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第三部 天 獄
60静かな決意①
しおりを挟む「……レオン様。堕天した私をこのように遇していただいて、感謝の言葉もありません」
サリエルは開口一番そのように謝辞を述べ、深く頭を下げた。丁寧すぎるほどゆっくりとした動作だった。
かつて恋人同士であった二人の精神的な距離は、三百年の月日が流れた今ではこの数歩の距離以上に遠く開いてしまっている。
レオンはサリエルの慇懃な挨拶の裏にそれを感じた。頭で判っていても心で感ずるその感覚は、ちくりとした棘の感触とよく似ていた。
……緑に覆われた温室の中で、いま二人は向き合っている。噴水から銀の水路を伝って木々のもとへ流れゆく、どこか寂寞とした水の音色を、遠く聴きながら。
硝子越しに見える中庭と、水生植物の鉢とを背景に、サリエルは昔と変わらぬ頼りなげな雰囲気を宿したままレオンの前に立っていた。
「元気になったようで、良かった」
レオンは眩しげにその姿を見つめ、それだけを口にする。傷が癒えたようだね、とは云えない。
彼の負った傷は目に見える部分よりむしろ目に見えない部分に深く刻み込まれているのであり、癒えたかどうか判らぬその傷の一因は、レオンにもある。
この世界に彼が戻ってきて四、五日が過ぎていた。天上界の浄気を受けて血色も良くなってきていたが、彼の体に一度失った神司が戻ることはやはりないようだ。
どこにいても常に彼は所在なさげな空気を背負っている。かつて下級神であったころも日陰の身として暮らしていたし、冥界においては尚更のことだっただろう。
そして何もかもを失いここへ戻ってきてなお、ここを自分の居場所とすることはできないようだ。まるでそうした空気が板についてしまっているように見える。
とはいえ、サリエルの放つ美しさは、決して損われたわけではないとレオンは思う。
もはや神ではないが、明らかに魔でもない者。
どっちつかずの状態にある彼だが、それゆえに尚のこと、窶れと美とのぎりぎりの境界にあるような危うさと儚さを感じるのだ。
「レオン様」
サリエルはやがて一歩進み出で、レオンを見上げた。その蒼い瞳の奥には、今まで見せたことのないような静かな決意らしきものが感じられた。
レオンは気づいた。見上げてくる彼の眼差しに映っているものはレオンそのものではなく、遙か離れた異界の地の遠望なのだということに。
(それはそれで良い……。むしろ君が、毅然とした姿を見せてくれることが、私を罪悪感からいくばくか救ってくれている)
そしてレオンはサリエルの出した結論をも、予期するのだった。
「……落ち着いて、本当によく考えて出した答えなのかい、サリエル。誰も……君をここから無理やり追い出したりはしないのだよ。私は君を、魔に堕ちたとかいう謂れのない誹謗中傷から守ってあげることもできる」
「ええ、分かっています。ですが私は決めました」
頷くサリエルの目元に、躊躇の色はなかった。
「レオン様。私の居場所はやはりここではありません。
私はあの地で色々なものを見てきました。初めは眺めも音も、何もかもが恐ろしいばかりで目と耳を塞いでばかりいましたが、いつしか気がついてみれば私が触れたもの、出会った方々は、植え付けられた先入観を打ち破り私の心を捉えるものばかりでした。
そして私は真実、心から私を愛してくれる方と出会いました。
いえ、この世界を離れて一番最初にすでに出会っていたのですが、その方と私との間には異種であることからくる敵対心や衝突や誤解といった障壁が、数多く横たわっていました。
私たちは互いに不器用で、それぞれの自尊心や頑なさというものを取り除くのに驚くほど長い年月を要しましたし、私がここへ戻ってくることになってしまった一因も、実はまた愚かな誤解によるものだったのですが……」
「………その者の所へ、戻りたいということなのだね? それは、ルゥの云っていた魔族の者なのだね」
「はい、レオン様。お許しが頂けるならば、私はもう一度あの世界に戻りたい……。いいえ、お許しがなくとも私はもう一度戻って、彼に伝えなければいけないのです。たとえ触れ合うことが許されなくともずっと愛していると。私たちの愛に変わりはないのだと」
悲壮な決意を漲らせるその頬に、レオンは無意識にそっと指で触れていた。常に受け身の姿勢で何事も己で決断するということからは無縁だったサリエルを、こうも変えてしまったその男に、彼は一抹の嫉妬を覚えたのだ。
