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初めてを捧げた人 ー美姫過去編ー

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 重い足取りで玄関の扉を開けた私は、そこに見覚えのある革靴を見た。

 秀一さんだ!!!

 スリッパを履くのも煩わしく、靴を脱ぐと廊下をそのままパタパタと走り、リビングへと続く扉を勢いよく開ける。

 早く、会いたい…!!!

「秀一さんっ!!!」

 珍しくお父様とお母様がいたけれど、久しぶりに会う両親すら視界に入らず、ちょうどソファから立ち上がった秀一さんの元へと駆け寄る。

 が、秀一さんに抱きつこうとするとその前に両肩を手で掴まれ、制されてしまった。

 え……

 今までは、拒否されることなんてなかったのに…

「美姫、お久しぶりですね」

 優雅な笑みを浮かべる秀一さんとは対照的に、私は泣きそうな顔を浮かべていた。

 後ろから、お母様の声が響く。

「あらあら美姫、スリッパも履かずに駆け出してきたなんて。よほど秀一さんに会いたかったんですね」

 ソファに座っていたお父様がそれを聞いて、苦笑いする。

「美姫、私たちも帰ってきているんだぞ。秀一だけでなく、私たちにもその可愛い顔を見せておくれ」
「ふふっ、美姫がお父様よりも先に秀一さんの方に行ってしまったから、お父様が拗ねてらっしゃるわよ」

 そうだ、お父様とお母様と会うのも久しぶりだっていうのに……

 お母様の言葉に、少しだけ冷静さを取り戻した。

「お父様、お母様......お帰りなさいませ」

 秀一さんが、私の両肩から手を外す。

「ちょうどよかった......美姫に、話したいことがあったんですよ」
「え......」

 話したい、こと?

 促されてソファに座ると、お母様がフルーツタルトにアールグレイティーを添えて皆に配り、私の隣に座った。

 アールグレイティーからはベルガモットの香りが湯気と共に立ち上り、銀座にある老舗洋菓子店の5月限定販売グレープフルーツとアールグレイババロアのフルーツタルトが、まるで宝石のように煌めいていた。

 いつもならすぐに手を付けるけれど、それには見向きもせず、秀一さんの動向を固唾を呑んで見守る。向かいに座った秀一さんは、少し前屈みの姿勢で両手を組んで膝の上に乗せている。

 な、にか......真剣な様子。

 嫌な予感がして、逃げ出したくなる気持ちが湧いてきた。

 秀一さんが大きく息を吸い込む。

「美姫……」

 い、や......聞きたく、ない。

 心は拒絶するけれど、躰は固まって動く事が出来ない。

「……明日から二年間、ピアノの巨匠であるモルテッソーニに師事することになりました」
「モ、ルテッソーニ……」

 モルテッソーニと言えば、ピアニストでなくてもその名前が知られているほど有名で、彼の指から紡ぎ出される音楽は『神の調べ』とも評されるほどの人物だ。今年、引退宣言をしたことが世界中でニュースとなり、多くのモルテッソーニファンが彼の引退を嘆いた。

 あの、モルテッソーニが......秀一さんにピアノを教える。

 それは、ピアニストにとっては夢のような、願ってもないチャンスだ。私が止められるはずない。

 でも、私の口からは自然と言葉が突いて出た。

「行か、ないで......」

 ひとりに、しないで……

 私の縋るような表情に、秀一さんの美しいライトグレーの瞳に困惑の色が浮かぶ。

「美姫……」

 お父様が、宥めるように私を優しく見つめた。

「美姫、これは秀一にとってまたとない絶好のチャンスなんだ。望んでも得られないような夢のような話なんだよ」

 分かってる.....分かってる、分かってる!!!

 秀一さんがモルテッソーニに憧れ、彼の公演を聴くためにわざわざ海外まで追い掛けて行っているのも知っている。

 それ、でも……引き止めずには、いられない。

「モルテッソーニの元で泊まり込みで師事することになりますが、こちらでの活動もありますので、時々は帰ってくることになりますよ」

 慰めともつかない言葉を秀一さんがかけるが、その場凌ぎの言葉だと分かっていた。

 今でさえも仕事で多忙を極めている秀一さんがこっちに戻ってきたとしても、きっと仕事の依頼に謀殺されて、私と会う時間なんて作ってもらえない……

 お母様が私の肩を抱く。

「美姫......寂しいのは分かりますが、秀一さんのこれからのためにも応援してあげましょう?」

 お父様、お母様、そして秀一さんからの無言のプレッシャーを前に、「はい……」と、頷くしか、なかった。


 荷物の整理があるからと、秀一さんは話を終えてすぐに家を出ることになった。玄関先で見送る私の頭に、秀一さんが優しく手を置く。

「時々は顔を見せに帰ってきますから......そんな顔をしないで下さい」

 無理、だよ……

 無理やり笑顔をつくることもできず、ただ俯く。

「本当に、美姫は秀一に懐いてるな」
「幼い頃からずっと秀一さんが面倒見て下さったんですもの、寂しいのは当たり前ですわ。秀一さん、お気をつけて。これからのご活躍、期待していますわね」

 お母様が、秀一さんに柔らかく微笑んだ。

「姉様、ありがとうございます」
「秀一、もし何かあればすぐにでも連絡しなさい」

 年の離れた弟を心配するお父様に、秀一さんが微笑んだ。

「フフッ......兄様、私はもう立派な大人ですよ。でも、そのお気遣いだけ受け取っておきます」

 その場が和やかな雰囲気に包まれるものの、私だけは辛くて俯いたままだった。

「美姫……」

 秀一さんが私の頬に一瞬指で触れて、離れていく。

「では、行って参ります」

 無情にも扉は閉められた。

ーー私は......秀一さんの世界から閉め出されてしまった。


 せっかく久しぶりに両親に会えたというのに、そんな気遣いすら出来ず、フラフラと自分の部屋へと向かうと扉を閉めた。

 重い足取りでベッドへと歩み寄り、その躰を投げ出す。枕元にあったテディベアを引き寄せ、胸に抱き締めた。

 明日、にはもう……秀一さんはいないんだ。

 寂しくて、寂しくて......心が張り裂けそうだった。

 秀一さんが、好き……秀一さんと......ずっと一緒に、いたいのに。
 叔父と姪の関係でもいい。ただ、秀一さんの傍にいたい。傍に、いさせて……

 それさえも、叶わないの......?

 上着のポケットに入っていたスマホを取り出し薫子に電話しかけ、LINEが入っていたことに気付いた。

 それは、薫子からのメッセージだった。

『美姫、体調は大丈夫!? 結局あの後悠と二人でご飯食べて、お台場神社に行った後で3階に水族館があるって聞いて行ってみたんだけど、水槽が2つあっただけでがっかり......今度は本物の水族館にみんなで行こうね♪』

 青い水槽で泳ぐ魚を一心に見つめている悠の画像が添えられていた。

 薫子からの無邪気なメールに、湧き上がる感情と共に思わずスマホを壁に投げつけた。

 薫子に私の気持ちなんか、分かるわけない。幸せな、薫子には……

 心にどんどん暗雲が押し寄せて、ドロドロとドス黒い感情に支配されるのが嫌で仕方ない。

 私って......こんな、人間だったの......?
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