストルは思わず詫びかけた。弟の手引きしたこととはいえ、ならず者等をこの部屋に入れたことをだ。
口を開きかけて我に返り、やめた。なぜ俺が詫びねばならん? こいつの態度の尊大さに、一瞬立場を錯覚させられそうになった……。
レストルは代わりに苦笑で応じてやる。
「どうやら正気に戻ったらしいな……。輪姦されたショックで気を失ったのかと、……意外に繊細なところもあると思ったのだがな」
「……、」
死神は不愉快げに眉を顰めただけだ。しかしその表情に浮かぶ色濃い疲労を、レストルは見て取った。虚勢を張ってはいるが、どうやら体力的にも限界のようだ。一体どれほどの時間、凌辱され続けていたのだろう?
死神はともすれば再び崩れ落ちそうになる上半身を、床についた手でかろうじて支えつつ、吐き出す言葉の中には頑なさを保ち続ける。
「私をここで、どのように遇するつもりなのか知らぬが……、貴様らに屈するぐらいなら、このままここで、あの胸糞悪い光を浴びながら滅することとて厭わぬ」
「滅するだと?」
突如出てきた極端な単語に、レストルは虚をつかれ問い返す。
とたん、激しい言葉とはまるで裏腹に、ナシェルの躯がぐらりと頼りなく傾いだ。前のめりに倒れかけるのを、手を差し伸べて慌てて抱きとめる。
「…ッ…、」
「おい、大丈夫か。消滅するなどと……穏やかではないな」
虜囚は、腕の中でふたたび激しく呼吸を乱しはじめる。苦しげな吐息の隙間から、意外そうに問うてきた。
「私を…見世物にしてから殺すつもりではないのか? このような場所に、捕えて……」
「なんだと?」
思わぬ死神の発言に、レストルはそこで初めて視線を上げ、西日射す天窓の存在に気づいてやっと死神の云わんとするところを悟った。
なるほど、そうか……。こいつは、あの闇の神の跡継ぎ……。元来暗闇こそを棲み処とするこの者に、天界の光はあまりにもきつすぎるのか。
冥界の闇と瘴気が、我ら神族にとって害であるのと同様に、天界の光もこいつらにとって毒となりうる……。
レストルは胸の底から湧き上がってきた愛を、その腕に掻き抱く虜囚の、色を失った唇に注ぎ続ける。
これほどに直情的に情熱的に唇を奪えるのも、相手の意識が遠のいているこの瞬間だからこそ。
もし正気であるなら、この虜囚は己の振る舞いに対して何と云うだろう?
返ってくるのは激しい拒絶と抵抗――それ以外にはあり得ない。
決して叶わぬ想いと判っていながら、彼はただただ、愛すべからざる者の唇を貪り続ける。
腕の中でナシェルは、レストルの熱い想いに浸されて、氷のように儚く溶けていこうとしている。
――早くやめなければ。この虜囚が、正気に立ち戻るかもしれない。弟が戻ってくるかもしれない。
そうした内心の警告と同じ比重に膨れ上がりつつあるもの……、それは、この口づけによって今ナシェルの溺れる意識を引き上げ、ふたたび苛烈な眼差しで己を射抜かせてみたいという奇妙な願望だった。
(さあ、目を開けろ。正気に立ち戻り、お前の唇をうばっている俺を、あの挑戦的な視線で貫いてみろ)
意識朦朧となり震えている今のナシェルの姿は、それはそれでレストルに強烈な庇護慾を湧き立たせるが、やはり彼を心底から撼わせたのは、初めて対峙したときにこの麗神が見せたあの、激しいまでの気高さなのだ。
あのときの剛い眼差しを湛えた彼をこそ征服したいというのが、レストルの心に芽生えた欲望だった。
――どれほどの間そうして、一方的な想いを吐きだしつづけていたのか。
不意に虜囚の躯がびくりと上下に跳ねた。
刻の過ぎゆくのも忘れ、仰向いた唇から徐々に首筋へと舌を這わせはじめていたレストルは、突如こわばりをとり戻したナシェルの手ではっきりと、押し返された。
鋭く息を吸ったナシェルは、次の瞬間背筋に力を込めてぐっと首を擡げた。
至近にあったレストルの肩をグイと掴んで引き剥がすと、光彩のもどった群青の双眸で彼を睨めつけてきたのである。
「………ッ!!」
「………気がついたか?」
レストルは咄嗟に、この情熱的な接吻に対する言い訳を考えかけてやめた。この者をどう扱おうが俺の勝手だ……。どんな口づけをしようが……何をしようが。
