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第1話
裸馬と少女 ④
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昨晩は、山南と酒を交えて久闊を叙した。
山南は夜半に馬郷から歩いて十分ほどのところにある家へ帰っていき、天道は事務所の二階の宿直室を借りた。
部屋には、布団だけでなく、冷蔵庫やシャワー室なども備えついていた。
明け方に目が醒め、天道がカーテンを開けると、事務所の前を走っていくあいの頭頂が見えた。
あいは厩舎に入っていった。
「騎手になりたいか。本気、なんだろうね」
昨晩、騎手になるにはどうしたらいいのかと尋ねてきた、あいの真剣な眼差しを思い出し、天道は寝ぐせのついた頭を掻いた。
窓を開けると、冷たい風で眠気が飛んだ。眼前には雪化粧をした南アルプスの雄壮な自然が拡がっている。
酔いが残るほどに飲みはしなかった。机に置いてあった缶コーヒーのプルトップを開け、口をつけた。
窓辺でぼんやりしていると、また一人、女子中学生が馬郷の敷地に入って来た。
「なんだ?」
近頃の女子中高生がどんなふうであるのか知る由もないが、あいと比べると垢抜けた雰囲気の中学生だ。スクールバッグには流行りものらしいキーホルダーがじゃらじゃらとついている。
「ルーズソックスって、いまでも履かれてるんだなぁ」
天道が懐かしい気分になっていると、新しくやってきた女子中学生も、厩舎へと入っていった。
「あいの友達か?」
あいとは、あまり気が合いそうなタイプには見えなかった。
天道は綿入れを羽織り、厩舎へと向かった。
昨晩山南から、あいのことを気にかけてやってくれと言われたことが、頭の片隅に残っていた。
馬郷へは、休暇を利用して来ていた。
久しぶりに三日のまとまった休暇だが、明日には御園に戻るつもりでいた。
天道は、御園トレーニングセンターで、調教助手の仕事をしている。生き物を相手にする仕事なので、休暇中と言えど、急な呼び出しがないとは言い切れなかった。
「へえ。じゃあ、いま、元騎手の人が来てるんだ」
厩舎に近づくと、中から話し声が聞こえてきた。あいと、同級生らしい女子が、話しているようだ。だが、あいの声は小さく、ほとんど聞き取れない。
「てか、騎手なんてやめときなって。前にも言ったけど、あいになれるわけないじゃん。よく知らなけど、レース中に馬から落ちて、怪我することだってあるんでしょ?」
怪我どころか、命を落とすこともある。
思っただけで、天道は口を出さなかった。中を窺うと、やはりあいと先ほどの女子が向かい合っていた。
綾は、馬房の中からじっとあいを見つめている。
「それより、もう三年生になるんだから、高校受験に備えて勉強した方がいいよ。まだ進路希望の用紙も出してないんだって? 提出期限先週までだったのに」
「なんで、朔ちゃんが」
「先生に訊かれたんだよ。あいは地元の高校進学でいいんだよなって。幼馴染だからって、私に訊かれても困るってのにさ」
あいが、なにか言う気配がしたが、あいの幼馴染であるらしい朔は、それには取り合わず、一方的に捲し立てた。
「勉強ぐらいなら心配しないでもウチが教えてあげるよ。そうだ、今日の放課後から、教室で勉強会やったげよっか」
「放課後は、」
「ここへは受験終わったらまた通えばいいじゃん。てか、騎手になろうと思ったら、地元出ないと無理っしょ。そうなったら、その馬とも一緒に居られなくなるよ」
「それは」
「ね、とりあえず、もう学校行こ。あいってば、いっつもぎりぎりになって教室飛び込んでくるんだから」
二人が厩舎を出てくる前に、天道は建物の陰に移り身を隠した。我ながら、なにをやっているのかと、馬鹿々々しくなった。
あいが朔に引っ張られるようにして学校に行ってから、ほどなくして、山南が作業着でやってきた。
「あいちゃんは中かい?」
「もう学校へ行ったよ」
「おや、珍しいな。いつもは登校時間ぎりぎりまでいるんだが」
「お前、ちょっと甘やかしすぎだぞ」
天道は山南と厩舎に入った。山南は厩舎の端から、順に飼葉桶に飼料を与えていく。
綾が馬房から顔を出したまま、つっ立っていた。綾の飼葉桶には、あいが与えたらしい飼料が残っているが、口をつける気分ではないようだ。
