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69.ザルツブルク音楽祭
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ホールを出ると、ステファンとラインハルトをロビーで見送った。
「すぐに戻りますので……」
「大丈夫ですよ」
サラは不安を押し隠し、笑顔を見せた。
ステファンは一度後ろを振り返り、サラを見つめて手を挙げ、それからラインハルトと共に楽屋へと向かう。一緒にいたベンジーが、サラに声を掛けた。
「僕も一緒に待ってるよ。その方が退屈しないでしょ?」
「ありがとう、ベンジー」
すると、ラファエルもにこりと微笑んだ。
「そうねぇ、あたしもここで待とうかしら。だって、ステファン、明日には英国に発っちゃうんでしょ。もっと一緒にいたいし」
それを聞いて、帰りかけていたノアの足が止まる。
「ステファンと話すのは僕だ! ステファンにここに残るように説得しないといけないし!」
え。じゃあ、このメンバーでステファンが戻ってくるまで過ごさなくちゃいけませんの!?
ひとりで待っているよりも、居心地悪い思いだった。
ベンチに座ったまま俯いていると、上から冷たい視線が突き刺さるのを嫌でも感じる。
……ノアだ。
「ねぇ、あんたさぁ。ステファンに言ってよ、ウィーンに残るように」
もう、誰も彼も、みんなその話ばかり……
サラは心の中でうんざりしながら、ノアを見上げた。その先には、サラが予想していたあの威圧的な視線ではなく、寂しく、縋るような眼差しがあった。
サラはアクアマリンの奥に潜む孤独を映したその暗い陰りに、息を呑んだ。
「僕……ステファンがいなきゃ、ダメなんだ。ステファンがいなきゃ、ここにいる意味なんてない。
ステファンがいたから、ウィーンに来ようと思った。ステファンのお陰で、ピアノが心から楽しいと思えるようになったんだ。
ねぇ。ステファンを、ステファンを……ここに、戻してよ……」
ノアは悲痛な程に眉を寄せ、必死に涙を堪えてサラに訴えた。その瞳の奥に潜むステファンへの強い想いに、サラは激しく動揺しつつも、努めて冷静さを保った。
「そ、んなこと、私に、言われましても……ステファンは、自分の意思で英国にいると決めたんです」
「嘘だ!!
ここにいる時のステファンは、輝いていた。そしてまた、ここに戻ってきて、みんなと演奏ができて、本当に嬉しそうだった。
ステファンはここにいるべき人間なんだ! 僕、だけじゃない……みんな、ステファンが必要なんだ!」
サラは唇をきつく引き結び、すぐにでも反論したい気持ちを抑えた。
そ、んな訳ない……だって、ステファンは言ってくれました。私といる時間が何より大切だって。
ピアニストである前に、私の恋人なのだと。
こんな時、ベンジーならフォローしてくれるはず……そんな願いを託して、サラは助けを乞うように彼を見つめた。
だが、ベンジーの口から出たのはサラの思いとは裏腹の言葉だった。
「まぁ、確かにね。ステファンが帰国してからさぁ、なんか気が抜けちゃった感じはあったよね。またステファンが戻ってきて、一緒にピアノ弾いてるとワクワクしてさぁ、もっともっとって高みに行きたい気持ちが昂るし。
なんとかこっちに戻ってきてくんないかなぁ」
「そうねぇ。でも、ステファンの気持ちっていうよりは、誰かに翻弄されてる感じがしないではないけどぉ」
ラファエルは意味深に笑みを浮かべた。
サラの耳元に唇を近づけ、皆に聞こえない程の小声で囁いた。
「ねぇ、知ってる? ステファンがここにいる間に一時帰国した後、普段取り乱すことのない彼が、かなり落ち込んでたの。それって、何が原因だったのかしらねぇ」
サラは、それはステファンが以前に起こした女性とのスキャンダルが原因だとすぐに悟った。サラが彼の楽屋を訪れ、そこにいた女性を恋人だと紹介された1週間後、タブロイド誌に女性とのスキャンダルが載ったのだった。
ラインハルトも、ステファンが一時帰国してから一時期様子がおかしかったと話していましたわ……
ラファエルが、今度は皆に発表するように得意げに顔をあげた。
「みんな知らないみたいだけど、ステファンはまた戻ってくるわよ。
ザルツブルク音楽祭に呼ばれてるって、ラインハルトが話してたから」
え......
