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政略見合い
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「お嬢様、とてもお美しゅう御座いますよ」
薫子の生まれる前から櫻井家に仕えるばあやが鏡で薫子の着姿を確認しながら、ほぉっと溜息をついた。
この日の為に用意された鳥の子色を背景に深緋色の山茶花が鮮やかに描かれた加賀友禅の着物を纏った薫子は、ばあやの言葉に返すように鏡越しに微笑んでみたものの、その表情は晴れることはなかった。
ついに……当日を迎えてしまったのね……
時の経つ速さが人や感情によって速く感じたり、遅く感じたり、変わることはあっても……決して止まることなどない。生きている限り、いいえ、自分の生死に関わらず時は確実に刻まれ、どんな人にも平等にやって来るもの……
滅多に顔を合わすことのない父から部屋に呼び出されたあの日---
何か悪い事が起こりそうな予感を感じていた。
扉を軽くノックすると、中から「入りなさい」と威厳のある低い声が響いた。
その声を聞いて、私の緊張感が高まる。
「失礼致します」
銀色に鈍く光る冷んやりとしたドアノブに、少し汗ばみしっとりとした手が吸いつく。手首を捻って回し、扉を引いた。
まるで私の心のように、その扉は重く感じた。
今まで父の部屋に入ったことは、数える程しかない。それが更に、私を居心地悪くさせる要因のひとつにさせていた。
扉を開けると直ぐにちょっとした応接の為のスペースがあり、父が仕事以外で懇意にしている友人を招く時には、応接間ではなくここを使用していた。
座り心地の良い大きな革張りのソファに、ゆったりと父は腰を下ろしていた。
私が向かいのソファに座るのも待たず、父がいきなり話を切り出した。
「来月、お前には見合いをしてもらう。先方はスマートフォンの人気アプリを続々と輩出し、近年飛躍的に売上を伸ばして世界的に注目されている企業の社長の御曹司で、櫻井財閥にとっても悪くない話だ」
櫻井財閥の一族であり、そのトップとして君臨する父のたった一人の娘である私にお見合い話が持ち出されることは、もちろん心のどこかでは自覚しており、覚悟しているつもりだった。
けれど、まさかこんなに早くお見合いを切り出されるなんて……
生まれてからこの方、絶対権力を持つ父に逆らったことなどなかった。いつでも父の敷いたレールを歩き、それに従う事に疑問を抱いたことなどなかったから……
でも、これだけは……いくらお父様の言葉でも、受け入れることなど出来ない……
父を目の前にして、緊張で震える躰を抱き締めながら、からからになった喉をなんとか振り絞って声を出す。
「お父、様……私は学生の身、です。まだ…お見合いの話は、早すぎる、かと……」
声が掠れてしまい、普段ですら小さい私の声は、今にも尊大な父の圧倒的な雰囲気に呑まれて消え入りそうだった。
「何を言っておるのだ。今から婿探しをすることなど、櫻井財閥の令嬢として当然のことだ。だが、見合いをするからといって、直ぐに結婚するわけではない。先方は見合い後に婚約を交わし、大学を卒業後に婚姻を、と仰って下さった」
父は私が必死の思いで紡いだ言葉を、全く意に介さず、いとも容易く一蹴した。
そ、んな……
脳内を巡る血液がまるで沸騰したように熱くなり、わけのわからない苛立ちに胸を食いつくされ、全身が小刻みに震え出す。
「お父様、私は…」
「薫子!」
父を見据え、意を決して口を開いた私に、父がそれを上回る強く厳しい口調で私の名を呼んだ。ビクッと肩が震える。
「お前に拒む権限などないっ!わしはお前に窺いをたてるためにここへ呼んだのではない。ただ決定事項を告げるために呼んだのだ。これは、お前だけではなく、櫻井財閥の未来の繁栄がかかっておるのだ。お前は黙ってわしの言うことを聞いていればよいのだ!」
「……」
父にとって私の婚姻は、櫻井財閥が飛躍するためのものであり、私はその手段の為の道具でしかない。
