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第三部 天 獄
44異変
「…………」
「おい、聞いてるのか?」
反応を示さないナシェルの瞳を覗き込み、焦点の定まらないことに気づいたレストルは、その躯を抱き起こし胸に抱えた。
ナシェルは呆然と虚ろな眼で宙空を見上げたまま、全身を虚脱させ、ぐったりと動かない。目を見開いたまま失神しているような様子だ。
「―――?」
「……んぁ? 何かコイツ変じゃない?」
アドリスも異変を感じ取ったらしく屈み込んでくる。
ナシェルの頬や手に触れてみると、あれほどの熱い行為のあとにも関わらず酷く冷たい。
レストルは花芯へ施した戒めを急いで解き、頬を数回、叩いて呼びかけた。
「おい、起きろ。誰が寝ていいと云った?」
だが反応はない。さらに数度、頬を叩く。
「起きろ、おい!」
そうしながら、そういえばこんな状況は前にもあったな、と気づく。
頬を打たれた死神はびくりと全身を震わせて瞬きをした。薄れかけていた意識が、辛うじて浮上したようである。
だがナシェルは意識を戻した次の瞬間には、例の反骨に満ちた眼差しをぶつけてくるでもなく、レストルを突き飛ばすようにし躯を折り曲げ、ぶるぶると痙攣しはじめた。
「ッ………?」
なんだ……?
明確な異変をようやく察知したレストルは、呆然とナシェルを見下ろした。ナシェルは目の前のシーツをかき集めて口元を押さえ、激しく嘔吐き出している。
「おい、どうした……大丈夫か」
手ひどく犯しておいてから云う台詞でもないのだが、レストルに思わずそう口走らせるほどに様子が一変したのだ。
「わ、わ、え、えっ? 吐いたよっ、兄貴ぃ!」
「騒ぐな、水持ってこい!」
ナシェルは吐いたものを――といってもこれまで口にしたのが少量のスープだけであったので、殆どは胃の腑液だった――手元のシーツに吸わせ、丸めた。吐ききってしまうといくらかましになったが、それでも身体中を這いまわるような悪寒と暫く戦わざるを得なかった。
アドリスがあわてて円卓の上の水差しを持ってきた。
奪い取り、口に含んで、口の中を清めてからまたシーツの中へ吐いた。
尋常ならざる様子に少しうろたえたのか、レストルが訊いてくる。
「いきなり何だというんだ……? とりあえず、大丈夫か」
大丈夫どころか多分かなり消滅の危機に瀕しているのだが、この男に介抱される筋合いもない。ナシェルは朦朧としながら
「少し……休ませろ……、一人にしてくれ……」
とだけ云って倒れこむように寝具の隙間に伏した。
何回もこんなことを続けていたら確実に創世界行きだろう。ここ天上界では確かめるすべもないが、精霊を使役する微細な力すらも今の己には残っているのかどうか……、それも定かでない。
レストルが何か声を掛けてこようとするのを無視して、ナシェルは瞼を閉ざした。もう、会話などできる状態ではなくなっていた。
レストルが渋々汚れたシーツを拾い上げ、弟を促して出ていく気配を感じたが、後に残った疲労感と嘔吐感の残滓のなか、ナシェルは独りになったことを確かめる余裕もなくずるずると、意識を暗転させていった。
下へ下へ、昏迷のなかに落ちていきながら愛する昏黒と冥王の腕に、今度こそは全身を擁かれるのではないかと待望するも……、薄れゆく意識の先はどこまでも、非情なほど皓白いままであった。
***
不服な面持ちのままレストルは白夜の回廊に出た。
雲間に引っかかっている橙陽と、宵月の仄明かりに照らされて、隣に立つ弟神の栗色の髪がぼんやりと光っている。
レストルは丸めたシーツをアドリスに押し付けながら嘆息した。
「残念だ……あいつ俺から主導権奪うぐらい余裕あるなら最低あと2回ぐらいはヤれたはずだ。あんな状態にならなければな」
「兄貴マジか……、まだあいつ犯るつもりだったのかよ……」
「……だが、いきなり何なんだ? ちゃんと光の届かない部屋に移してやったっていうのに」
「……あのさ、なんか俺、引っかかるんだけど」
アドリスは不意に声の調子を低める。優美な眉を顰めた彼は、顎に手を遣りながら兄を見た。
「……何がだ?」
「俺たちとヤッた後で突然あいつ様子がおかしくなっただろ」
「……そういう風に云われると、まるで俺たちが悪いみたいに聞こえるじゃ……」
云い掛けて、レストルは口を噤んだ。弟の、自分と同じ蒼紫の眸が、じっと自分に注がれている。
「兄貴……。なんかオレ、嫌な予感がする……もしかして、ちょっとヤバイんじゃない……?」
「やばい?」
「だって、俺が手引きした連中が犯った後でも、あいつおかしかったじゃないか」
「あれは輪姦されたショックで気絶したんだと思っていたんだがな」
「いや、あいつはそんなヤワな性質じゃないはずだ。兄貴もそいつは分かるっしょ」
それは確かにそうだった。図太いまでの矜持と、妙に手慣れした淫猥な躯……。どちらをとっても、望まぬ相手に無理矢理犯されたところで精神的に不安定になるような性分とも思えない。
では、何が原因だというのだ?