サラの瞳孔が見開いた。
そ、んな……聞いて、いませんわ……
ザルツブルク音楽祭といえば、今日ニューイヤーコンサートをした楽団を始め、世界のトップオーケストラ、歌劇団、指揮者、ソリストが集い、世界でもっとも高級かつ注目を浴びており、規模でも世界最大の音楽祭の一つであると言われている。5週間に渡って開催されるこのイベントを目当てに、ヨーロッパや遠い世界の国々から政界、経済界の著名人が訪れる。
「えっ、またあのじいさん、俺たちに何も言わないんだからっ!! ザルツブルク音楽祭って、終わり次第すぐに来年の演奏者を決める筈だから、半年前にはもう分かってた筈だよね?」
ベンジャミンの言葉にサラの心が大きく揺れる。
そんなに、前から......
で、でも住むわけじゃないし、音楽祭に行って、帰るだけですよね。5週間って言っても、コンサートを5週間ずっとやるわけじゃないでしょうし。
けれど、ラファエルから語られたのは、サラが最も恐れていた言葉だった。
「ステファンはピアノのソリスト(独奏者)としてだけでなく、以前所属していたオケのピアノ奏者としても出演するって言ってたから、暫くウィーンに滞在することになると思うわよ」
ベンジャミンはそれを聞き指をパチンと鳴らし、ノアはほぉ……と安堵したように大きく息をついた。
サラは頭が真っ白になり、指先から、足先から震えが込み上げてきた。
そ、んな……ステファンは、ずっと傍にいてくれるって言ってました。英国に、私の傍に。
ウィーンに戻るわけありません。私の傍から離れるわけ、ない……
早く、ステファンの口から聞かせて欲しい……
安心させて欲しい。
ステファンがラインハルトと共に戻ってきたのは、その直後だった。
「すぐに戻りますので……」
「大丈夫ですよ」
サラは不安を押し隠し、笑顔を見せた。
ステファンは一度後ろを振り返り、サラを見つめて手を挙げ、それからラインハルトと共に楽屋へと向かう。一緒にいたベンジーが、サラに声を掛けた。
「僕も一緒に待ってるよ。その方が退屈しないでしょ?」
「ありがとう、ベンジー」
すると、ラファエルもにこりと微笑んだ。
「そうねぇ、あたしもここで待とうかしら。だって、ステファン、明日には英国に発っちゃうんでしょ。もっと一緒にいたいし」
それを聞いて、帰りかけていたノアの足が止まる。
「ステファンと話すのは僕だ! ステファンにここに残るように説得しないといけないし!」
え。じゃあ、このメンバーでステファンが戻ってくるまで過ごさなくちゃいけませんの!?
ひとりで待っているよりも、居心地悪い思いだった。
ベンチに座ったまま俯いていると、上から冷たい視線が突き刺さるのを嫌でも感じる。
……ノアだ。
「ねぇ、あんたさぁ。ステファンに言ってよ、ウィーンに残るように」
もう、誰も彼も、みんなその話ばかり……
サラは心の中でうんざりしながら、ノアを見上げた。その先には、サラが予想していたあの威圧的な視線ではなく、寂しく、縋るような眼差しがあった。
サラはアクアマリンの奥に潜む孤独を映したその暗い陰りに、息を呑んだ。
「僕……ステファンがいなきゃ、ダメなんだ。ステファンがいなきゃ、ここにいる意味なんてない。
ステファンがいたから、ウィーンに来ようと思った。ステファンのお陰で、ピアノが心から楽しいと思えるようになったんだ。
ねぇ。ステファンを、ステファンを……ここに、戻してよ……」
ノアは悲痛な程に眉を寄せ、必死に涙を堪えてサラに訴えた。その瞳の奥に潜むステファンへの強い想いに、サラは激しく動揺しつつも、努めて冷静さを保った。
「そ、んなこと、私に、言われましても……ステファンは、自分の意思で英国にいると決めたんです」
「嘘だ!!