怒りと悔しさと自分の意思をちゃんと伝えられない自分に対しての情けなさで涙が溢れそうになるのを必死で堪え、震える唇をきつく噛み締めた。
「心配はいらん。相手からは釣書はお前には見せないでくれ、と頼まれているが、お前と同じ年の立派な好青年だ」
父は、先程よりは少し声を和らげて話し掛けた。
今までにない反抗的な私の態度を見て、機嫌を損ねてはお見合いが台無しになるとでも思ったのかもしれない。
お見合いの相手……
写真もプロフィールも明かしたくない、とはどのような人なのだろう。何か、見せたくないような事情があるのだろうか。それに……私にだけ明かしたくない、というのが腑に落ちない。
同じ年、というのも意外だった。お見合い話を持ちかけて、大学を卒業したら結婚まで考えているとの話だったので、てっきり相当年上の相手だと思っていたのに。
たとえ、どのような人がお見合い相手であろうと、私の心が悠以外の人に傾くことなどない。そう分かっているのに、胸の奥深くから不安がどんどん溢れて、私の躰を蝕んでいく。
悠、悠、悠……お願い……助、けて……助けて、助けて助けて……タスケテ。
私、怖い……
『大学を卒業したら、俺達のことを誰も知らない遠い国で二人で暮らそう。俺は……金も、家も、名前さえ……全て捨てることに躊躇いはないんだ。
薫子が傍にいてくれることが……俺にとっての只ひとつの幸せだって知ってるから……俺と……ずっと一緒にいてくれる?』
私がお見合いすることになったと伝えた、あの日。
悠は私の手を両手で優しく包み込み、射抜かれそうな程真剣な眼差しで私を見つめ、そう言ってくれた。
それまで、大学卒業後の未来を明確に思い描くことなど、したことなかった。ましてや、自分が両親の元を離れ、見知らぬ土地で暮らすなど、想像もつかない世界だった。
けれど、悠が何もかも捨てて私と生きたいと言ってくれて、心が震える程幸せな気持ちに満たされた。悠の言葉によって勇気を与えられ、悠となら何処へでも行けるのではないかという気持ちになった。
私は、悠の言葉に涙を浮かべて頷いた。
悠と離れたくない。ずっと、ずっと一緒にいたい……
薫子の生まれる前から櫻井家に仕えるばあやが鏡で薫子の着姿を確認しながら、ほぉっと溜息をついた。
この日の為に用意された鳥の子色を背景に深緋色の山茶花が鮮やかに描かれた加賀友禅の着物を纏った薫子は、ばあやの言葉に返すように鏡越しに微笑んでみたものの、その表情は晴れることはなかった。
ついに……当日を迎えてしまったのね……
時の経つ速さが人や感情によって速く感じたり、遅く感じたり、変わることはあっても……決して止まることなどない。生きている限り、いいえ、自分の生死に関わらず時は確実に刻まれ、どんな人にも平等にやって来るもの……
滅多に顔を合わすことのない父から部屋に呼び出されたあの日---
何か悪い事が起こりそうな予感を感じていた。
扉を軽くノックすると、中から「入りなさい」と威厳のある低い声が響いた。
その声を聞いて、私の緊張感が高まる。
「失礼致します」
銀色に鈍く光る冷んやりとしたドアノブに、少し汗ばみしっとりとした手が吸いつく。手首を捻って回し、扉を引いた。
まるで私の心のように、その扉は重く感じた。
今まで父の部屋に入ったことは、数える程しかない。それが更に、私を居心地悪くさせる要因のひとつにさせていた。
扉を開けると直ぐにちょっとした応接の為のスペースがあり、父が仕事以外で懇意にしている友人を招く時には、応接間ではなくここを使用していた。
座り心地の良い大きな革張りのソファに、ゆったりと父は腰を下ろしていた。
私が向かいのソファに座るのも待たず、父がいきなり話を切り出した。
「来月、お前には見合いをしてもらう。先方はスマートフォンの人気アプリを続々と輩出し、近年飛躍的に売上を伸ばして世界的に注目されている企業の社長の御曹司で、櫻井財閥にとっても悪くない話だ」
櫻井財閥の一族であり、そのトップとして君臨する父のたった一人の娘である私にお見合い話が持ち出されることは、もちろん心のどこかでは自覚しており、覚悟しているつもりだった。
