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第四部 至高の奥園
13目覚め③
しおりを挟む「……ヴァニオンは? 無事なのか」
「ええ、あの男は簡単に死ぬような男じゃありません。殿下が一番、お分かりでしょう。足に重傷を負いましたが一命はとりとめました。今は暗黒界で静養して……」
「暗黒界……!」
心臓が跳ねる。
「あそこはどうなっている。私の領地は。神族の攻撃を受けたと聞いたが……」
「殿下、落ち着いて……。結論を申し上げれば暗黒界はかろうじて壊滅は免れました。三連砦で防いでいる間に陛下がなんとか間に合い、神々を退けて下さって。ですが、砦を二つ失い、一万近い兵を失いました。今はアシュレイド将軍の指揮の下、事後処理と砦の再建に……」
「!……こうしてはおれぬ!……くッ……」
起き上がりかけるも、躯に思うように力が入らない。ファルクに肩を掴まれ、寝台に戻された。
「殿下……。今はご自身のお身体のことだけをお考えください。その体では領地に戻るどころか、出歩くことさえ無理です」
「…………」
「それに、お忘れではありませんか? まず陛下に、お目にかからなくては。
お救いいただいたことを陛下にお礼申し上げるのです。……それから他にも、大事な話がおありでしょう」
目を伏せるナシェルを、ファルクは苦笑混じりに見つめる。
「……まさか、避けて通れるとお思いですか?」
「……誰もそんなことは言っておらぬ。
貴様こそ、どの面下げて父上に諂った? 私と通じていただけならともかく、まさか異母弟とまで組んでいたとはな……」
異母弟の名を口にするナシェルの表情は苦々しい。
仰向いたままの彼の耳元に顔を近づけ、ファルクは囁いた。
囁かれたナシェルの瞼が、見開かれる。
「……何だと?……」
ファルクは黙って頷いた。
「貴様……、己の保身のためにエベールを弑したのか!?」
再び身を起こしかけるも、そっと手で制された。
「……処刑は、陛下のご命令でした。
縛り首が忍びないというなら、毒で苦しまぬようにしてやれと。
……そして私に対しては、エベール様に殉ずることをお許し下さいませんでした。
殿下。考えてみて下さい。もしエベール様がご健在でいらしたら、貴方はここへお戻りになるなり、復讐のためにあの方を斬って捨てねばならなかった。……違いますか? 貴方と弟君の間にもう、和はあり得ないでしょう?
陛下は、貴方の御手が汚れることを望んではおられない…。
ですから天上界に赴かれる前に、先んじて私に処分をお命じになったのです。
貴方はそこまで陛下に守り抜かれているということですよ」
「……」
確かにナシェルは、エベールを許すわけにはいかない。
しかし冥王のそうした苛烈な報復には心が冷える思いがした。
翻っては、そのぶんこちらへ向けられるであろう慈愛と温情とが、考えただけで重い。
息苦しさを覚え、ナシェルは我知らず胸元を押さえた。
王子が息を上げ始めたのを悟り、ファルクが王子の手放した布巾をとって再び額を伝う汗を拭おうとする。
「触るな、もう下がれ……」
押しのけようとした手首を不意に掴まれ、手の甲に恭しい口づけを受けた。
汗ばんだナシェルの手を大事そうに押し戴きながら、公爵は呟くように言った。
「愛していますよ、殿下。貴方の考えていることは、わたくしには手に取るように分かります。
貴方の独善的な態度。貴方の冷淡さ。貴方のついてきた嘘。貴方がご自分でも理解できていない、貴方のなかの虚と実。陛下への愛と憎しみで、貴方が葛藤する様……。
――いいえ、最後まで云わせて。……それらすべてを私は愛しています。愛していました。
あなたとはもう、とうに終わっているのだけれど……。
でもね殿下。
わたくしが、手頃な快楽を得るために貴方を抱いていたのではないことだけは、覚えておいてください。
貴方への愛は本物でした」
男の言葉は、情熱的な抑揚を経て、過去形になっていた。この男はこの男なりに、これでけじめをつけたつもりなのだろうか。
――どいつもこいつも、勝手なことばかり。