「お前、あいを心配しているのか?」
綾の黒い瞳は、厩舎の入口に向いている。
「ああいう手合いは、どこにでもいる。気にしても仕方ない」
十余年前、騎手引退を迫られた我が身のことが、天道の脳裡によみがえった。
デビュー時から目標にしていた凱旋門賞へ、挑戦する道が拓けてきた矢先だった。
目の病を患った。病そのものは完治したが、病によって低下した視力は回復する見込みはないと診断された。
それまで天道を天才と囃し立てていた仕事仲間や馬主、雑誌記者などは、天道の悲運を嘆いた。
「他人は、無責任なものさ。勝手にもてはやすし、勝手にこいつはもう終わったと烙印を押す。そんな声に左右されたって、碌なことはない」
病の後遺症により、騎手生命を断たれたのは確かだった。
病に犯されなければ、騎手を続けていたに違いない。
無念さは、調教の道に転向を果たした今も、冷え固まったマグマのように、天道の心の奥底に残っている。
「騎手になるか、どうか。決めるのは、彼女自身だ。埋もれるには惜しい才能だ、とは思うが」
綾は、話している天道には見向きもしない。
「聞いてる?」
鼻の甲に触れようとすると、ふいと顔を背けられた。あい以外には、気難しい性格なのかもしれない。
事務所に戻ると、机に、競馬学校のパンフレットと願書が置いてあった。山南が用意したのだろう。
「お節介なのは学生時代の頃のままか」
パンフレットを手に取った。強くなりたいと言ったあいの目は、まぎれもなく本気だった。
階段を上がり、宿直室に戻り、布団に寝転がった。パンフレットと願書は持ってきてしまった。
出会って間もない、見ず知らずの子どもである。騎手の素質はある、という気がするだけだ。
「俺は、山南みたいにお節介じゃないし、いくら素質があろうと、進路ひとつ自分の意思で決められないなら、あの世界では通用しない」
自分に言い聞かせるように、天道は独り言ちた。
車を取りに行き、馬郷へ戻ると、また部屋で寝転がった。
山南が一度昼飯を持ってきたが、天道の様子を見ると、飯だけ置いて階段を降りて行った。
日が暮れてきた。
どこかから、防災放送が流れてくる。
天道は、それ以上じっとしていられなくなり、布団から起き上がった。
「山南、あいの通っている中学はどこにあるんだ」
自分が味わった無念さに突き動かされ、天道の足は、あいの中学へ向かってしまった。
山南は夜半に馬郷から歩いて十分ほどのところにある家へ帰っていき、天道は事務所の二階の宿直室を借りた。
部屋には、布団だけでなく、冷蔵庫やシャワー室なども備えついていた。
明け方に目が醒め、天道がカーテンを開けると、事務所の前を走っていくあいの頭頂が見えた。
あいは厩舎に入っていった。
「騎手になりたいか。本気、なんだろうね」
昨晩、騎手になるにはどうしたらいいのかと尋ねてきた、あいの真剣な眼差しを思い出し、天道は寝ぐせのついた頭を掻いた。
窓を開けると、冷たい風で眠気が飛んだ。眼前には雪化粧をした南アルプスの雄壮な自然が拡がっている。
酔いが残るほどに飲みはしなかった。机に置いてあった缶コーヒーのプルトップを開け、口をつけた。
窓辺でぼんやりしていると、また一人、女子中学生が馬郷の敷地に入って来た。
「なんだ?」
近頃の女子中高生がどんなふうであるのか知る由もないが、あいと比べると垢抜けた雰囲気の中学生だ。スクールバッグには流行りものらしいキーホルダーがじゃらじゃらとついている。
「ルーズソックスって、いまでも履かれてるんだなぁ」
天道が懐かしい気分になっていると、新しくやってきた女子中学生も、厩舎へと入っていった。
「あいの友達か?」
あいとは、あまり気が合いそうなタイプには見えなかった。
天道は綿入れを羽織り、厩舎へと向かった。
昨晩山南から、あいのことを気にかけてやってくれと言われたことが、頭の片隅に残っていた。
馬郷へは、休暇を利用して来ていた。
久しぶりに三日のまとまった休暇だが、明日には御園に戻るつもりでいた。
天道は、御園トレーニングセンターで、調教助手の仕事をしている。生き物を相手にする仕事なので、休暇中と言えど、急な呼び出しがないとは言い切れなかった。
「へえ。じゃあ、いま、元騎手の人が来てるんだ」
厩舎に近づくと、中から話し声が聞こえてきた。あいと、同級生らしい女子が、話しているようだ。だが、あいの声は小さく、ほとんど聞き取れない。
