泉界のアリア

佐宗

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第四部 至高の奥園

52愛しき筆跡②

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「殿下もです。執務室はあちらの階段を上がられて、右ですぞ、右」
「そんなこと、言われなくとも分かっている」
(まったく帰っきて早々、人(神)使いが荒いにもほどが……)
「は? 何かおっしゃいましたか? 殿下」
「いや何も言っておらぬ」

 羽筆を廻しつつ城内へ足を向けたナシェルに、ヴァニオンとサリエルがついてくる。

「ナシェル。お前、サリエルが天上界から一緒について帰って来たことも知らねえでいたの?」
「いや、そのことは父上から聞いていたが、てっきり疑似天に居るものとばかり……」

 ナシェルは歩きざま振り返り、サリエルにちらと視線を向けた。

(おかしいな…。瘴気の濃い暗黒界にいるのに、サリエルの、この元気そうな様子はなんだ? ……それになんだか、やけに光の神司を強く感じる。天上界に帰ったことで神司が戻ったのか?)

「じ、実はこの癒しの首飾りのおかげで……」
 サリエルはもう瘴気の病の心配はないのだと、かいつまんで説明した。

「なにぃ……?」
 説明を聞いていたナシェルが、階段の途中でいきなり眉間に皺を寄せて立ち止まったので、松葉杖のヴァニオンが転げ落ちそうになる。

「うわ! いきなり止まんなよ。どうしたんだよ、難しい顔して」
「サリエル、そなたその首飾りを、ルゥから贈られたと言ったか」
「はい、そうなのです。これをかけていれば闇の瘴気に冒されることもないだろうということで……。私が暗黒界に居られるのも、すべてこれのおかげ……」
「それはもう分かった。姫から、何か他にはないか」
「ほか、とおっしゃいますと……」

 サリエルは困惑顔だ。ピンと来たらしいヴァニオンが、サリエルを小突く。

「姫さんからナシェル宛てにも、なんか縁のある品物を預かってねーのか、ってことだよ」
「はあ…申し訳ありません。何せ慌ただしいお別れでしたので……。
 あ、でも姫さまは別れ際、殿下おにいさまによろしく、とおっしゃっておられましたよ」
「……それだけ……?……」

 ぽそりと呟くと、ナシェルは明らかに傷ついた様子で精霊たちを何匹か引き連れたまま、幽鬼のように執務室の中に消えた。

「…どうしましょう、ヴァニオンさま。殿下のご機嫌をさっそく損ねてしまいました、私…」
「気にするな、といいたい所だが……。その首飾り、取られないように気をつけとけ」
「取られるって。まさか殿下はそんなことなさらないですよ……」
「あのヤバい目見ただろ。あいつ変な所で陛下に似て、ちょっと強引なところあるからな。サリエル、ほとぼりが冷めるまでしばらく疑似天に引っ込んだほうがいいかも知れない」
「ええっ、そんな大げさな……。だいいち、光属性の首飾りなんか殿下が持ってても意味ないですよ」

 二人が階段の踊り場の窓下でひそひそ真剣に話し込んでいると、一旦消えたアシュレイドが従卒を連れ、大荷物を抱えてふうふう言いながら階段を上ってきた。書類の束で、従卒ともども頭の先しか見えていない。

「ヴァニオン卿は、殿下の執務の邪魔になるから当分ここから先へは立ち入り禁止ですよ! ほら、降りた降りた」
 将軍はしっしっと言い放ち、ヴァニオンとサリエルをよけて階段を登りきり、
「殿下! 私ですが、手が塞がってるのでノック無しで失礼します!」
と苦心してドアを開け、執務室の中へ消えた。

「……はりきってやがんな」
「でも、アシュレイドさんも、すごく嬉しそうですよ。やっぱり殿下が帰っておいでになると、城の空気が全然違うんですね」

 苦笑するサリエルの胸元で、蒼玉が玲瓏とした光を放つ。
 精霊たちの歌声もいつしか止み、暗黒界は主を得て、ここに平穏の日常を取り戻した。



◇◇◇



 帰城してから数週が過ぎた。

 相変わらず城では書類と格闘し、合間を縫って傷病兵の見舞いや戦没者の慰霊、一号砦、二号砦の復旧工事の視察に出向くなど、ナシェルは領主としての執務に追われ目まぐるしい日々を送っている。

 ヴァニオンは驚異的な回復力で、足の傷もすっかり癒えたようだ。
 愛馬・炎醒の背にサリエルを乗せ、

「ちょっくら疑似天アルカシェルの様子、見てくるわ」

などと言って二人で出掛けて行ったきり、一週間ほど姿を見ていない。姫がいなくなり静かになったあの城で、つまるところ二人きりの時間を満喫しているのだろう。

 ……未熟であった少年時代からずっとナシェルの尻を追いかけ回していたはずのヴァニオンが、今はつらぬき通すに足る愛を得て、蜜蜂の如くいささかあっけなく離れていったことをナシェルは『特に何とも思っていない』……ふりをする。

「ふん、別にここに居ても邪魔なだけだし。もとから側仕えの要員にも入っておらぬのだし」

 日々の暮らしの中でふと傍にいないことに気づき、ナシェルは頬杖をついて独りごちるのだった。
(ようやく訪れた平穏なのだ。思う存分二人きりで過ごすがいいさ……)

 サリエルが自分の意志で冥界に戻って来たことを、ナシェルも心から喜んでいる。
 彼ら二人を応援する気持ちに偽りはない。いまさら二人の仲に嫉妬しているわけでもない。
 ただ正直、一抹の寂しさは拭えないでいた。




 ヴァニオンの不在だけが原因ではない。本来そばにあるべきものがない淋しさは、とりわけ愛娘ルゥへの痛切な想いにも起因するものだ。

 今頃、天上界でなにをしているだろう? 他の神々からまたイジめられたりしていないだろうか。
 どうにかして彼女に会いたい。何か連絡をとる方法はないものだろうか……。
 そんなことをつらつら考え始めると、執務も手につかなくなってくる感じがあった。



 また、ふとした折りに、冥王の言葉も脳裏をちらつく。唇を交わした後の……、あの耳元に溶かしこまれた媚薬のような、別れぎわの言葉。

『続きはまた後日』
『ではな、ナシェル。一区切りついたら冥府へも顔を見せに参れよ……』

 そうしたいのは山々だが……貴方の愛と温もりを、すぐにでも得たいのだが。
 今はまだ、その段階ではない。


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