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第1話
裸馬と少女 ⑤
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放課後になっても、あいは学校を出られずにいた。
いつもなら馬郷で、綾と一緒に過ごしている時間だった。
「そこの計算、また間違ってる。さっきと同じミスだよ、それ」
机を挟んで座っている朔が、ペン先であいのノートを突き、指摘してくる。
教室で、朔と二人だった。
最初は他のクラスメイトもいたが、あいのあまりの飲み込みの悪さに、呆れて帰っていった。
「朔ちゃん、いつまでやるの」
「言ったでしょ。この問題集の、こっから、ここまで。終わるまで、今日は帰れないよ」
「そんな、無理だよ」
「弱音言ってる暇あったら、ほら、手、動かして」
朔は問題集をあいの目の前に突きつけてくる。あいは仕方なく計算に戻ろうとしたが、涙が滲んできて、数字や記号がぼやけてしまう。
「ちょ、泣かないでよ。ウチはあいのためを思って」
朔に悪意がないのは、わかっている。
昨日の体育の時間も、足手まといだったあいへの禍根が残らないよう、わざとああした物言いをして、笑いに変えてくれたのだ。
涙が出てきたのは、朔の仕打ちが辛かったからではなかった。
どうして、皆が普通にできていることが、自分にはできないのか。
学校にいると、そればかりを考えてしまい、辛くなる。
それでも、学校を休まずにいられたのは、綾との時間があったからだ。
綾と、風のように駈けることは、同級生の誰にもできないことだった。
たった一つでも、自分には他人にはできないことができる。綾の存在とともに、そのことが、あいの心を支えていた。
でも、いつまでも綾に頼っていたら駄目なんだ。
歯を食いしばりながら、あいは思った。零れそうになる涙を堪え、洟を啜った。
強い人にならなきゃ、綾を安心させてあげられない。そのためには、馬に乗ること以外なにもできない私は、騎手になる。
「朔ちゃん、私、やっぱり」
あいが意を決して問題集から顔を上げ、朔に言いさしたところで、教室に担任の教師が入って来た。
「お、まだ残って勉強続けてたのか。関心関心」
「先生、どうしたの?」
「どうしたんですか、だろ」
教師はため口を利く朔を上っ面で叱るばかりで、本気ではない。朔には愛嬌がある。あいには真似できないことだった。
「藤刀の進路希望の件でな。どうだ、もう書いたか?」
「あい、今朝もその話したのに、まだ出してなかったんだ。もういま書いて出しちゃいなよ。プリントは持ってるんでしょ」
朔に促され、あいはスクールバッグに折り畳んで収っておいた進路希望の用紙を出した。
競馬の学校と書きたいのに、手が動かなかった。
書けば、朔は反対する。きっと教師も、その肩を持つ。
「ん、どうしたんだ、藤刀? なにか悩んでいたりするのか?」
「あい、騎手になりたいんですって。だから高校に行かないで、競馬の勉強ができるところに行くって」
「なんだ、それ。先生、初耳だぞ」
「先生からも言ってくださいよ。あいが騎手になろうなんて無理だって」
「こら、そういう言い方はするもんじゃない。でも、確かに競馬の騎手ってのは、厳しい世界だってイメージはあるな。頭ごなしに否定する気はないが、高校や大学を出て、自分の可能性を広めてからでも遅くはないんじゃないか?」
「ですよね。ほら、あい、先生もこう言ってるんだし、悩むことないじゃん」
ペンを握ったあいの手は、しかし動かなかった。
すると、朔がじれったそうに息を吐いた。
「仕方ないな。ウチが書いたげる」
「あ、」
朔は、あいの前にある進路希望の用紙を取り上げ、地元の高校の名を欄に記入した。
「はい、先生」
「おいおい。藤刀の進路だぞ」
「でも、もう提出期限は過ぎてるし、今回はそれでいいんじゃないですか?」
「まぁ、これで進路が決まるってわけではないが、しかしなぁ」
「ならいいじゃないですか。ね、あいもいいでしょ?」
いつも、朔にこう言われると、最後には頷くしかなくなる。
「でも、」
あいは、背中を丸め、机の下で膝の上に置いた手を、ぎゅっと握り締めた。