「てか、騎手なんてやめときなって。前にも言ったけど、あいになれるわけないじゃん。よく知らなけど、レース中に馬から落ちて、怪我することだってあるんでしょ?」
怪我どころか、命を落とすこともある。
思っただけで、天道は口を出さなかった。中を窺うと、やはりあいと先ほどの女子が向かい合っていた。
綾は、馬房の中からじっとあいを見つめている。
「それより、もう三年生になるんだから、高校受験に備えて勉強した方がいいよ。まだ進路希望の用紙も出してないんだって? 提出期限先週までだったのに」
「なんで、朔ちゃんが」
「先生に訊かれたんだよ。あいは地元の高校進学でいいんだよなって。幼馴染だからって、私に訊かれても困るってのにさ」
あいが、なにか言う気配がしたが、あいの幼馴染であるらしい朔は、それには取り合わず、一方的に捲し立てた。
「勉強ぐらいなら心配しないでもウチが教えてあげるよ。そうだ、今日の放課後から、教室で勉強会やったげよっか」
「放課後は、」
「ここへは受験終わったらまた通えばいいじゃん。てか、騎手になろうと思ったら、地元出ないと無理っしょ。そうなったら、その馬とも一緒に居られなくなるよ」
「それは」
「ね、とりあえず、もう学校行こ。あいってば、いっつもぎりぎりになって教室飛び込んでくるんだから」
二人が厩舎を出てくる前に、天道は建物の陰に移り身を隠した。我ながら、なにをやっているのかと、馬鹿々々しくなった。
あいが朔に引っ張られるようにして学校に行ってから、ほどなくして、山南が作業着でやってきた。
「あいちゃんは中かい?」
「もう学校へ行ったよ」
「おや、珍しいな。いつもは登校時間ぎりぎりまでいるんだが」
「お前、ちょっと甘やかしすぎだぞ」
天道は山南と厩舎に入った。山南は厩舎の端から、順に飼葉桶に飼料を与えていく。
綾が馬房から顔を出したまま、つっ立っていた。綾の飼葉桶には、あいが与えたらしい飼料が残っているが、口をつける気分ではないようだ。
「お前、あいを心配しているのか?」
綾の黒い瞳は、厩舎の入口に向いている。
「ああいう手合いは、どこにでもいる。気にしても仕方ない」
十余年前、騎手引退を迫られた我が身のことが、天道の脳裡によみがえった。
デビュー時から目標にしていた凱旋門賞へ、挑戦する道が拓けてきた矢先だった。
目の病を患った。病そのものは完治したが、病によって低下した視力は回復する見込みはないと診断された。
それまで天道を天才と囃し立てていた仕事仲間や馬主、雑誌記者などは、天道の悲運を嘆いた。
「他人は、無責任なものさ。勝手にもてはやすし、勝手にこいつはもう終わったと烙印を押す。そんな声に左右されたって、碌なことはない」
病の後遺症により、騎手生命を断たれたのは確かだった。
病に犯されなければ、騎手を続けていたに違いない。
無念さは、調教の道に転向を果たした今も、冷え固まったマグマのように、天道の心の奥底に残っている。
「騎手になるか、どうか。決めるのは、彼女自身だ。埋もれるには惜しい才能だ、とは思うが」
綾は、話している天道には見向きもしない。
「聞いてる?」
鼻の甲に触れようとすると、ふいと顔を背けられた。あい以外には、気難しい性格なのかもしれない。
事務所に戻ると、机に、競馬学校のパンフレットと願書が置いてあった。山南が用意したのだろう。
「お節介なのは学生時代の頃のままか」
パンフレットを手に取った。強くなりたいと言ったあいの目は、まぎれもなく本気だった。
階段を上がり、宿直室に戻り、布団に寝転がった。パンフレットと願書は持ってきてしまった。
出会って間もない、見ず知らずの子どもである。騎手の素質はある、という気がするだけだ。
「俺は、山南みたいにお節介じゃないし、いくら素質があろうと、進路ひとつ自分の意思で決められないなら、あの世界では通用しない」
自分に言い聞かせるように、天道は独り言ちた。
車を取りに行き、馬郷へ戻ると、また部屋で寝転がった。
山南が一度昼飯を持ってきたが、天道の様子を見ると、飯だけ置いて階段を降りて行った。
日が暮れてきた。
どこかから、防災放送が流れてくる。
天道は、それ以上じっとしていられなくなり、布団から起き上がった。
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