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第四部 至高の奥園
15懐かしきぬくもり②
しおりを挟む「驚いたな……もう歩き回れるのか?」
冥王は、黒地に紫の縁取りのされた豪奢な長衣を翻しながら、優雅な歩調で近づいてきた。両手を広げている。
ナシェルは目を見張った。
王にとってはいつもの何気ない行動であるが、今のナシェルには王がわざと強大な神司を撒き散らしながら怒涛の如く迫って来るように感じられる。神としての力の差がこうした錯覚を引き起こすのだ。
「う……」
思わずのけ反り、躯の均衡を崩したナシェルを、当の冥王が頽れる寸前で掴み、抱きとめた。
「そなた……大丈夫か。まだ顔色が良くないぞ」
腕を掴まれただけだが、まるで心臓を鷲掴みにされたような衝撃だった。
「だ、い……大丈夫です」
王の指が腕に食い込む感触に戦慄しながら、ナシェルは膝を叱咤して体勢を直す。
「震えておるぞ」
「父上が、気を発しすぎて、おられるからです」
「? ああ……そういうことか」
冥王が頷いて気を収めるや否や、精霊たちはぱっとどこかへ散じた。
「これで良いか」
「ええ……」
威圧感が薄れ、ナシェルは体の強張りを解く。
「余の神司を感じられるようになったか。長う眠っておった故、少しは体調が回復したようだな」
冥王は静かに頷いた。……わざとではないにしても、もう少し気を遣ってくれないものかと思う。
精霊たちのさわさわした翅音と声が止み、再び室内に静寂が訪れていた。ナシェルはやっと、伏せていた瞼を持ち上げる。
王とその半身は、改めて至近に、互いの姿を捉え合った。
「………………」
言葉がうまく見つからず、ナシェルはただ王に抱きとめられたまま、睫毛を戦慄かせた。
何から話せばよいのだろう。
最後に会ってから今までの間に、あまりに多くのことがありすぎた……。
「……父上」
おずおずと口を開いたナシェルを、冥王は優しく見守っている。
「何だ?」
ナシェルは視線を逸らし、何度かためらって唇を開閉させたのち、漸く意を決して謝辞を述べた。
「その……、ありがとうございました、迎えに来てくださったこと……」
王は頷き微笑んで、ナシェルの頭を己の肩に引き寄せる。
「うん。判っておるよ。救いに行くのは当たり前だ……余はそなたの父なのだからね」
紡ぎ出される労り深い言葉が嬉しく、ナシェルは王の腕のなかにおずおずとその身を委ねた。
その腕の力強さ、ぬくもりが懐かしく、王の脇におそるおそる手を回し背中に触れてみた。
……逃げ出したいと思っていたこの腕を、私は心の奥では求めていた――。
顔をかたむけ、王の肩に頬を乗せる。体温を求めてぎゅっと抱きついた。
ずっと避けてばかりで、たまに会っても寵愛を疎む素振りをしてきた。
こんなにも素直に縋りついたのはいつ以来だろう。
急に心の殻をはがして甘えるなんて、自分はなんと都合の良い生き物なのか……。
心変わりを揶揄われはしないだろうか?
だが王は笑ったりはせず、しっかりとナシェルの細った体を抱きとめていた。長い手指をナシェルの黒髪に埋め、顔を少し横へずらして、肩に載るナシェルの額に耳に、雨のような口づけを施す。
王はナシェルの髪を撫でながら僅かに声を低めた。
「こんなに痩せ細って……。あのままあの世界に居たら、そう長くは持たなかったであろうよ。
そなたの気配が消え失せ、一時はそなたを失ったかと思った……」
「……父上……」
「本当に、馬鹿な子だ。余が与えてやったものを全て捨ててきてしまうなんて」
「……申し訳ありません」
ナシェルの存在を確かめるように髪に唇を寄せ、王はしばらく動かなかった。
ふと、天上界の記憶の最後の断片が脳裏に浮かんできた。最後に自分を抱いたのは確かに、父王であったような気がしたが……、冷静に考えれば、それはあり得ない。するとあれは夢だったのだろうか……。 まさか己は、誰か他の者に向けて、父の名を呼んだのではなかろうか。
嫌な予感にぞわりと背筋を波立たせたナシェルの顔を、王は怪訝そうに覗き込む。
「どうした?」
「い、いえ……」
王の顔がまともに見られない。肩に額をあずけ俯いていると、王がナシェルの体を優しくもぎ離し、両肩に手を添えて目の前に立たせた。
正対し互いの瞳に互いを映し、見つめ合うと、もうどうしていいか分からないぐらい抱擁と唇が欲しくなる。
だが、いま唇を重ねたらきっと瞬時に燃え盛り、常の如く流されてそのまま寝台に直行になってしまうだろう。
それではいけない。
……その前に、きちんと私は話さなければならないことがある。
王の両手がナシェルの頬をそっと挟む。
十本の暖かな指に包み込まれて頬と目頭が熱くなった。
そのまま唇を重ねようと近づいてきた王を、ナシェルは両手で胸のあたりを押し返すようにして制止した。
「ちょっと、待って……父上、お話があります」
物欲しげに瞳を潤ませている王子が、まさか口づけを拒むとは予想していなかったのだろう。押し戻された王は少し眉を顰めたが、優しく説き伏せるように云った。
「余もたくさんそなたと話したいことがあるよ……。だがそなたは見たところ、どこかに掴まらねば立っているのもやっとではないか? 寝台へ行って横になろう。話は閨の中でもできる」
閨の中で?
ほら来た、とナシェルは内心で聞き咎める。話の前にまずは一回しよう、とでもいうつもりか。
「いえ……いいえ、閨の中などでは出来ぬ大事なお話です。今ここで聞いて下さい」
「余はそなたの体調を気遣って言っているのだぞ」
「お気遣いはありがたいのですが、話が先です」
「だが、そなた明らかにふらついておるではないか」
王に足元を指摘されナシェルは両足を踏みしめる。
「悪いことは云わぬ……せめて横になろう」
「横になったら、脱がす気でしょう」
「……あのね。そなた余を何だと思っておるのだ」
「せ……」
言葉を呑みこみ、ナシェルは冥王から一歩の距離を置いて立つ。
王子が目覚めたらたくさん愛して司を注いでやろうと思っていたのだろう、王は少々機嫌を損ねたようであった。
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