泉界のアリア

佐宗

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第三部 天 獄

45離宮の幻景

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 壁にかかる豪奢な鏡の中に、冥王セダルは淡い過去の幻景を見ていた。
 黄金色をした千年樹の葉の舞い落つ、幻霧の森の奥の『離宮』。


 夢にも関わらず、それははっきりとした光景だった。
 湖底に棲む水乙女たちのひそひそ声、そして湖水の湿った音色までもが聞こえてくるような……。
 そうした景色や離宮の装飾の隅々までを、鏡越しにつぶさに思い描くことができるほど、彼は数え切れぬ一夜をその離宮で過ごしてきたのだ……半身ナシェルとともに。


 いま鏡の向こうに浮かび上がる情景も、その数多あまたの夜のうちの一つに過ぎない。
 だが王はそのとき交わしあった言葉の全てを、今でもはっきりと覚えているのだ。
 


 ……鏡は、離宮の窓辺を映し出す。

 千年樹の張り出した枝によって造形された自然の軒下には、朽ち葉に彩られた寝椅子カウチが置かれ、その柔らかな青天鵝絨びろうどの表面は妖しく湿り輝いていた――湖のもたらす霧によって。
 そして王と、彼の影の王シャハルが、これから互いのさまざまな愛の蜜をもその褥に吸わせるのだ。

 ……熱い交わりのさい、死の神はいつもそうするようにはじめ、罠に搦めとられた若い牡鹿のように冥王の腕から逃れようと試みる。……やがて狩猟者たる王が囁く甘美な命令に屈して抵抗をあきらめ、その躯をおずおずと開いてゆく。

 それらの順序は、王がナシェルの躯に所有物の証としての楔を打ち込んだ、あの運命的な初夜より今に至るまで、無限に繰り返されたある種の儀礼のようなものだ。


 強靭でしなやかなその肉体を、王は歓喜とともに木の葉散る寝椅子の上に組み伏せ、慄くその唇を塞ぎ、完全に抗いが消えうせるまで愛撫を繰り返す。

 残酷なまでに焦らされた半身が、やがて朽ち葉を掃く風の音に掻き消えるほどの小声で彼を求め、恥ずかしそうに、わがきみ、もっと私の秘密を探ってくださいとせがむまで。


  彼は笑いながら応ずる。
 ――わざわざ探らずとも余はそなたの躯の全てを知っているのだよ。余の前にそなたの秘密などありはすまい。


 そう云いながら彼は半身の躯のそこかしこに、官能の焔を灯しだす。

 ――そなたの全てを知り尽くしているのだ。……ここに触れられたときにそなたがどうなるかも……移り気なそなたが余とこうしているときの、はじめとおわり、その心の変遷も、すべてな。
 なぜならそなたのすべては余から与えられたもので出来ているからだ。そなたの躯に流れる血も、司も、そなたの住む世界も、そなたの侍らす眷属たちも、そなたの命さえも。なのに今さら何を、探れと申すのか?


 王の底意地の悪い愛撫を受けて、ナシェルは乱れきることの出来ぬまま滔々と切ない抗議をはじめる。

 ――いいえ我がきみ、あなたは私の全てを知っているわけではない。あなたは私の心も知ったふうにおっしゃるが、心だけは、あなたに与えられたものではない、私の中に自然と芽吹いたものです。そして私自身とて、おのれの心の全てを解しているわけではありません。
 自分自身とて理解できぬというのに、どうして自分でないものが私の全てを把握できますか? 
 ……あなたは私の心など、何も解っておられないくせに。

 そんな小憎らしいことを、くぐもった喘ぎの切れ目切れ目に零して、濃青の瞳は反抗的にふいと背けられる。
 しかし躯のほうは、さあ早く私を貫けばいい……とばかり瑞々しく色づくのだ。

 ――素直じゃないね。欲しいならもっと正直にねだれば良いのだよ。

  王は苦笑しつつ豊かな黒髪の間に指を埋めてやる。そして耳の後ろを嬲って扇情的な吐息を洩らさせたのちに、指を滑らせて胸の奥にあるものを差すように、胸の莟に触れる。

 ――そうとも、確かにそなたの躯のなかで余の思い通りにならぬ場所が一点だけあるよ……ここにな。だがそれすらも思うさまに操ってしまっては、狩りの楽しみが減るとは思わぬか……。そなたは素晴らしい獲物だ。狩りつくしてしまわぬよう、捕えては何度も解き放ってやっているのが判らぬか。そなたがいろいろに感じ、思う、その心の自由とて、余が許してやっている厚情に過ぎぬのだ。

  やんわりと焦らされて、濃青の瞳がみるみる潤みを帯びてゆく。

 ――私の心をも支配しているように仰るのはやめてください……私の心は、誰にも捕まえることはできない。私はすべてのことを自分で決めます……どんな道を選んでも、それはあなたに導かれて出した答えなどではない。

 ――ふふ、強情な子だ。分かったよ。さしあたり……そなたは、このまま、どうなりたいの? そなたの願い通りにしてやろう。

  胸の尖りを軽くつついてやる。肌は吸いつくようにしっとりと、肌理きめ細やかだ。
 しばらく逡巡するように視線を彷徨わせたあとで、ナシェルは根負けしたように呟き、腕を伸ばした。

 ――何故いつもいつもこんな場面でばかり意地悪なことを仰るのか。……もう、待てませんよ。

 結局、懇願させられていると認識しつつ、

 ――父上……早く私を貫いて……もっと、貴方に近づきたい・・・・・のです。貴方と溶け合いたい。貴方を癒したいし、貴方の一部になりたい。押し問答はやめにしましょう。
 と吐露する。揚げ足を取ったのは己であることも忘れて。

 ――「今は、」であろう。焦らされているから出る言葉ではないの? そなたの中に、たっぷり力を注ぎこんでやったら、すぐにそなたは「もう戯びはおしまい。父上は意地悪だからきらい」などとといって逃げたがるくせに……。

 ――でもこれも、私の本心の一つです。
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