泉界のアリア

佐宗

文字の大きさ
178 / 262
第四部 至高の奥園

36擾乱②

しおりを挟む



 ……この夕餉の席における騒動の有様について、ことの仔細を記すのはいささか無粋というものであろうから、軽く顛末に触れるのみにとどめておく。

 幸いなことに、その場に居合わせた給仕役らは危険を察し一早く退出したので、怪我人だけは出ずに済んだ。

 侍官らが盆などで身を隠しながら廊下の端から窺っている間じゅう、夕餉の間からは王子の叫喚や罵倒、暴れる音などがしばらく聴こえていた。

  ……ほとぼりが冷めたと思われる頃、給仕役らが夕餉の間を覗いてみると王子の姿はすでになく、蹴散らかされた調度品類のなかで王の周囲だけが切り取られたように静穏を保っていた。
 王が咄嗟に張った結界のおかげか、王の食器類はなにひとつ乱れておらず、燭台の蝋燭も転倒を免れていた。

 冥王は食後の茶の入った椀を廻して、椀の中のさざなみを見下ろしながら僅かに嘆息しただけだった。
「まあ想定の範囲内ではあるがな……」
 独りごちる冥王の背後には、王子が投げつけたと思しき夥しいフォークやナイフ類が、ぶすぶすと壁に刺さったままになっていた。

「仕方ない。いくら説得されても感情として、すんなり肯けぬ気持ちは分かる」
 セダルは己の判断の正当性には自信を持っている。王意を曲げることはありえぬ。ナシェルが落ち着いて頭を冷やし、その判断を受け入れる時を待つのみだ。

 王は椀の中に映る己へ向けて言葉を落とす。そこにおらぬ半身に、鏡越しに呼びかけるように。

「余を非情と謗ることでそなたの気持ちが晴れるならば、いかようにも謗るがよい。
 だがそなたは心の奥では、余の説明の意味をちゃんと理解しているだろう。
 そなたは強情な子だが、愚かな分からず屋ではないのだからな……」

 王は、ナシェルがいつまでもうわべの事象だけに拘ってはいないだろうと予見していた。

 ルゥが天上界で様々なほかの神と触れ合いながら学び、育つこと……、それがまだ幼いルゥにとって大きな利になることは自明なのだ。ナシェルは幼少時にそれができなかった分、より一層それを弁えているはずであった。

 ただ彼は頭で理解しつつも心で認めたくないだけなのだ。
 ルゥはナシェルにとって、本当にかけがえのない存在なのだから。

(衝撃も無理からぬこと。今はそっとしておく方が良い……)

 冥王はそうして穏やかに独り、しばらく椀を揺らしていた。





 一方ナシェルのほうは、王が察した通り「頭で理解することと心で納得することは全く別物である」という葛藤に、苦しめられていた。

しるべは余とセファニアがおおかた立ててやった。
 あとはそなたとルゥがその道を均し、次の世代に受け継がせてゆけ』

 冥王は、ナシェルに確かにそう言ったはずだった。まさかその舌の根も乾かぬうちに、肝心のルーシェを天上界に残して来るなどと。

 自室に籠ったナシェルは、何とかわき上がる憤激と悲しみを鎮めようとしていた。
 夕餉の間で聞かされた、父の説得を反芻した。
 王は真剣な面持ちで、その根底にある事情をナシェルに告げたのだった。


『彼女はまだ未熟だ。神司の大きさこそ今や女神のなかでは最上位級だが、まだ有り余る司を制御する術を持たぬ。ましてやセファニアの記憶を取り戻し、内なる膨大な神司を一気に開花させたことは、彼女の小さな体にはおよそ計り知れぬ負担であろう。
 そんな不安定な状態にある成長期の彼女が、属性の異なるこの冥界で、あの小さな花園に閉じ籠るように暮らすのは不健康極まりないとは思わぬか。
 無論、そなたの言いたいことは分かっておる。彼女は瘴気から身を守るすべを心得ているのだから、狭い疑似天アルカシェルのみを己の住家とする必要はそもそもないのだと云いたいのであろう?