「いいわけがない」
入口で、声がした。聞き知った声だが、ここにいるはずがない人でもあった。
いつもなら馬郷で、綾と一緒に過ごしている時間だった。
「そこの計算、また間違ってる。さっきと同じミスだよ、それ」
机を挟んで座っている朔が、ペン先であいのノートを突き、指摘してくる。
教室で、朔と二人だった。
最初は他のクラスメイトもいたが、あいのあまりの飲み込みの悪さに、呆れて帰っていった。
「朔ちゃん、いつまでやるの」
「言ったでしょ。この問題集の、こっから、ここまで。終わるまで、今日は帰れないよ」
「そんな、無理だよ」
「弱音言ってる暇あったら、ほら、手、動かして」
朔は問題集をあいの目の前に突きつけてくる。あいは仕方なく計算に戻ろうとしたが、涙が滲んできて、数字や記号がぼやけてしまう。
「ちょ、泣かないでよ。ウチはあいのためを思って」
朔に悪意がないのは、わかっている。
昨日の体育の時間も、足手まといだったあいへの禍根が残らないよう、わざとああした物言いをして、笑いに変えてくれたのだ。
涙が出てきたのは、朔の仕打ちが辛かったからではなかった。
どうして、皆が普通にできていることが、自分にはできないのか。
学校にいると、そればかりを考えてしまい、辛くなる。
それでも、学校を休まずにいられたのは、綾との時間があったからだ。
綾と、風のように駈けることは、同級生の誰にもできないことだった。
たった一つでも、自分には他人にはできないことができる。綾の存在とともに、そのことが、あいの心を支えていた。
でも、いつまでも綾に頼っていたら駄目なんだ。
歯を食いしばりながら、あいは思った。零れそうになる涙を堪え、洟を啜った。
強い人にならなきゃ、綾を安心させてあげられない。そのためには、馬に乗ること以外なにもできない私は、騎手になる。
「朔ちゃん、私、やっぱり」
あいが意を決して問題集から顔を上げ、朔に言いさしたところで、教室に担任の教師が入って来た。
「お、まだ残って勉強続けてたのか。関心関心」
「先生、どうしたの?」
「どうしたんですか、だろ」
教師はため口を利く朔を上っ面で叱るばかりで、本気ではない。朔には愛嬌がある。あいには真似できないことだった。
「藤刀の進路希望の件でな。どうだ、もう書いたか?」
「あい、今朝もその話したのに、まだ出してなかったんだ。もういま書いて出しちゃいなよ。プリントは持ってるんでしょ」
朔に促され、あいはスクールバッグに折り畳んで収っておいた進路希望の用紙を出した。
競馬の学校と書きたいのに、手が動かなかった。
書けば、朔は反対する。きっと教師も、その肩を持つ。
「ん、どうしたんだ、藤刀? なにか悩んでいたりするのか?」
「あい、騎手になりたいんですって。だから高校に行かないで、競馬の勉強ができるところに行くって」
「なんだ、それ。先生、初耳だぞ」
「先生からも言ってくださいよ。あいが騎手になろうなんて無理だって」
「こら、そういう言い方はするもんじゃない。でも、確かに競馬の騎手ってのは、厳しい世界だってイメージはあるな。頭ごなしに否定する気はないが、高校や大学を出て、自分の可能性を広めてからでも遅くはないんじゃないか?」
「ですよね。ほら、あい、先生もこう言ってるんだし、悩むことないじゃん」
ペンを握ったあいの手は、しかし動かなかった。
すると、朔がじれったそうに息を吐いた。
「仕方ないな。ウチが書いたげる」
「あ、」
朔は、あいの前にある進路希望の用紙を取り上げ、地元の高校の名を欄に記入した。
「はい、先生」
「おいおい。藤刀の進路だぞ」
「でも、もう提出期限は過ぎてるし、今回はそれでいいんじゃないですか?」
「まぁ、これで進路が決まるってわけではないが、しかしなぁ」
「ならいいじゃないですか。ね、あいもいいでしょ?」
いつも、朔にこう言われると、最後には頷くしかなくなる。
「でも、」
あいは、背中を丸め、机の下で膝の上に置いた手を、ぎゅっと握り締めた。
「いいわけがない」
入口で、声がした。聞き知った声だが、ここにいるはずがない人でもあった。
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