けれど、まさかこんなに早くお見合いを切り出されるなんて……
生まれてからこの方、絶対権力を持つ父に逆らったことなどなかった。いつでも父の敷いたレールを歩き、それに従う事に疑問を抱いたことなどなかったから……
でも、これだけは……いくらお父様の言葉でも、受け入れることなど出来ない……
父を目の前にして、緊張で震える躰を抱き締めながら、からからになった喉をなんとか振り絞って声を出す。
「お父、様……私は学生の身、です。まだ…お見合いの話は、早すぎる、かと……」
声が掠れてしまい、普段ですら小さい私の声は、今にも尊大な父の圧倒的な雰囲気に呑まれて消え入りそうだった。
「何を言っておるのだ。今から婿探しをすることなど、櫻井財閥の令嬢として当然のことだ。だが、見合いをするからといって、直ぐに結婚するわけではない。先方は見合い後に婚約を交わし、大学を卒業後に婚姻を、と仰って下さった」
父は私が必死の思いで紡いだ言葉を、全く意に介さず、いとも容易く一蹴した。
そ、んな……
脳内を巡る血液がまるで沸騰したように熱くなり、わけのわからない苛立ちに胸を食いつくされ、全身が小刻みに震え出す。
「お父様、私は…」
「薫子!」
父を見据え、意を決して口を開いた私に、父がそれを上回る強く厳しい口調で私の名を呼んだ。ビクッと肩が震える。
「お前に拒む権限などないっ!わしはお前に窺いをたてるためにここへ呼んだのではない。ただ決定事項を告げるために呼んだのだ。これは、お前だけではなく、櫻井財閥の未来の繁栄がかかっておるのだ。お前は黙ってわしの言うことを聞いていればよいのだ!」
「……」
父にとって私の婚姻は、櫻井財閥が飛躍するためのものであり、私はその手段の為の道具でしかない。
怒りと悔しさと自分の意思をちゃんと伝えられない自分に対しての情けなさで涙が溢れそうになるのを必死で堪え、震える唇をきつく噛み締めた。
「心配はいらん。相手からは釣書はお前には見せないでくれ、と頼まれているが、お前と同じ年の立派な好青年だ」
父は、先程よりは少し声を和らげて話し掛けた。
今までにない反抗的な私の態度を見て、機嫌を損ねてはお見合いが台無しになるとでも思ったのかもしれない。
お見合いの相手……
写真もプロフィールも明かしたくない、とはどのような人なのだろう。何か、見せたくないような事情があるのだろうか。それに……私にだけ明かしたくない、というのが腑に落ちない。
同じ年、というのも意外だった。お見合い話を持ちかけて、大学を卒業したら結婚まで考えているとの話だったので、てっきり相当年上の相手だと思っていたのに。
たとえ、どのような人がお見合い相手であろうと、私の心が悠以外の人に傾くことなどない。そう分かっているのに、胸の奥深くから不安がどんどん溢れて、私の躰を蝕んでいく。
悠、悠、悠……お願い……助、けて……助けて、助けて助けて……タスケテ。
私、怖い……
『大学を卒業したら、俺達のことを誰も知らない遠い国で二人で暮らそう。俺は……金も、家も、名前さえ……全て捨てることに躊躇いはないんだ。
薫子が傍にいてくれることが……俺にとっての只ひとつの幸せだって知ってるから……俺と……ずっと一緒にいてくれる?』
私がお見合いすることになったと伝えた、あの日。
悠は私の手を両手で優しく包み込み、射抜かれそうな程真剣な眼差しで私を見つめ、そう言ってくれた。
それまで、大学卒業後の未来を明確に思い描くことなど、したことなかった。ましてや、自分が両親の元を離れ、見知らぬ土地で暮らすなど、想像もつかない世界だった。
けれど、悠が何もかも捨てて私と生きたいと言ってくれて、心が震える程幸せな気持ちに満たされた。悠の言葉によって勇気を与えられ、悠となら何処へでも行けるのではないかという気持ちになった。
私は、悠の言葉に涙を浮かべて頷いた。
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