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38. 魔法使いの妻 後編
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「そういえば昔、母が父のことをシンデレラの魔法使いに例えていました。それで、魔法使いの妻でしょうか?」
「あーそうそう、透吾君の奥さんが彼のことを魔法使いだと言ったのが始まりだった。それで現場のみんなが、いやいや魔法使いは奥さんの方だよって突っ込んだんだよ」
「母の方が魔法使いですか???」
「そうだよ。私達の時代は二十四時間働けますかっていう言葉をまだ引きずってる時代だったけど、それでも透吾君の働き方は誰も真似できなかった。あんなサイボーグみたいに働けるのは、最強の回復魔法を持ってる奥さんがいないと無理だってなって、透吾君自身も奥さんは白魔導士だとか半分冗談で受け答えてたんだよ。そこから、白高下透吾には魔法使いの妻がいるって言われてたんだ」
母が父の仕事関係の人に認知されてたこともびっくりなのに、そんなふうに呼ばれていたことには尚更言葉が出なかった。
「芸能界は不規則な仕事だし、どうしても家庭が壊れやすいんだ。透吾君の働き方で家庭が円満なんて奇跡だったし、彼自身も家族の存在が仕事の活力になっていたのは、間違いなくあの奥さんのおかげだったはず。
透吾君が頑張るほど、伊勢櫂さんも輝けた。伊勢櫂さんがここまで売れるには、白高下透吾だけでなく、あの奥さんもいなければ無理だっただろう」
「母は……ただ家で父を待っていただけです」
「そうだろうか? 誰かが帰りを待っていてくれる家は最高だよ。ねぎらいの言葉、励ましの言葉、愚痴を聞いてくれて、温かな食卓があり、心と体調を整えて送り出す。一見平凡で簡単そうだけど、誰でも出来る事じゃないし、家族にとってとても重要な役目だ。君のお母さんはこの業界で言うなら敏腕マネージャーだよ」
「あ、ありがとうございます」
「君がさっき伊勢瀬楽にしていた姿もすごく良かった。伝説のマネージャー夫婦の娘だ。才能に溢れているんだろう。それで、もし良かったら、私の事務所で働かないか?」
「いえ私はまだ高校二年生ですし、今年は受験に向かう年なので、働くとかは出来ないです」
「もちろん、すぐにじゃなくていい。時間がある時でいいからインターンとして今のうちから事務所に顔を出して、学校を卒業してから正式に入社してもらえたらいい」
頭の中では、ダイニングでぱらぱらと捲った大学受験の総合ガイドがいまだに捲られていた。
堂島さんに以前言われた、大学で何を学びたいか、やりたい仕事といった言葉が、今更響いて迷いが出ていたのだ。
「あの……高校卒業後じゃなく、大学出てからだと遅すぎますよね?」
「いいじゃないか。インターンで現場を覚え、大学で知識もつけてきてくれれば、新卒で即戦力になれる」
コンチェルトは音楽系の事務所……。
アーティストを支えるマネージメント……。
大学で学んでおくべきことは何だろう。
家に帰ったら役立ちそうな学部を洗い直さないと。
私の頬と胸が熱くなっていくのを押さえられなかった。
「返事は後日でいいよ。そこに連絡先があるから――」
「ぜひ、御社でインターン生として勉強させてくださいっ! 大学は将来マネージャーとして役立ちそうな学部を選択したいと思います。父の背中と、母の献身的は姿を見て育った私は、必ずや御社のお役に立てると思います!」
私の返事にコンチェルトの事務所社長はぱっと華やぐように満面の笑顔を見せたが、セラが血相を変えて私の腕を掴んできた。
「ままま待って。僕は?」
「関係性からいって、私達が同じ事務所で働くのは良くないと思う」
「いや、僕の帰りを待ってくれないの? 僕の妻でしょ?」
「もちろんだよ。ちゃんとこの世界でも正式な夫婦になって、同じ家に帰りたい。でも家で待つだけより、セラと一緒に切磋琢磨したい。セラにはすでに磯部さんっていうパートナーがいるし、仮に私がIGAMに入社出来たとしても、恋人がマネージャーとか良くないと思うんだよね。だから、私は別の事務所で頑張る」
