泉界のアリア

佐宗

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第四部 至高の奥園

51愛しき筆跡①

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 ――闇を見通す神の眼の先に、懐かしき城が見えてきた。
 久方ぶりに見るエレボス城は遠目にも、ねむれる貴婦のごとき優美な佇まいであった。

 聳り立つ四方の尖塔と、城の中心部たる居館。そしてそれを取り囲む石の城壁。
 見張り台を兼ねる尖塔の頂きは峭峻で、まるでこの洞窟世界の天蓋をその四本の細腕で下支えしているかのようだ。尖端部は、上層にたちこめる重い瘴気の靄でかすんでいる。
 冥界第二の巨容を誇る城ではあるが、ほかの城がそうであるのと同様、色彩には乏しい。城壁を含め全体がもの思わしげな灰色に沈んでいる。

 だが今は、城壁の上に灯された数百本の篝火のおかげで、あたかも夜の海原から臨む灯台のごとく、くっきりと背景の黒に映えている。
 あるいはそれらのかがり火は、臣らからナシェルへの無事の帰還を前祝う挨拶の狼焔のろしであろう。
 闇世界を騎旅してきたナシェルの双眸には、その焔は些か眩しすぎると感じるほどだった。

 懐かしき我が家の形影は、遠景ながらに瞼の線を滲ませるほどに、暖かい。
 近づくにつれ、じんわりと心に沁みる特別な想いがある。

 ごおぉおう…と、この世界特有の獣声じみた風音、そしてじゃらじゃらと、死者行列の発する鎖の音は相変わらずだが、今はそれらの音に混じって聞こえてくる歌がある。
 精霊たちが己の帰還を祝って詠じているのだ。ナシェルのために左右に退いて城門へのみちを空けながら、高らかに歓びを囀っている。

 そして見よ、鋼鐵の城門の前には黒山が出来ている。
 居並ぶ騎士や兵らはこちらへ向けて、一様に大きく手を振っていた。
 ……城門の前だけではない。歓迎のほむらの焚かれた城壁の上に、物見櫓の上に、そして城の窓という窓にも、臣たちの待ちわびた顔がある!

(私をそのように篤く迎えてくれるのか、魔族たちよ。長らく城を空けてお前達を危機に陥らせてしまったこの私を……)

 領主としては欠格の己である。どんな顔をして皆の前に立てばよい? ……騎行する間じゅうずっとそればかりが気がかりであったのに、出迎えの臣たちの朗らかな顔に、忽ちそんなものは杞憂だと気づかされるのだった。
 ナシェルは感謝の念を微笑に込め、手を少し挙げて彼らに応えた。
 ――歓声があがる。

 幻嶺に降下を促す。主の意を汲んだ馬は翼を水平に傾け、宙のきざはしを駆けてゆっくりと彼の城に、降下してゆく。







 黒き神馬の背から地表に降り立った主君を、城門前にいた騎士や兵らがわっと取り囲む。

 殿下!
 お帰りなさいませ殿下、遅かったではないですか!

 もみくちゃにされながらナシェルは改めて己の世界へ還ってきたことを実感し、またこれら臣たちを含めたこの城のすべてが、まこと己の“家”と呼べるものであったと、改めて痛感するのだった。
 殿下! と半泣き顔で抱きついてきた若い近衛騎士イスマイルをぐっと懐に抱きよせて、ナシェルは臣らを見渡す。

「ようやく我が家に還ってきたよ。長らく留守にしていた間に、そなたらに大変な危機に陥らせ、心細い想いをさせたこと……、本当に申し訳なく思っている」

 玲瓏な声が臣らの耳を打ち、漣を打つように辺りはしん……と静まり返る。

「私は留守にしている間、ゆえあって地上界、そしてその先の天上界を訪ねて参ったが、思い返してもこの暗黒界以上に私の心を安んじてくれる地はない……。ここにはそなたたちという、大切な家族がいるから。
 もし私を許してくれるのであれば、私は自らを戒め、喪った兵を悼みつつもう一度、そなたらと共にこの地で働きたい。
 こんな私でも、また領主としてそなたらと共に暮らすこと……許してもらえるだろうか?」

