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第2話
坂道と鬼門 ②
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調教助手の職務と、リモートによるあいのコーチングで、忙殺されているうちに、あっという間に日々が過ぎていった。
連休が取れ、あいの家を訪えたのは、梅雨に入ってからだった。
厳格な父親と、過保護気味な母親。
懸念があるとすれば、母親の方だった。
しかし天道から、騎手には危険も伴うという話を聞いても、娘の初めての挑戦を応援したい、という母親の気持ちは変わらなかった。
あいの家を辞し、春の小雨の中、車を馬郷のある集落へ走らせた。
山南から、あいは集落の東にある、勾配のきつい坂で走り込みをしている、と連絡が来ていた。
馬郷の駐車場に車を停め、あいがいる坂へ向かう途中、道の正面からやって来た女子中学生と行き会った。
「君はたしか、あいの同級生の、朔ちゃんだっけ?」
朔は、背伸びをしたデザインの傘を差していたが、慌てて走って来たのか、服がしっとりと濡れていた。
「天道さん、でよかったですか」
「うん」
糸のように細い雨が降っている。天道はあいの家に行く途中で買った、ビニール傘を使っていた。
「少し、お時間いいですか?」
「なにか話があって、僕を探してたのかな」
「話というか、聞いてもらいたいことが、あって」
時間を割いてまで、所縁のない中学生の話を聞く義理はない。断りかけて、暗い朔の表情に気づき、思い留まった。
集落に、話すのに手ごろな喫茶店などなかった。
少し歩き、神社へ場所を移した。
境内に四阿があり、そこからは小さな棚田が見下ろせた。
「ウチにとって、あいはなにをやっても失敗ばかりする、カワイソウな幼馴染だったんです」
四阿の下に入り、ややあってから、朔がおもむろに話しはじめた。
「でも、ほんとうは、ウチがそう思いたかっただけなんです」
「どういうことかな」
「あいは実際、勉強もスポーツもできなくて、小学生の頃はよく物忘れとか遅刻とかもして、手先もびっくりするくらい不器用でした。けど、あいには、馬がいた。知ってますか、あの子、鞍もなしに馬に乗れるんですよ」
「ああ、見たことあるよ」
「世の中には、なにか一つの分野で活躍している人が、いっぱいいますよね」
「いるね」
「あいは、それを知らないんです。だから、気づかない。ウチはいつからか、なんとなく気づいたんです。あいには才能があるんだな、って。世間で活躍している人と同じ、特別になる才能が」
あいの家にはパソコンがなかった。テレビも、話をしていると、あまり見る方ではなさそうだった。
全校生徒が三十余人という、付き合いの限られた環境でもあった。
あいが、自分の特異性に無自覚だったとしても、無理からぬことだった。
そして、そのあいの無自覚さに、この平凡な幼馴染は苦しめられていたのだろうか。
天道は、畳まれた朔の傘の先に、目をやった。雨垂れが、滴っている。
「ウチには、そんな才能なくて。それであいを、普通っていう枠に押し込めようとしたんです。あはは、これってすっごい、格好悪いですよね。シットですよ、シット。友達なら、応援してあげろよ、って話です」
朔が開き直るように、うって変わって明るい調子で言った。
朔の目は、雨の先にある、棚田に向けられている。一枚六畳ほどで、それが三枚あるだけの、小さな棚田だ。
朔が口を噤んだ。泣いてはいない。自分に泣く権利はない、と言い聞かせている気配だった。
静寂が二人を包んだ。
天道は一つ、朔の肩を軽く叩き、四阿を後にしようとした。
「あの子のこと、よろしくお願いします」
背中で、朔の言葉を聞いた。それだけを、言いたかったのだろう。
天道は振り返らず、石段を降った。
歩いた。
急峻な坂道。
駈け上がっていくあいの背中が見えた。
この坂を途中で止まらずに駆け上がるのを、百の課題の一つにした憶えがある。勾配がきつく、並みの大人でも一息で駆け上がるのはちょっときつそうな長さの坂だ。
「止まるな」
坂の下で、天道は呟いた。路面は雨に濡れている。あいが足を滑らせ、転んだ。しかし休むことなく立ち上がり、前に踏み出した。
声を張り上げ、駆け上がっていく。
あいが、坂の先に立った。それから、振り返った。坂の下の天道に気づいた様子はなく、なにかに心を奪われているのか、呆然としている。
天道も振り返った。
雨が上がっていた。雲の切れ間から、数条の光が射しこみ、新緑に包まれた山々を照らしていた。