「恋人じゃなくて奥さんだよ」
私達の会話にコンチェルト社長が驚いた。
「え? なに、デビューしたてなのに、伊勢瀬楽って婚約してるの?」
「はい。透子は僕の妻です」
「あ、ごめんなさい。セラの国の風習で妻って言っちゃいますけど、まだ婚約者です」
コンチェルト社長が磯部さんに顔を向けた。
「磯部ちゃん、イケメン枠に女の影はファン獲得には前途多難じゃない?」
「いえいえ、伊勢瀬楽はアイドル枠で売ってませんので、プライベートは本人に任せています」
「さすが飛ぶ鳥を落とす勢いのIGAMは強気だねぇ~」
「違います。伊勢瀬楽の役者としての可能性を信じているんです。彼は恋人がいるとか関係なく、絶対に大きくなりますよ」
「磯部ちゃんも良いマネージャーに育ってきたなあ。
白高下さん、高待遇で迎えるから絶対うちに来てよ。インターンはすぐにでも」
「はいっ! ぜひよろしくお願いしますっ!」
――十七歳の春、間もなく十八歳の成人を迎える頃、インターンでお世話になることになった芸能事務所コンチェルトに挨拶に行けば、すでに白高下夫妻の娘と話は広がっていて、おまけに伊勢瀬楽の婚約者とも伝わっていたものだから、ベテランマネージャー陣からは母の通り名で呼ばれた。不本意だけど、社長からは期待されている証拠だと言われて受け入れてしまう。
仕方ない。母が守ってくれているとしよう。
コンチェルトの社員の間での私の通り名は、魔法使いの妻になった。
インターン初日を終えて帰路についていた時、その機会は突然訪れた。
大都会の高層ビルの合間に急に現れた、背の高い木々の森に佇む、家庭菜園のある小さなログハウス。煙突からは煙まで上がっており、ここだけ異空間なのは間違いない。つまり、ここがそうだろう。
ログハウスの木の扉をノックすると、扉は勝手に開いた。
中に入ればコーヒーの落ち着いた香りが漂い、カウンターの上でコポコポとサイフォンのフラスコの中の湯が沸いていた。サイフォンをよく見れば、竹べらがロートの中身をひとりでにくるくるとかき混ぜていた。
天井まである大きな棚には所狭しと本や薬品らしき瓶が並べられている。
吊るされたドライフラワーや、大きな花瓶に無造作に突っ込まれたような草木はインテリアなのか、それともこの薬品同様何かに使うのか?
窓際のロッキングチェアーに座り、足を組んで優雅に読書をしているフローライトさんを見つけた。
「トーコに必要な薬はそうだなあ……」
フローライトさんはこちらを見ることなく、分厚い辞典のような本を読みながら独り言を喋っている。
「ああ、これだ」
人差し指で本のページをトンと叩けば、フローライトさんは立ち上がり、コーヒーが勝手にカップに注がれたばかりのカウンターまで向かった。
そしてフローライトさんがパンッと手を叩けば、コーヒーにミルクが注がれた。
「いらっしゃい。どうぞ」
フローライトさんがカウンター越しに差し出してくれたのは、マグカップに入った温かなカフェオレ。
よくわからず、視線だけフローライトさんに向ければ、くいくいっと飲むようジェスチェーしていた。
息を吹きかけて冷ましながら一口飲むごとに、身体は温まり、安堵したような多幸感が湧き、不思議な幻聴まで聴こえてきた。
遠くに聴こえるくぐもった赤ちゃんの泣き声は、カップを飲み干すころには鮮明に近づいており、最後の一口を飲み終えた瞬間、懐かしい団地の一室に私は立っていた。
高く感じていた天井は、実はこんなに低かったのか。背の低いタンスに置かれたガラケーや、積まれた雑誌に写るモデルの眉の細さに懐かしさが溢れ出す。
畳の部屋にはベビーベッドが置かれていて、その上をくるくるとベッドメリーが回っていた。
そしてそのベッドを三人の大人が囲み、目尻を下げてベッドの赤ちゃんを見つめていた。
「俺はこの子に出会うために生まれてきたんだ」
感慨深く語ったのは、昔流行っていたタイトなスリムスーツ姿の若い頃の父だった。
「ちょっと透吾君、私と出会うためって言ってたじゃない」
