深く刻まれた皇妃への想い

さくらぎしょう

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34.引継ぎ

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 フィガロ皇子は暗い闇の中を浮遊していた。まるで海に浮かんでいるようで、波に身を任せて行ったり来たりと心地よく揺れている。うつらうつらと眠気が現れ、ついには瞼を閉じてしまうと、急に昼下がりの太陽の下で意識が戻った。
 胸が熱く高鳴り、目の前に広がる世界が輝き、あまりの眩しさに視界がにじむ。フィガロ皇子はこの気持ちが何なのかよく知っていた。自分もこの感覚に一瞬で落とされた経験があるからだ。

「あなたが西ガレリアから派遣されてきた私の魔法指導者?」

 黒い水が湧きあがる噴水の前に立つ女性。黒曜石のような水しぶきが煌めき、彼女を更に輝かせている。
 大昔の王族が着ていた白いリネンのドレスに身を包んだ、少し若いセラフィーナがフィガロ皇子に向かってそう言った。

 違う、と声を出したつもりが、自分の意思とは関係のない言葉を喋り始め、身体も勝手に動き出す。

「はい。西ガレリア帝国の魔法使い、アンジェロ・ヴァレリアーニと申します」

 セラフィーナは必死にツンと澄ましているが、頬はうっすらと赤く染まり、隠しきれないときめきが不自然に閉じた口元に現れていた。

 恋に落ちた瞬間のアンジェロの脳や体内で起こる変化が、生々しくフィガロ皇子に伝わってくる。

 甘い電流に晒されながら、こんなものを体験させてどういうつもりなんだと、フィガロ皇子は怒りさえ湧いてきた。

 次々と現れる恋の見せつけに、セラフィーナの愛を勝ち取っていたのは今も昔もアンジェロ大帝だと思い知らされた時、フィガロ皇子の体内に今度は極度の緊張が走った。この緊張は自分ではなくアンジェロのもの。急に場面が西ガレリア帝国の第一魔法隊訓練所にあるアンジェロの執務室に変わった。

 アンジェロは指に持つ指輪を見つめていた。セラフィーナに求婚する決意をしていたのだ。
 心地良い緊張感に身体は落ち着きがなく、立ったり座ったり、立ち膝で求婚のポーズを取ったりしていると、ノックもなく扉が開けられた。

「ついに誰かを娶る気になったのか?」

 その声音だけで胸の奥にどろりとした感情が渦巻いたが、アンジェロはすぐに姿勢を正して頭を下げた。

 声の主はバルトロ。彼は随分と機嫌が良く、部屋の中を進むとアンジェロの執務椅子に腰を掛ける。

「奇遇だな。俺も東ガレリアのセラフィーナを皇妃に迎えることにしたんだ」

 あまりの奇遇さにアンジェロは動揺が隠せなかった。

「セラフィーナ王女を……? しかも側妃ではなく、皇妃ですか?」

「何をそんなに動揺している? ところでお前は誰と結婚するつもりなんだ?」

 バルトロの見透かしたような微笑に、アンジェロは心拍数が上がる。

「いえ……まだ相手はおりません」

「なるほどな……」

 沈黙の時間がアンジェロには苦痛であった。もしかしたら、セラフィーナとの関係がバレているのかもしれない。

「では明日、お前に相応しい相手の姿絵と身上書を届けさせる。明日中に候補の相手を決めるんだ」

「そんな急に言われましても」

 さきほどまで揶揄い半分だったバルトロが、急に獅子の目に変わり威嚇してきた。

「お前とセラフィーナが変な気を起こす前に、適当な女と早急に結婚するんだ。お前の力を受け継ぐ優れた魔法使いの子を作り、一人でも多く俺に捧げろ。でなければ、お前の父親だけではなく、次は母親の命がないと思え。弟や妹もどうなるか楽しみだな」

「そんな……」

「そんなことになれば、お前や家族のために死んだ父親は無駄死にってやつだ」

 アンジェロは魔法を発動しそうになる気持ちを必死に抑えた。噛み締めた唇からは血が滲む。

 アンジェロの父は、アンジェロが戦争で魔法を使うのを拒んだばかりに代理処刑された。
 そのおかげで、家族はお咎めなしとなったが、アンジェロは二度とバルトロの命令が拒めなくなった。

 バルトロはアンジェロの様子を明らかに楽しんでいた。

「お前の分までセラフィーナは可愛がってやる」

 アンジェロは思わず抑えていた魔法を発動してしまった。バルトロに向かって放たれた無数の氷の矢は、バルトロの炎の魔法で一瞬で蒸発した。

「俺はお前を高く買っている。だから俺はお前を一生手放すつもりはない。愛する家族やセラフィーナを幸せにしたいなら大人しく従え。そうすればお前もささやかな幸せくらいは手に入る」

「もし従わなければ……?」

「お前の家族と屋敷使用人は皆殺し。セラフィーナは側妃どころか娼婦まで落としてやる。魔法で全員逃がすようなことがあれば、お前の可愛い部下に手を出そう。だが、お前が俺に今度こそ忠実に従うなら、お前の家族はこれまで通りの人生を送り、セラフィーナはどの妃よりも大切にしてやろう」

 ✻

 アンジェロの腕の中には愛しくて堪らない女性がいる。自分を想い、求めて泣く可愛らしいセラフィーナ。自分が愛してしまったばかりに、彼女を苦しませてしまった。自分に残された道は、セラフィーナが皇妃となった時に、臣下として最も近い位置で彼女を守ること。

 そんなことを理解したところで、胸の痛みは消えるどころかさらに苦しくなって我が身を焼き尽くそうとする。

 眼前に広がるガレアータ山脈は美しい曲線を描き、神の領域とも呼べるその標高と雄美さに誰もが息を呑み憧れた。
 大切な人を苦しめる事しか出来ない無様な自分には、到底足を踏み入れてはいけない神聖な場所だった。越える事なんか出来ないのに、若く愚かな自分はその高さを考えようともしなかった。

「まるで……セラフィーナ、あなたのようだ」

「え?」

 みっともない表情をセラフィーナには見せられず、彼女を抱きしめる腕の力を更にきつくした。

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