ここにいる時のステファンは、輝いていた。そしてまた、ここに戻ってきて、みんなと演奏ができて、本当に嬉しそうだった。
ステファンはここにいるべき人間なんだ! 僕、だけじゃない……みんな、ステファンが必要なんだ!」
サラは唇をきつく引き結び、すぐにでも反論したい気持ちを抑えた。
そ、んな訳ない……だって、ステファンは言ってくれました。私といる時間が何より大切だって。
ピアニストである前に、私の恋人なのだと。
こんな時、ベンジーならフォローしてくれるはず……そんな願いを託して、サラは助けを乞うように彼を見つめた。
だが、ベンジーの口から出たのはサラの思いとは裏腹の言葉だった。
「まぁ、確かにね。ステファンが帰国してからさぁ、なんか気が抜けちゃった感じはあったよね。またステファンが戻ってきて、一緒にピアノ弾いてるとワクワクしてさぁ、もっともっとって高みに行きたい気持ちが昂るし。
なんとかこっちに戻ってきてくんないかなぁ」
「そうねぇ。でも、ステファンの気持ちっていうよりは、誰かに翻弄されてる感じがしないではないけどぉ」
ラファエルは意味深に笑みを浮かべた。
サラの耳元に唇を近づけ、皆に聞こえない程の小声で囁いた。
「ねぇ、知ってる? ステファンがここにいる間に一時帰国した後、普段取り乱すことのない彼が、かなり落ち込んでたの。それって、何が原因だったのかしらねぇ」
サラは、それはステファンが以前に起こした女性とのスキャンダルが原因だとすぐに悟った。サラが彼の楽屋を訪れ、そこにいた女性を恋人だと紹介された1週間後、タブロイド誌に女性とのスキャンダルが載ったのだった。
ラインハルトも、ステファンが一時帰国してから一時期様子がおかしかったと話していましたわ……
ラファエルが、今度は皆に発表するように得意げに顔をあげた。
「みんな知らないみたいだけど、ステファンはまた戻ってくるわよ。
ザルツブルク音楽祭に呼ばれてるって、ラインハルトが話してたから」
え......
サラの瞳孔が見開いた。
そ、んな……聞いて、いませんわ……
ザルツブルク音楽祭といえば、今日ニューイヤーコンサートをした楽団を始め、世界のトップオーケストラ、歌劇団、指揮者、ソリストが集い、世界でもっとも高級かつ注目を浴びており、規模でも世界最大の音楽祭の一つであると言われている。5週間に渡って開催されるこのイベントを目当てに、ヨーロッパや遠い世界の国々から政界、経済界の著名人が訪れる。
「えっ、またあのじいさん、俺たちに何も言わないんだからっ!! ザルツブルク音楽祭って、終わり次第すぐに来年の演奏者を決める筈だから、半年前にはもう分かってた筈だよね?」
ベンジャミンの言葉にサラの心が大きく揺れる。
そんなに、前から......
で、でも住むわけじゃないし、音楽祭に行って、帰るだけですよね。5週間って言っても、コンサートを5週間ずっとやるわけじゃないでしょうし。
けれど、ラファエルから語られたのは、サラが最も恐れていた言葉だった。
「ステファンはピアノのソリスト(独奏者)としてだけでなく、以前所属していたオケのピアノ奏者としても出演するって言ってたから、暫くウィーンに滞在することになると思うわよ」
ベンジャミンはそれを聞き指をパチンと鳴らし、ノアはほぉ……と安堵したように大きく息をついた。
サラは頭が真っ白になり、指先から、足先から震えが込み上げてきた。
そ、んな……ステファンは、ずっと傍にいてくれるって言ってました。英国に、私の傍に。
ウィーンに戻るわけありません。私の傍から離れるわけ、ない……
早く、ステファンの口から聞かせて欲しい……
安心させて欲しい。
ステファンがラインハルトと共に戻ってきたのは、その直後だった。
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