言葉とは裏腹に嬉しそうな表情をした茶色い髪の女性は懐かしい母だった。最期は髪が抜け落ちてしまった母も、この頃はまだ髪の長さも鎖骨まであり、前髪は斜めに流していて、ファッションにも敏感だったのだろう。
「私も抱っこしていいかな?」
この部屋でひと際異彩を放つ男性は、何度も雑誌で見た若い頃の伊勢さん。身体の線はまだ細く、髪の色は明るく、この頃流行していたホストみたいな重めのショートヘアだった。
伊勢さんがベッドに手を伸ばし、ピンク色のベビー服を着た、まだ両手に収まるほど小さな赤ちゃんを抱き上げた。
伊勢さんは慈しむような目で赤ちゃんを見つめながら優しく胸に抱きしめた。
「初めまして、透子ちゃん。パパだよ」
「違うだろ。お前は伊勢櫂で、パパは俺だ」
「名付け親なんだから、パパだ」
「早く結婚して本当にパパになれ」
「ははは、結婚できないだろうなあ~。相手がいないから」
「作ろうとしないんだろ」
「当たり前だよ。決めてる人がいるんだもの」
「いるのか!? 結婚するのか!? ちょっとはやくないか!?」
「出来ないよ。いないから」
「何をわけのわからないことを。スキャンダルだけはやめてくれよ」
「だから透子ちゃん、僕も君のパパにしてね。透吾さんより良いパパになる自信あるよ」
「透子にはパパが二人いて幸せね~」
小さな団地の狭い一室が光に満ち溢れ、三人は眩しいくらい楽しそうに笑っていた。
父が私を伊勢さんから優しく受け取り、ゆっくりと横に揺れながら私に声を掛けた。
「透子がひとり立ちする日まで、いっぱい稼がないとな」
「運命の王子様が現れる日までね」
父を揶揄うように母が言った。それを聞いた父はムキになり、赤ちゃん相手に語気を強めていた。
「いいか透子、お前を一生愛してくれる男を選ぶんだぞ! 俺と同じくらい透子を愛して、伊勢櫂くらい働いて結果を出す男だ。それしか認めん!!」
「ハードル高くない?」
三人の笑い声が遠ざかっていけば、店の扉のドアベルが鮮明に聴こえ、気がつけばフローライトさんの店に戻っていた。
振り返れば、そこに立っていたのはセラだった。
「透子、迎えにきたよ。明日はオフだから、一緒に帰ろう」
差し出された手を掴むと、セラは私の後ろにいるであろうフローライトさんに手を振ってから、私の部屋まで転移した。
今日は伊勢さんは仕事で帰ってこない。
静まり返った家の中で、私とセラの胸の音だけが聴こえるようだった。
ちょうどセラが私の部屋に来たことだし、渡しておこうと机の引き出しから紙を取り出して渡した。
「はい。これ」
「ん? なに?」
セラはカサカサと新緑色の紙を広げた。
「コン、イン、トドケ……」
「ちゃんと読めたね」
セラの瞳に近い新緑色の婚姻届には、すでに私の名前を記入している。
「十八歳以降ならこの国は結婚できるから、セラのタイミングで出してくれたらいいから」
「たぶん……まだまだ時間が掛かると思う」
「セラのタイミングでいいよ。すぐに婚姻届を出したいんじゃなくて、これは私からセラに愛を誓う約束の紙だから」
「ありがとう。大切に保管しておく」
セラがパチンと指を鳴らすと、婚姻届は折りたたまれて姿を消した。
「あとさ、ちょっと前に屈んでくれる?」
「屈む? こう?」
背の高いセラが頭を下げるように軽く屈んでくれたので、私は口元に手をあててセラの耳元でコソコソと囁いた。
「大好きだよ」
ぐずぐずに崩れだした表情をセラは両手で必死に押さえて維持し、喜びを噛みしめていた。
面白いのでもう一回言ってみようともう一度手を口元にあてて近づくと、セラに手首をパシッと掴まれて止められた。
セラは顔を横に向けて、真剣な表情で私の目を見つめた。
「僕は一生愛し抜くよ」
セラが動く前に、私から手を伸ばして唇を重ねた。それで離れるつもりだったけど、セラに腰を掴まれ、動きを封じられた。
「先人の言っていることは正しい」
「どういうこと?」
「愛の力が一番強力で偉大だ。透子のキスは理性が飛びそうになるほど力がみなぎってくる」
「私、回復魔法使いの娘だから」
「本当だ。僕の愛しい、魔法使いの妻」
セラが私の髪を愛おしそうに撫で、その手は頬を包んで止まる。
「逃げちゃダメだよ。そっちから嗾けたんだから」