普段は調子に乗った言動ばかりを繰り返すアドリスが、この時ばかりは何事かを考え込む表情を見せている。
「あいつにのめり込むのは、やめたほうがいいよ多分。ていうかもうヤッちゃった時点で、親父たちにバレたら大変なんだしさ」
「そんなことは、云われなくても分かってる。のめり込んでるつもりもない」
レストルは心の嘘を悟られぬよう僅かに目を逸らした。
「兄貴……これ本当、真面目な話だぜ、なんか分かんねーけど、あいつと寝るのはヤバイ気がする」
「……お前、俺に説教するつもりか?」
「そんなんじゃないけど……、俺は降りるよ。兄貴もほどほどにした方がいい」
「……分かってると云ってるだろう」
弟に背を向け、レストルは一方的に会話と打ち切った。立ち去りかけて、振り返り、あいつが目を覚ましたらまたちゃんと見張っておけよと釘を差しておいた。
捕えたのは己の側であるはずなのに、いつの間にかあの異端の神に、己のほうが囚われている……。
動かしがたいその事実。あの軽薄な弟にまで忠告されるほど、俺の眼は妄執に曇っているのだろうか?
アドリスの言葉が繰り返し胸中に残響するも、内心で認めたとおり、レストルの若き魂は既にあの甘美な肢体の完全な虜であった。
弟神が示唆した通り、死神の不調の原因は日光がどうとかではなく、己そのものにあるのではないかと疑念を抱きはじめながらも、理性と欲望の狭間に立ち竦む心は、確固たる証がない以上はまだ肉欲の烈火の燃え上がる中に突き進んでゆくことを、望んでやまぬのだった。
「おい、聞いてるのか?」
反応を示さないナシェルの瞳を覗き込み、焦点の定まらないことに気づいたレストルは、その躯を抱き起こし胸に抱えた。
ナシェルは呆然と虚ろな眼で宙空を見上げたまま、全身を虚脱させ、ぐったりと動かない。目を見開いたまま失神しているような様子だ。
「―――?」
「……んぁ? 何かコイツ変じゃない?」
アドリスも異変を感じ取ったらしく屈み込んでくる。
ナシェルの頬や手に触れてみると、あれほどの熱い行為のあとにも関わらず酷く冷たい。
レストルは花芯へ施した戒めを急いで解き、頬を数回、叩いて呼びかけた。
「おい、起きろ。誰が寝ていいと云った?」
だが反応はない。さらに数度、頬を叩く。
「起きろ、おい!」
そうしながら、そういえばこんな状況は前にもあったな、と気づく。
頬を打たれた死神はびくりと全身を震わせて瞬きをした。薄れかけていた意識が、辛うじて浮上したようである。
だがナシェルは意識を戻した次の瞬間には、例の反骨に満ちた眼差しをぶつけてくるでもなく、レストルを突き飛ばすようにし躯を折り曲げ、ぶるぶると痙攣しはじめた。
「ッ………?」
なんだ……?