そしてなぜか安堵した。虜囚が浮かべていたのは己の説明不可能な『甘やかな行動』に対する疑問の表情ではなく、ただ迷いのない昂然とした『拒絶』のそれであったのだ。
拒絶以外、他の感情など一切見当たらなかった。
一つ二つ、ゆっくりと息を吐き本来の落ち着いた呼吸に戻ったナシェルは、まだ顔色こそすぐれぬものの完全に意識を取り戻していた。
その双眸には一瞬前まで存在していたはずの虚ろさと弱さはかけらもなく、レストルを間近に見据えた眼光にはそれらに代わって、何者であろうと断じて屈さぬという強固な意思が、……あのときレストルが見た剛毅が、舞い戻っていた。
「貴様だったか、」
己を抱き起している者をようやく認め、苦々しげに吐き捨てるように呟いた虜囚はやはり明らかに今の口づけの弁解など求めてはおらず、レストルはそれで跳ねた心を落ち着かせることができた。
ナシェルは首を動かすことなく素早く視線だけを周囲に奔らせた。それでどうやら己がこの男によって凌辱から救われ、今の状況にあるのだと悟ったようである。
とはいえ、礼の言葉などが出てくるわけではない。それより寧ろ、早く手を放せと云わんばかりに躯全体でレストルへの嫌悪の色を発し始めた。
なかば圧倒されたレストルが背に廻した手を退けると、ナシェルは緩慢な仕草で床の上に座り直す。
体に打ち掛けられた上着を当然のごとく引きよせ、―――むろんレストルが掛けたものだと判っているであろうに、それに対する感謝の色もなく、だ―――露わな己の躯を隠すように僅かに斜向いた。
その仕草には、惨めな境遇への羞恥を能う限り覆い隠そうとする、極度に張りつめた自尊心が漂っていた。
蒼白い顔をふたたびレストルへ向け、虜囚は掠れた声を発した。紡ぎ出されたのは虜囚に対する監督責任を負う者だと認めた男に対する、痛烈な非難であった。
「貴様……、私に用があると云っていたな?
『異端の神』である私を手下どもに与え慰みものとすることで、私たち冥界神に、おのれら天の神族の優越を示そうというわけか? 勘違いも甚だしいな。……私が、あれしきのことで貴様らに屈服すると思うなよ……」
さきほどまで見せていた繊弱さとはまるで別神のような厳しい口調である。レストルは思わず詫びかけた。弟の手引きしたこととはいえ、ならず者等をこの部屋に入れたことをだ。
口を開きかけて我に返り、やめた。なぜ俺が詫びねばならん? こいつの態度の尊大さに、一瞬立場を錯覚させられそうになった……。
レストルは代わりに苦笑で応じてやる。
「どうやら正気に戻ったらしいな……。輪姦されたショックで気を失ったのかと、……意外に繊細なところもあると思ったのだがな」
「……、」
死神は不愉快げに眉を顰めただけだ。しかしその表情に浮かぶ色濃い疲労を、レストルは見て取った。虚勢を張ってはいるが、どうやら体力的にも限界のようだ。一体どれほどの時間、凌辱され続けていたのだろう?
死神はともすれば再び崩れ落ちそうになる上半身を、床についた手でかろうじて支えつつ、吐き出す言葉の中には頑なさを保ち続ける。
「私をここで、どのように遇するつもりなのか知らぬが……、貴様らに屈するぐらいなら、このままここで、あの胸糞悪い光を浴びながら滅することとて厭わぬ」
「滅するだと?」
突如出てきた極端な単語に、レストルは虚をつかれ問い返す。
とたん、激しい言葉とはまるで裏腹に、ナシェルの躯がぐらりと頼りなく傾いだ。前のめりに倒れかけるのを、手を差し伸べて慌てて抱きとめる。
「…ッ…、」
「おい、大丈夫か。消滅するなどと……穏やかではないな」
虜囚は、腕の中でふたたび激しく呼吸を乱しはじめる。苦しげな吐息の隙間から、意外そうに問うてきた。
「私を…見世物にしてから殺すつもりではないのか? このような場所に、捕えて……」
「なんだと?」
思わぬ死神の発言に、レストルはそこで初めて視線を上げ、西日射す天窓の存在に気づいてやっと死神の云わんとするところを悟った。
なるほど、そうか……。こいつは、あの闇の神の跡継ぎ……。元来暗闇こそを棲み処とするこの者に、天界の光はあまりにもきつすぎるのか。
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