目の奥がギラリと光ったセラは、暴走寸前の荒い息をしながら、深く唇を重ねてきた。
まるで、最初のキスの時のように。
END
With heartfelt gratitude♡
「あーそうそう、透吾君の奥さんが彼のことを魔法使いだと言ったのが始まりだった。それで現場のみんなが、いやいや魔法使いは奥さんの方だよって突っ込んだんだよ」
「母の方が魔法使いですか???」
「そうだよ。私達の時代は二十四時間働けますかっていう言葉をまだ引きずってる時代だったけど、それでも透吾君の働き方は誰も真似できなかった。あんなサイボーグみたいに働けるのは、最強の回復魔法を持ってる奥さんがいないと無理だってなって、透吾君自身も奥さんは白魔導士だとか半分冗談で受け答えてたんだよ。そこから、白高下透吾には魔法使いの妻がいるって言われてたんだ」
母が父の仕事関係の人に認知されてたこともびっくりなのに、そんなふうに呼ばれていたことには尚更言葉が出なかった。
「芸能界は不規則な仕事だし、どうしても家庭が壊れやすいんだ。透吾君の働き方で家庭が円満なんて奇跡だったし、彼自身も家族の存在が仕事の活力になっていたのは、間違いなくあの奥さんのおかげだったはず。
透吾君が頑張るほど、伊勢櫂さんも輝けた。伊勢櫂さんがここまで売れるには、白高下透吾だけでなく、あの奥さんもいなければ無理だっただろう」
「母は……ただ家で父を待っていただけです」
「そうだろうか? 誰かが帰りを待っていてくれる家は最高だよ。ねぎらいの言葉、励ましの言葉、愚痴を聞いてくれて、温かな食卓があり、心と体調を整えて送り出す。一見平凡で簡単そうだけど、誰でも出来る事じゃないし、家族にとってとても重要な役目だ。君のお母さんはこの業界で言うなら敏腕マネージャーだよ」
「あ、ありがとうございます」
「君がさっき伊勢瀬楽にしていた姿もすごく良かった。伝説のマネージャー夫婦の娘だ。才能に溢れているんだろう。それで、もし良かったら、私の事務所で働かないか?」
「いえ私はまだ高校二年生ですし、今年は受験に向かう年なので、働くとかは出来ないです」
「もちろん、すぐにじゃなくていい。時間がある時でいいからインターンとして今のうちから事務所に顔を出して、学校を卒業してから正式に入社してもらえたらいい」
頭の中では、ダイニングでぱらぱらと捲った大学受験の総合ガイドがいまだに捲られていた。
堂島さんに以前言われた、大学で何を学びたいか、やりたい仕事といった言葉が、今更響いて迷いが出ていたのだ。
「あの……高校卒業後じゃなく、大学出てからだと遅すぎますよね?」
「いいじゃないか。インターンで現場を覚え、大学で知識もつけてきてくれれば、新卒で即戦力になれる」
コンチェルトは音楽系の事務所……。
アーティストを支えるマネージメント……。
大学で学んでおくべきことは何だろう。
家に帰ったら役立ちそうな学部を洗い直さないと。
私の頬と胸が熱くなっていくのを押さえられなかった。
「返事は後日でいいよ。そこに連絡先があるから――」
「ぜひ、御社でインターン生として勉強させてくださいっ! 大学は将来マネージャーとして役立ちそうな学部を選択したいと思います。父の背中と、母の献身的は姿を見て育った私は、必ずや御社のお役に立てると思います!」
私の返事にコンチェルトの事務所社長はぱっと華やぐように満面の笑顔を見せたが、セラが血相を変えて私の腕を掴んできた。
「ままま待って。僕は?」
「関係性からいって、私達が同じ事務所で働くのは良くないと思う」
「いや、僕の帰りを待ってくれないの? 僕の妻でしょ?」
「もちろんだよ。ちゃんとこの世界でも正式な夫婦になって、同じ家に帰りたい。でも家で待つだけより、セラと一緒に切磋琢磨したい。セラにはすでに磯部さんっていうパートナーがいるし、仮に私がIGAMに入社出来たとしても、恋人がマネージャーとか良くないと思うんだよね。だから、私は別の事務所で頑張る」
「恋人じゃなくて奥さんだよ」
私達の会話にコンチェルト社長が驚いた。
「え? なに、デビューしたてなのに、伊勢瀬楽って婚約してるの?」
