泉界のアリア

佐宗

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第四部 至高の奥園

14懐かしきぬくもり①

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 ナシェルは乱れた寝間着を胸元で掻き合わせ、居室の中をあてどなく彷徨うろついた。

 心臓の異常な拍動がおさまらず、背中全体におかしな汗をかいていた。
 部屋履きを履くのも忘れ、裸足の足指は毛長の絨毯に埋もれて、足を引きずるたびにそこにわだちのような跡を残した。
 ……そう、彼は自分ではうろうろしているつもりであるが、実際の動きを表すならば『ずるずる』と、蝸牛かたつむりが這う程度の速度なのである。

 なんにせよ心の準備が必要だった。入り口から逃れるようになんとなく部屋の奥に向かったのはそうした理由からだが、傍から見れば悪あがきというべき行動だろう。

 無論、当のナシェルも、己の行動の不可解さには気づいている。だが今は外の空気でも吸う以外に、この胸の早鐘を抑える方法を考えつかない。異常なほどの高揚感が手足を震わせる。



 引き戸を開け放ち、露台バルコニーに出て生ぬるい風を浴び、冥界の空気を肺に深く取り込んだ。

 露台の手すりに両手をつき、自分を無視して飛び去ってゆく精霊たちの姿を横目で追う。殷賑たる冥都の情景を眼下に眺めつつ、ナシェルは喪われた己の力につかの間、想いを馳せた。

 ――失った神司を回復するには、一体どれほどの休息が必要なのであろうか。
 一刻も早く領地エレボスへ戻らねばならない。悠長に療養している暇はない。



 手っとり早く回復させる唯一の方法があることを、ナシェルは無論、承知している。

 ――おそらく王は、それを促してくるだろう。いつものようにあっけらかんと神司を「押し付けて」くるのか、それとも怒りに満ちて高みから屈服させようとしてくるのか、それは分からない。気紛れな父のことだ、幾通りにも考えられる。共通するのはそこに、容易には抗しえぬ絶対的な父性と王権をちらつかせてくることだ……。

 ナシェルは露台の手すりを指で辿った。

 ――分かっている。躯が内側から疼いているのは己も王の神司を欲しているからだ。
 そう、自分も求めている――。

 己の欲深さ、節操の無さには、呆れを通り越して頭痛すら覚える。
 会う前からこれでは、抗うにも抗いようがない。

 もしかすると己が今抱いている惧れの理由は、王から向けられる叱責が怖いのではなく、「王の眼差しに貫かれれば簡単に己が陥落してしまうことが明白だから」……なのかもしれない。

 ――素直になれ、というファルクの言葉が脳裏を過ぎゆく。


 素直に……なるとはどういう意味だろう。この内なる欲望に正直になれという意味か?
 それとも王が怒っているのでとりあえず謝っておけという意味か。……気が重い。

 とにかくも、……まずはちゃんと話そう。もう隠しごとはできない。全て打ちあけなければ。そして謝るべきところは懺悔しよう。
 それからこの際だ、己がこれまで感じてきた葛藤も、素直に告白しよう……。



 そうしてなんとか決意を漲らせてから、ナシェルはまた手すりを離れてよろめき歩いた。
 室内に戻り、金の象嵌がほどこされた飾り棚の辺りで、はっと立ち竦んだ。

 室内にいた精霊たちが入口に向かって粛々と頭を垂れていく様子を、ナシェルは目撃した。彼を無視していた精霊たちが……。

 死の精、そして闇の精たちは姿の見えぬうちから王の影響下に入り、王の訪いに備え畏まっているのであった。

 ――室内の精霊だけではない。外の精霊らも一斉に露台の手すりに止まった。
 それはたちまち夥しい数となり、手すりを埋め尽くす。

 ナシェルの呼吸は荒く、短くなる。
 全身が総毛立つ。

 己の拍動がドクンドクンと、異常なほど大きく聞こえる。恐怖なのか何なのか、区別がつかない。
 自分の立ち位置が明らかに不自然に思えてきた。きっと、そんな所で何をしているのかと問われるに違いない。
 ナシェルは訳の分からぬ情動に駆られアワアワ、そわそわと、飾り棚の上にある彫像の位置などを意味もなく動かしてみたりした。
 もう、己でも何をしているのかさっぱり分からない。

 扉が開く音に、心臓が跳ねあがる。動揺を悟られまいとわざと時間をかけて振り向いた視線の先に――。

 幽かな衣擦れの音を立てながら、冥王が姿を現した。
 紅の瞳が、慈愛に満ちた光を放っていた。



 眼差しが交差した途端、ナシェルの肉体はびりりと雷撃に打たれたかのように震撼する。

「……父上……」
 瞬間、悟った。体の震えは恐怖などではなかった。

 喜びだったのだ。
 予期したやりとりも悲愴な決意も、なにもかも霞ませてしまうほどの、王の紅い瞳。

 ――ああ、このだ、私が厭わしく逃れようとしていた眸。
 そして天の牢獄の中で、探し求めていた眸――。

 膝が、崩れそうになった。

 なりふり構わず駆け出して抱きつきたい衝動に駆られたが、うまく動けない。




 冥王は静かにナシェルを見つめていた。
「ナシェル……」
 常の如き鷹揚な声色で、琴線をかき乱す美しい声で、王は呼んだ。

「まだ立ち歩いたりしてはならぬであろう。おとなしく寝ているかと思ったら……。
 ――なぜそんな所にいる。何をしているのだ?」

 思った通り訊かれた。ナシェルは棚の上の彫像に指をかけたまま硬直していた。
 ……なぜでしょうか……。私もそれを知りたい。こんなにもあなたの言動が読めるのに、なぜこうも平静ではいられないのか。

 それにしても、王の背から湧き立つようなあの気は、一体なんだ。穏やかな表情とはまるで真逆ではないか。

 王の放つ凄まじい神司を前に、対するナシェルは司をほとんど失い裸同然の無防備であった。父の存在がこれほどに圧倒的に見えたことはない。

 ナシェルは目が眩む思いで、息を呑んで半身を見つめた。
 優しい声色と烈気の食い違いに、王の意図を測りかねていた。
 王は入室し、真っ直ぐこちら目指して歩いてくる。

 闇の精、死の精たちがその姿にうっとりと見惚れ、さわさわと嬌声を上げはじめていた。




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