光と影。光の中にある濡れた若葉は、色鮮やかに輝いている。
いつ、どこに光が当たるかなど、若葉には知りようもない。
人も同じだ、と天道は思った。
連休が取れ、あいの家を訪えたのは、梅雨に入ってからだった。
厳格な父親と、過保護気味な母親。
懸念があるとすれば、母親の方だった。
しかし天道から、騎手には危険も伴うという話を聞いても、娘の初めての挑戦を応援したい、という母親の気持ちは変わらなかった。
あいの家を辞し、春の小雨の中、車を馬郷のある集落へ走らせた。
山南から、あいは集落の東にある、勾配のきつい坂で走り込みをしている、と連絡が来ていた。
馬郷の駐車場に車を停め、あいがいる坂へ向かう途中、道の正面からやって来た女子中学生と行き会った。
「君はたしか、あいの同級生の、朔ちゃんだっけ?」
朔は、背伸びをしたデザインの傘を差していたが、慌てて走って来たのか、服がしっとりと濡れていた。
「天道さん、でよかったですか」
「うん」
糸のように細い雨が降っている。天道はあいの家に行く途中で買った、ビニール傘を使っていた。
「少し、お時間いいですか?」
「なにか話があって、僕を探してたのかな」
「話というか、聞いてもらいたいことが、あって」
時間を割いてまで、所縁のない中学生の話を聞く義理はない。断りかけて、暗い朔の表情に気づき、思い留まった。
集落に、話すのに手ごろな喫茶店などなかった。
少し歩き、神社へ場所を移した。
境内に四阿があり、そこからは小さな棚田が見下ろせた。
「ウチにとって、あいはなにをやっても失敗ばかりする、カワイソウな幼馴染だったんです」
四阿の下に入り、ややあってから、朔がおもむろに話しはじめた。
「でも、ほんとうは、ウチがそう思いたかっただけなんです」
「どういうことかな」
「あいは実際、勉強もスポーツもできなくて、小学生の頃はよく物忘れとか遅刻とかもして、手先もびっくりするくらい不器用でした。けど、あいには、馬がいた。知ってますか、あの子、鞍もなしに馬に乗れるんですよ」
「ああ、見たことあるよ」
「世の中には、なにか一つの分野で活躍している人が、いっぱいいますよね」
「いるね」
「あいは、それを知らないんです。だから、気づかない。ウチはいつからか、なんとなく気づいたんです。あいには才能があるんだな、って。世間で活躍している人と同じ、特別になる才能が」
あいの家にはパソコンがなかった。テレビも、話をしていると、あまり見る方ではなさそうだった。
全校生徒が三十余人という、付き合いの限られた環境でもあった。
あいが、自分の特異性に無自覚だったとしても、無理からぬことだった。
そして、そのあいの無自覚さに、この平凡な幼馴染は苦しめられていたのだろうか。
天道は、畳まれた朔の傘の先に、目をやった。雨垂れが、滴っている。
「ウチには、そんな才能なくて。それであいを、普通っていう枠に押し込めようとしたんです。あはは、これってすっごい、格好悪いですよね。シットですよ、シット。友達なら、応援してあげろよ、って話です」
朔が開き直るように、うって変わって明るい調子で言った。
朔の目は、雨の先にある、棚田に向けられている。一枚六畳ほどで、それが三枚あるだけの、小さな棚田だ。
朔が口を噤んだ。泣いてはいない。自分に泣く権利はない、と言い聞かせている気配だった。
静寂が二人を包んだ。
天道は一つ、朔の肩を軽く叩き、四阿を後にしようとした。
「あの子のこと、よろしくお願いします」
背中で、朔の言葉を聞いた。それだけを、言いたかったのだろう。
天道は振り返らず、石段を降った。
歩いた。
急峻な坂道。
駈け上がっていくあいの背中が見えた。
この坂を途中で止まらずに駆け上がるのを、百の課題の一つにした憶えがある。勾配がきつく、並みの大人でも一息で駆け上がるのはちょっときつそうな長さの坂だ。
「止まるな」
坂の下で、天道は呟いた。路面は雨に濡れている。あいが足を滑らせ、転んだ。しかし休むことなく立ち上がり、前に踏み出した。
声を張り上げ、駆け上がっていく。
あいが、坂の先に立った。それから、振り返った。坂の下の天道に気づいた様子はなく、なにかに心を奪われているのか、呆然としている。
天道も振り返った。
雨が上がっていた。雲の切れ間から、数条の光が射しこみ、新緑に包まれた山々を照らしていた。
光と影。光の中にある濡れた若葉は、色鮮やかに輝いている。
いつ、どこに光が当たるかなど、若葉には知りようもない。
人も同じだ、と天道は思った。
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