「はい。透子は僕の妻です」
「あ、ごめんなさい。セラの国の風習で妻って言っちゃいますけど、まだ婚約者です」
コンチェルト社長が磯部さんに顔を向けた。
「磯部ちゃん、イケメン枠に女の影はファン獲得には前途多難じゃない?」
「いえいえ、伊勢瀬楽はアイドル枠で売ってませんので、プライベートは本人に任せています」
「さすが飛ぶ鳥を落とす勢いのIGAMは強気だねぇ~」
「違います。伊勢瀬楽の役者としての可能性を信じているんです。彼は恋人がいるとか関係なく、絶対に大きくなりますよ」
「磯部ちゃんも良いマネージャーに育ってきたなあ。
白高下さん、高待遇で迎えるから絶対うちに来てよ。インターンはすぐにでも」
「はいっ! ぜひよろしくお願いしますっ!」
――十七歳の春、間もなく十八歳の成人を迎える頃、インターンでお世話になることになった芸能事務所コンチェルトに挨拶に行けば、すでに白高下夫妻の娘と話は広がっていて、おまけに伊勢瀬楽の婚約者とも伝わっていたものだから、ベテランマネージャー陣からは母の通り名で呼ばれた。不本意だけど、社長からは期待されている証拠だと言われて受け入れてしまう。
仕方ない。母が守ってくれているとしよう。
コンチェルトの社員の間での私の通り名は、魔法使いの妻になった。
インターン初日を終えて帰路についていた時、その機会は突然訪れた。
大都会の高層ビルの合間に急に現れた、背の高い木々の森に佇む、家庭菜園のある小さなログハウス。煙突からは煙まで上がっており、ここだけ異空間なのは間違いない。つまり、ここがそうだろう。
ログハウスの木の扉をノックすると、扉は勝手に開いた。
中に入ればコーヒーの落ち着いた香りが漂い、カウンターの上でコポコポとサイフォンのフラスコの中の湯が沸いていた。サイフォンをよく見れば、竹べらがロートの中身をひとりでにくるくるとかき混ぜていた。
天井まである大きな棚には所狭しと本や薬品らしき瓶が並べられている。
吊るされたドライフラワーや、大きな花瓶に無造作に突っ込まれたような草木はインテリアなのか、それともこの薬品同様何かに使うのか?
窓際のロッキングチェアーに座り、足を組んで優雅に読書をしているフローライトさんを見つけた。
「トーコに必要な薬はそうだなあ……」
フローライトさんはこちらを見ることなく、分厚い辞典のような本を読みながら独り言を喋っている。
「ああ、これだ」
人差し指で本のページをトンと叩けば、フローライトさんは立ち上がり、コーヒーが勝手にカップに注がれたばかりのカウンターまで向かった。
そしてフローライトさんがパンッと手を叩けば、コーヒーにミルクが注がれた。
「いらっしゃい。どうぞ」
フローライトさんがカウンター越しに差し出してくれたのは、マグカップに入った温かなカフェオレ。
よくわからず、視線だけフローライトさんに向ければ、くいくいっと飲むようジェスチェーしていた。
息を吹きかけて冷ましながら一口飲むごとに、身体は温まり、安堵したような多幸感が湧き、不思議な幻聴まで聴こえてきた。
遠くに聴こえるくぐもった赤ちゃんの泣き声は、カップを飲み干すころには鮮明に近づいており、最後の一口を飲み終えた瞬間、懐かしい団地の一室に私は立っていた。
高く感じていた天井は、実はこんなに低かったのか。背の低いタンスに置かれたガラケーや、積まれた雑誌に写るモデルの眉の細さに懐かしさが溢れ出す。
畳の部屋にはベビーベッドが置かれていて、その上をくるくるとベッドメリーが回っていた。
そしてそのベッドを三人の大人が囲み、目尻を下げてベッドの赤ちゃんを見つめていた。
「俺はこの子に出会うために生まれてきたんだ」
感慨深く語ったのは、昔流行っていたタイトなスリムスーツ姿の若い頃の父だった。
「ちょっと透吾君、私と出会うためって言ってたじゃない」
言葉とは裏腹に嬉しそうな表情をした茶色い髪の女性は懐かしい母だった。最期は髪が抜け落ちてしまった母も、この頃はまだ髪の長さも鎖骨まであり、前髪は斜めに流していて、ファッションにも敏感だったのだろう。
「私も抱っこしていいかな?」