明確な異変をようやく察知したレストルは、呆然とナシェルを見下ろした。ナシェルは目の前のシーツをかき集めて口元を押さえ、激しく嘔吐き出している。
「おい、どうした……大丈夫か」
手ひどく犯しておいてから云う台詞でもないのだが、レストルに思わずそう口走らせるほどに様子が一変したのだ。
「わ、わ、え、えっ? 吐いたよっ、兄貴ぃ!」
「騒ぐな、水持ってこい!」
ナシェルは吐いたものを――といってもこれまで口にしたのが少量のスープだけであったので、殆どは胃の腑液だった――手元のシーツに吸わせ、丸めた。吐ききってしまうといくらかましになったが、それでも身体中を這いまわるような悪寒と暫く戦わざるを得なかった。
アドリスがあわてて円卓の上の水差しを持ってきた。
奪い取り、口に含んで、口の中を清めてからまたシーツの中へ吐いた。
尋常ならざる様子に少しうろたえたのか、レストルが訊いてくる。
「いきなり何だというんだ……? とりあえず、大丈夫か」
大丈夫どころか多分かなり消滅の危機に瀕しているのだが、この男に介抱される筋合いもない。ナシェルは朦朧としながら
「少し……休ませろ……、一人にしてくれ……」
とだけ云って倒れこむように寝具の隙間に伏した。
何回もこんなことを続けていたら確実に創世界行きだろう。ここ天上界では確かめるすべもないが、精霊を使役する微細な力すらも今の己には残っているのかどうか……、それも定かでない。
レストルが何か声を掛けてこようとするのを無視して、ナシェルは瞼を閉ざした。もう、会話などできる状態ではなくなっていた。
レストルが渋々汚れたシーツを拾い上げ、弟を促して出ていく気配を感じたが、後に残った疲労感と嘔吐感の残滓のなか、ナシェルは独りになったことを確かめる余裕もなくずるずると、意識を暗転させていった。
下へ下へ、昏迷のなかに落ちていきながら愛する昏黒と冥王の腕に、今度こそは全身を擁かれるのではないかと待望するも……、薄れゆく意識の先はどこまでも、非情なほど皓白いままであった。
***
不服な面持ちのままレストルは白夜の回廊に出た。
雲間に引っかかっている橙陽と、宵月の仄明かりに照らされて、隣に立つ弟神の栗色の髪がぼんやりと光っている。
レストルは丸めたシーツをアドリスに押し付けながら嘆息した。
「残念だ……あいつ俺から主導権奪うぐらい余裕あるなら最低あと2回ぐらいはヤれたはずだ。あんな状態にならなければな」
「兄貴マジか……、まだあいつ犯るつもりだったのかよ……」
「……だが、いきなり何なんだ? ちゃんと光の届かない部屋に移してやったっていうのに」
「……あのさ、なんか俺、引っかかるんだけど」
アドリスは不意に声の調子を低める。優美な眉を顰めた彼は、顎に手を遣りながら兄を見た。
「……何がだ?」
「俺たちとヤッた後で突然あいつ様子がおかしくなっただろ」
「……そういう風に云われると、まるで俺たちが悪いみたいに聞こえるじゃ……」
云い掛けて、レストルは口を噤んだ。弟の、自分と同じ蒼紫の眸が、じっと自分に注がれている。
「兄貴……。なんかオレ、嫌な予感がする……もしかして、ちょっとヤバイんじゃない……?」
「やばい?」
「だって、俺が手引きした連中が犯った後でも、あいつおかしかったじゃないか」
「あれは輪姦されたショックで気絶したんだと思っていたんだがな」
「いや、あいつはそんなヤワな性質じゃないはずだ。兄貴もそいつは分かるっしょ」
それは確かにそうだった。図太いまでの矜持と、妙に手慣れした淫猥な躯……。どちらをとっても、望まぬ相手に無理矢理犯されたところで精神的に不安定になるような性分とも思えない。
では、何が原因だというのだ?
普段は調子に乗った言動ばかりを繰り返すアドリスが、この時ばかりは何事かを考え込む表情を見せている。
「あいつにのめり込むのは、やめたほうがいいよ多分。ていうかもうヤッちゃった時点で、親父たちにバレたら大変なんだしさ」
「そんなことは、云われなくても分かってる。のめり込んでるつもりもない」
レストルは心の嘘を悟られぬよう僅かに目を逸らした。
「兄貴……これ本当、真面目な話だぜ、なんか分かんねーけど、あいつと寝るのはヤバイ気がする」
「……お前、俺に説教するつもりか?」
「そんなんじゃないけど……、俺は降りるよ。兄貴もほどほどにした方がいい」
「……分かってると云ってるだろう」
弟に背を向け、レストルは一方的に会話と打ち切った。立ち去りかけて、振り返り、あいつが目を覚ましたらまたちゃんと見張っておけよと釘を差しておいた。
捕えたのは己の側であるはずなのに、いつの間にかあの異端の神に、己のほうが囚われている……。
動かしがたいその事実。あの軽薄な弟にまで忠告されるほど、俺の眼は妄執に曇っているのだろうか?
アドリスの言葉が繰り返し胸中に残響するも、内心で認めたとおり、レストルの若き魂は既にあの甘美な肢体の完全な虜であった。
弟神が示唆した通り、死神の不調の原因は日光がどうとかではなく、己そのものにあるのではないかと疑念を抱きはじめながらも、理性と欲望の狭間に立ち竦む心は、確固たる証がない以上はまだ肉欲の烈火の燃え上がる中に突き進んでゆくことを、望んでやまぬのだった。
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