 冴え冴えとした美貌に、哀切を滲ませて王子は語る。
 その頭上には夥しい数の死の精たちが侍り、幾匹かは主の肩に居を得て、その心を癒すように彼の頬にひたと寄り添うのであった。精霊たちの接吻を頬に感じながら、ナシェルは煙る群青の双眸を閉ざした。

 王子の貌に翳が落ちるのを臣たちがおろおろと見守る中、人並みをかきわけるように進み出たのはアシュレイドだ。
 その表情は厳しい。

「許すも何も、殿下」

 領主が不在の間、八面六臂の働きでこの暗黒界を守り通した将軍は、いくらか湿り気のある声であるじに呼び掛けた。周囲の温度がさっと冷めたようになる。

「御父上からこの世界の統治を託された時より、貴方様には永劫この世界を統べる義務が生じているのです。許す許さぬの問題ではございませぬ。
 貴方様がいくら統治に飽いてもこの世界からお逃れになるすべはないのと同様、皆のなかにも、貴方様のお導きに従う以外の選択肢は、もとよりありはしませぬ」
「アシュレイド……」

 辛辣な口調で主を叱ったアシュレイドは、しかし次の瞬間さっと片足を退げ、拝跪した。
「なにを茫然としておられるのです。
 貴方様をおいて、他の誰が冥界の入口たるこの要衝を統治できますか?
 私がいいたいのはまあ、そういうことです」

 そう言うとアシュレイドはしかつめらしい顔をようやくほころばせ、主の帰還を寿いだ。
「ともかくも、無事のお帰り、なによりでございます。殿下」

 アシュレイドの破顔に、周囲の者もようやくほっとした表情を浮かべて再び騒ぎ出す。
「……アシュレイド、留守中、世話をかけたな。皆も……本当にありがとう」
「ところで殿下。お帰り早々に恐縮ではございますが、こちらの書類に御署名と、砦の図面に至急目を通していただきたく」

 アシュレイドのふところからは、わらわらと書類の束が出てくる。御託はいいからさっさと仕事しろ、ということらしい。閣下らしいや、と黒翼騎士らが笑いをさざめかせる中、ナシェルは突きだされた羽筆を気まずい表情で受け取るのだった。




 臣下たちに囲まれたまま二、三の書類にやむなく署名していると、お前らどいたどいた、という声がして乳兄弟のヴァニオンが人並みを縫って現れた。松葉杖をついている。

「ち、歩きにくくてかなわねえ。お陰で微妙に間に合わなかった……」
「ヴァニオン! お前、生きてたのか? しぶとい奴」
「そりゃこっちの台詞だぜ! ……まったく心配させやがって」

 冗談を言い合いながらも抱き合い、再会を祝した。
 ナシェルはヴァニオンの肩に鼻をうずめ、乳兄弟の懐かしい男臭さを胸いっぱいに嗅いだ。背に廻された腕の力強さに、親友が心底から己を案じていたのだと、つくづく思い知らされる。
 目頭が熱くなるのをこらえながら、男の背に廻した指に万感の想いを込める。

 心配かけたな。お前が無事で本当に良かった……。

 ヴァニオンもまたナシェルの髪に埋めた指に力を込めた。






 ……やがて体を離したヴァニオンは、ナシェルの黒髪の間にのぞく白い頬を両手で挟み、至近に顔を覗き込んできた。
 皆には聞こえないよう、声を潜める。

「死にかけてるって聞いてたんだぜ。どんなシケた面して帰って来るかと思いきや……」
「?」
「なんだよ、この血色の良さはよ……。さぞかし快適な療養生活だったご様子だな」

 暗に冥王との蜜月を揶揄され、ナシェルは僅かに耳を赤くする。

「……まあ、否定は、しない……」
「あ、そう……。陛下と、無事に丸く収まったかなとは思ってたけど……」

 呆れるヴァニオンに視線を向けることができず、恥じらって目を泳がせたナシェルは、彼の後ろにサリエルが立っているのに不意に気づき、慌ててヴァニオンの腕の中から逃れた。

「サリエル!? ……なぜそなたが暗黒界ここに!?」
「えぇっと……どこからお話すればいいんでしょう……」

 苦笑いしつつ頬を掻くサリエルの周囲では、アシュレイドが兵士や騎士らを追い散らしている。
「さっさと持ち場に戻れ、悠長にしている暇はないぞ!」

 蜘蛛の子を散らすように一同が退散すると、残ったのはその4名だけとなった。


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