この部屋でひと際異彩を放つ男性は、何度も雑誌で見た若い頃の伊勢さん。身体の線はまだ細く、髪の色は明るく、この頃流行していたホストみたいな重めのショートヘアだった。
伊勢さんがベッドに手を伸ばし、ピンク色のベビー服を着た、まだ両手に収まるほど小さな赤ちゃんを抱き上げた。
伊勢さんは慈しむような目で赤ちゃんを見つめながら優しく胸に抱きしめた。
「初めまして、透子ちゃん。パパだよ」
「違うだろ。お前は伊勢櫂で、パパは俺だ」
「名付け親なんだから、パパだ」
「早く結婚して本当にパパになれ」
「ははは、結婚できないだろうなあ~。相手がいないから」
「作ろうとしないんだろ」
「当たり前だよ。決めてる人がいるんだもの」
「いるのか!? 結婚するのか!? ちょっとはやくないか!?」
「出来ないよ。いないから」
「何をわけのわからないことを。スキャンダルだけはやめてくれよ」
「だから透子ちゃん、僕も君のパパにしてね。透吾さんより良いパパになる自信あるよ」
「透子にはパパが二人いて幸せね~」
小さな団地の狭い一室が光に満ち溢れ、三人は眩しいくらい楽しそうに笑っていた。
父が私を伊勢さんから優しく受け取り、ゆっくりと横に揺れながら私に声を掛けた。
「透子がひとり立ちする日まで、いっぱい稼がないとな」
「運命の王子様が現れる日までね」
父を揶揄うように母が言った。それを聞いた父はムキになり、赤ちゃん相手に語気を強めていた。
「いいか透子、お前を一生愛してくれる男を選ぶんだぞ! 俺と同じくらい透子を愛して、伊勢櫂くらい働いて結果を出す男だ。それしか認めん!!」
「ハードル高くない?」
三人の笑い声が遠ざかっていけば、店の扉のドアベルが鮮明に聴こえ、気がつけばフローライトさんの店に戻っていた。
振り返れば、そこに立っていたのはセラだった。
「透子、迎えにきたよ。明日はオフだから、一緒に帰ろう」
差し出された手を掴むと、セラは私の後ろにいるであろうフローライトさんに手を振ってから、私の部屋まで転移した。
今日は伊勢さんは仕事で帰ってこない。
静まり返った家の中で、私とセラの胸の音だけが聴こえるようだった。
ちょうどセラが私の部屋に来たことだし、渡しておこうと机の引き出しから紙を取り出して渡した。
「はい。これ」
「ん? なに?」
セラはカサカサと新緑色の紙を広げた。
「コン、イン、トドケ……」
「ちゃんと読めたね」
セラの瞳に近い新緑色の婚姻届には、すでに私の名前を記入している。
「十八歳以降ならこの国は結婚できるから、セラのタイミングで出してくれたらいいから」
「たぶん……まだまだ時間が掛かると思う」
「セラのタイミングでいいよ。すぐに婚姻届を出したいんじゃなくて、これは私からセラに愛を誓う約束の紙だから」
「ありがとう。大切に保管しておく」
セラがパチンと指を鳴らすと、婚姻届は折りたたまれて姿を消した。
「あとさ、ちょっと前に屈んでくれる?」
「屈む? こう?」
背の高いセラが頭を下げるように軽く屈んでくれたので、私は口元に手をあててセラの耳元でコソコソと囁いた。
「大好きだよ」
ぐずぐずに崩れだした表情をセラは両手で必死に押さえて維持し、喜びを噛みしめていた。
面白いのでもう一回言ってみようともう一度手を口元にあてて近づくと、セラに手首をパシッと掴まれて止められた。
セラは顔を横に向けて、真剣な表情で私の目を見つめた。
「僕は一生愛し抜くよ」
セラが動く前に、私から手を伸ばして唇を重ねた。それで離れるつもりだったけど、セラに腰を掴まれ、動きを封じられた。
「先人の言っていることは正しい」
「どういうこと?」
「愛の力が一番強力で偉大だ。透子のキスは理性が飛びそうになるほど力がみなぎってくる」
「私、回復魔法使いの娘だから」
「本当だ。僕の愛しい、魔法使いの妻」
セラが私の髪を愛おしそうに撫で、その手は頬を包んで止まる。
「逃げちゃダメだよ。そっちから嗾けたんだから」
目の奥がギラリと光ったセラは、暴走寸前の荒い息をしながら、深く唇を重ねてきた。
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