 ……だが彼女が仮にあの疑似天を出て、冥王宮ここ暗黒界エレボスで暮らすとするならば、彼女はつねに瘴気から身を護るための小結界を体の周囲に維持せねばならぬ。疑似天アルカシェルの半永続型の結界とはまた別の形のものだ。癒しの力を使って体内の穢れを払うといった手間も必要になろう。そうしたものが、まだ幼い彼女の成長を妨げる負担になるぐらいならば……と余は考えたのだよ。

 そしてルーシェもまた天上界に行ったことで、己の成長に好条件の世界があることを、身をもってってしまった……。
 ならばこの際、成長期が終わるまでは彼女を天上界に預け、色々と学ばせた方が良い。あちらの世界には彼女が操ることのできる精霊が数多存在し、彼女の成長を阻む障害もないのだからな。
 大丈夫……これは成長期が終るまでの当面の措置だ。あの子にはいずれ冥界で果たすべき大いなる役割があるのだから』

 王の説明は確かにナシェルを納得させるに足るものだった。
 だが、どれだけ懇切な言葉で説得されても、すんなりとは受け入れがたいのも確か。

 冥王が、ナシェルの分かち難い精神的な寄辺よるべであるというのと同じ比重で、幼い女神はナシェルの魂を安んじるもうひとつの大きな支柱だった。

 疑似天にあって幸せな日々を過ごしていたときも、天上界に囚われていたときも彼女は明るく朗らかにナシェルを癒してくれた。まだ周囲に庇護されるべき小さな存在でありながら、その穢れなき母ゆずりの魂は、ナシェルを包む柔らかな被膜のような、優しい存在でもあるのだ。




しおりを挟む
感想 71

あなたにおすすめの小説

吊るされた少年は惨めな絶頂を繰り返す

五月雨時雨
BL
ブログに掲載した短編です。

父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

四季
恋愛
父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」 あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。 弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。 弟とは凄く仲が良いの! それはそれはものすごく‥‥‥ 「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」 そんな関係のあたしたち。 でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥ 「うそっ! お腹が出て来てる!?」 お姉ちゃんの秘密の悩みです。

騙されて快楽地獄

てけてとん
BL
友人におすすめされたマッサージ店で快楽地獄に落とされる話です。長すぎたので2話に分けています。

上司、快楽に沈むまで

赤林檎
BL
完璧な男――それが、営業部課長・**榊(さかき)**の社内での評判だった。 冷静沈着、部下にも厳しい。私生活の噂すら立たないほどの隙のなさ。 だが、その“完璧”が崩れる日がくるとは、誰も想像していなかった。 入社三年目の篠原は、榊の直属の部下。 真面目だが強気で、どこか挑発的な笑みを浮かべる青年。 ある夜、取引先とのトラブル対応で二人だけが残ったオフィスで、 篠原は上司に向かって、いつもの穏やかな口調を崩した。「……そんな顔、部下には見せないんですね」 疲労で僅かに緩んだ榊の表情。 その弱さを見逃さず、篠原はデスク越しに距離を詰める。 「強がらなくていいですよ。俺の前では、もう」 指先が榊のネクタイを掴む。 引き寄せられた瞬間、榊の理性は音を立てて崩れた。 拒むことも、許すこともできないまま、 彼は“部下”の手によって、ひとつずつ乱されていく。 言葉で支配され、触れられるたびに、自分の知らなかった感情と快楽を知る。それは、上司としての誇りを壊すほどに甘く、逃れられないほどに深い。 だが、篠原の視線の奥に宿るのは、ただの欲望ではなかった。 そこには、ずっと榊だけを見つめ続けてきた、静かな執着がある。 「俺、前から思ってたんです。  あなたが誰かに“支配される”ところ、きっと綺麗だろうなって」 支配する側だったはずの男が、 支配されることで初めて“生きている”と感じてしまう――。 上司と部下、立場も理性も、すべてが絡み合うオフィスの夜。 秘密の扉を開けた榊は、もう戻れない。 快楽に溺れるその瞬間まで、彼を待つのは破滅か、それとも救いか。 ――これは、ひとりの上司が“愛”という名の支配に沈んでいく物語。

R指定

ヤミイ
BL
ハードです。

チョコのように蕩ける露出狂と5歳児

ミクリ21
BL
露出狂と5歳児の話。

少年探偵は恥部を徹底的に調べあげられる

五月雨時雨
BL
ブログに掲載した短編です。

処理中です...