意地悪だと自覚しつつもレオンは、口に出して言ってみる。
「……でもその者は生きているかも分からないそうじゃないか?」
「いいえ、きっと生きています。こちらに来てからアドリス様に確かめました。……殺してはいない、と」
「きみの体は、きっと冥界の瘴気には長くは耐えられないよ。消滅してもいいと思っているの?」
「……ここで独り、堕天した者として後ろ指をさされながら細く長く寂しく生き続けていくよりも、愛する方の腕の中で死ぬことを選びたいのです。
……ですが決して捨て鉢になっているわけではありません。私はほんの少し、したたかさも身につけました。姫さまの作った結界が私を守ってくれますから」
(ルゥの云っていた“花畑”のことか…)
レオンは溜息まじりになおも問いかける。
「……私が君を断固として引き留めるということを、君は予測してはいないのかい?」
かつて幾度となく触れたその唇。ひとたび失い、また舞い戻って来て今はレオンの目の前にあるそれだったが、たとえ再び奪ったとしても、それは中身のない空虚な口づけに終わるだろう。
サリエルは微動だにしないが、その表情の中には今や、唇に触れることさえ許さぬ強い意思が窺えた。
「お戯れを……おっしゃらないでください」
サリエルは僅かに、目を伏せる。目尻に薄っすらと浮かんだ淡く光る粒には、かつて待ち望んでいた救いの手をレオンが差し伸べることがなかったことへの、無言の非難が込められているようだ。
レオンは指を滑らせてそれを拭ってやるべきか、それとも手を離してやるべきか逡巡した末、そっとその雫を指で掬った。
「あのとき君を救いに行かなかったこと……済まなかったと思っているよ。つらい思いをしたのだね」
途端、涙が堰を切ったように溢れ出す。
「サリエル……」
「……いいのです、レオン様、どうか謝らないでください。私はそれと引き換えに、大切なものを得ることもできたのですから。
思えば、私は未熟で愚かな若者でした。あの頃私はあなたから向けられる慈愛を、己ひとりのものだと思いこみ、あなたが私のためならば命や身分さえ捨ててでも助けに来てくれると妄想していました。
今ならちゃんと判ります。あなたから向けられる愛は、他者と平等に、分け隔てなく注がれる愛の一部にすぎなかったのだと。
なぜならあなたは天王で、この世界の秩序を守る義務がある。そして神族みなの利益のために行動しなくてはいけない。皆のものでなければならないのですから。
それに私のために天上界と冥界の間に衝突を起こすわけにはいかなかったというのも、わかります。あの時のあなたの判断は、全く間違ってはいませんでした」
「サリエル……」
レオンは頷いた。この者が長いこと会わないうちにかの地で様々な体験をし、色々な意味で成長したのだと感慨に近い思いを抱いていた。
そして同時にこうも感じる。困難な旅路を経て、揺るがぬただ一つの信念と愛をその身に宿すことに成功した彼と、多くの愛に囲まれながら相変わらず『平等』たろうとし、一つ一つの魂とまともに向き合うことをあえて避けている己では、一体どちらが最終的な幸福を掴みうるだろうか、と。
答えは自明だ。
「…しばらく会わないうちに随分おとなになったな、と思っていらっしゃるでしょう、レオン様」
サリエルは涙を拭き、レオンの心を見透かすようにその瞳を見上げる。
微笑んで、こう続けた。
「おとなになったというよりは、一度死にかけたからでしょうか、――そんな理由もどうかと思いますけど、……少しだけ、周りが見えるようになってきたのかも。
あのとき、消滅しかけた所へ姫様が現れて…、まだ赤ちゃんでしたけど…、病とともに私のなかの拘りや蟠りも、一緒にどこかへ流してしまわれたのです、きっと。
病が癒えて疑似天で、姫様やナシェル殿下や愛する方と過ごした日々は、私にとって穏やかな安息の時間でした。
何かを捨てなければ何かを得ることができないのなら、私は躊躇いなく過去の、貴方の愛だけにしがみついていた狭い自分を捨てます。
失ってはじめて気づくことがあまりに多すぎて……、やっぱり今も失敗ばかりしていますね、私は」
レオンもつられて瞳が潤むのを感じながら、サリエルの肩に優しく触れる。
「分かったよ……。そこまで云うのなら、私は君が自分で考えて出した答えを尊重する。引き留めたりしないから、好きな所へ行って、好きなように生きなさい」
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