ナシェルは言葉を受けながら脳裏に、レストルから受けたあの直情的な告白をも想起する。
短期間のうちにどうしてこうも、次から次へと……と思う。だがあの天上界の男が、ナシェルを強引に振り向かせようと己の感情をぶつけてきたのに対し、ファルクの告白にはナシェルの内面を鋭く洞察しつつそれすらも包み込もうとする、ある種の大らかさがあった。
――すでに当事者ではない、だからこんなにも穏やかに呟けるのだろうか? それとも私がただ、交わしてきた行為の異常性にばかり気を取られて、この男を理解しようとしていなかっただけなのか――。
いや、……そんなことはどうでもよい。
何をどう返そうと無粋なだけだし、こいつもきっと返答など、望んでおらぬのだ。
徐にファルクが椅子から立ち上がる。未練たらしくナシェルの手をいつまでも握っていたりはしなかった。
「……では、わたくしはこれで」
彼が本当に退出しようとしていることに気づき、ナシェルは慌てて残りの問いを矢継ぎ早に投げた。
「姫は……疑似天に戻ったのか? サリエルはどうなった?」
「殿下……。あとは、どうぞ陛下に直接お訊ねになって下さい。わたくしにあれこれ訊かれるより、その方が早い」
高い位置から、宥めるような声が降り注いでくる。
「すぐに陛下をお呼びして参りますから。……実は先ほどまでこちらにいらしたのですよ。審判とご政務でお忙しいのに合間を縫っては様子を見に来られて。お目覚めになられたらすぐに呼ぶようにと……」
「ま、」
ナシェルは咄嗟に手を伸ばし、ファルクの袖を掴んでいた。
「待て、呼ぶのは……」
引き留められるとは思っていなかったのだろう、ファルクは振り返って怪訝そうにナシェルの顔を覗き込んだ。
そして王子の蒼白い頬の上に、逡巡と気後れの入り混じった微妙な感情があることを悟ると、やんわりと微笑した。
「殿下……。さては、陛下に会うのが怖いのですね」
「!」
ナシェルは慌てて手を離し、顔を壁側に背ける。咄嗟の行動を悔いたが、もう遅い。
ファルクは身を屈め、ナシェルの腕を取って寝具の中にもう一度収めると、その上から優しく二度叩いた。
「――大丈夫ですよ。陛下は分かってくださるでしょうし、きっと何もかもお赦しくださいます。あとは貴方次第です。素直な心で向きあってごらんなさい。こんなことがあったのだから、もうそろそろ貴方も陛下に対して正直になってもいいころでしょう……。ね、殿下」
そして再び立ち上がると、もう振り向かずにナシェルの居室を辞去した。
「……何が正直になれ、だ。誰も……恐れてなど……」
ナシェルは独りになるとようやく反論めいた言葉をファルクの消えた扉にぶつけた。
そして心臓の拍動の急激な上昇を悟った。
父がここへ今にもやってくるかと思うと、何とも言えぬ焦燥と脅威とを、同時に覚えずにはいられない。
どんな顔をして差し向えばいいのだ。冗談ではない……。
ナシェルは寝台の中で呻き声をあげ、布団を頭から被ったり体を折ったりした。
どうにも動悸が収まらず、天蓋の中にいること自体をあきらめて、這うように寝台の端まで行った。
天蓋の柱になんとか手をかける。油の切れた機械のような動きだ。
床に降りようとしたが、そもそも四肢に力が入らない。
どん、と無様な音を立てて寝台の下に転がり落ちた。
―――何を慌てているのだろう。
独り、寝台の下にうつ伏せに這い蹲いながら、ナシェルは混乱する己を必死に抑えていた。
会いたくない。そう、会いたくないに決まっている。
こんな弱った無様な姿を、晒すのは御免だ。
……ではこの動悸は何だ。
認めろ。認めてしまえ。お前は、一刻一秒でも早く我が王に会いたいのだと。
あの長い廊下を王が歩んでくる、優雅な、余裕のある足音を立てて。……その幻が繰り返し脳裏を過ぎる。
――それはあまりにも恐ろしく、甘美な幻だった。
ナシェルは居てもたってもいられず、云う事をきかぬ体を引き起こし、かろうじて立った。
――そして迫りくる王の気配に怯え、また昂りながら、四肢を引きずり、部屋の中を死人のように徘徊しはじめた。
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