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第3話
綾 ⑤
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待ち合わせをしていた四時を少し過ぎて、天道が地下広場の植樹の前にやってきた。
「わぉ、かわいいね」
「か、からかわないでください。これは、零ちゃんが、」
あいはヘアゴムで角のように結わえられた前髪を慌てて解き、額を隠した。
受験に際して前髪は目元にかからないぐらい短くしたが、額を晒すのには抵抗があった。
待ち合わせに遅れそうになり、ここまで必死だったので、髪を直し忘れていたのだ。
「今春零と会ったのかい?」
天道が関心を示し、車へ戻る道すがら、あいは経緯を話した。
~30分前~
「ま、迷っちゃった」
あいは、中山競馬場の中でしたたかに迷子になっていた。
用事があるという天道と、一旦別行動をとることになり、先に車に戻っているかとも訊かれたが、もう少し競馬場内を見て回りたい気持ちがあった。
はじめて間近でレースを観戦した興奮が冷めず、じっとしていられない気分でもあった。
そして、うろうろしているうちに、道を見失ったのだった。
「たしか、こっちから来たんだっけ? 向こうから、、、?」
地元にある大きな建物といえば、学校かスーパーマーケットが精々だった。
競馬学校の集団面接の対策で、何度か都市部に足を運んだが、その時は母が付き添ってくれ、迷う心配はなかった。
ショッピングモールのような大規模な施設を一人で歩くのは初めてだった。
「あれ、あいちゃんだ。こんなところでなにやってるの?」
半泣きで、通路の角を曲がると、今春零と出くわした。
零はレースで着ていたスーツから、制服に変わっていた。騎乗でかいた汗がまだ引かないのか、毛先がかすかに湿っている。
「今春、さん」
「くしゅん」
零が、小さくくしゃみをした。
「ごめんごめん。で、どうしたの?」
「あの、私、地下広場に出たいんです、けど、道がわからなくなっちゃって。ここって、」
「それは盛大に迷ったね。この先は騎手の更衣室とか控室しかないよ。というか、ここ、一般の人は立ち入り禁止だから、見つかったら怒られちゃうかも」
「ご、ごめんなさいっ、すぐ出ます」
来た道を駆け戻ろうとすると、零に服の袖を取られた。
「待って、あたしが案内してあげる」
「え、でも、抜けて大丈夫、なん、ですか。勝利者インタビューみたいなのが、あるんじゃ」
「ん、まぁ、少しくらい大丈夫だよ。ほら、行こ」
零に腕を引かれ歩き出す。
「あの、ありがとうございます、今春さん」
「くしゅん」
零がまたくしゃみをした。
「今春、さん?」
「くしゅん、くしゅん」
今度は立て続けだった。あいは、小首を傾げた。
「もしかして、風邪気味ですか?」
「そういうわけじゃなくって。あたし、重度の花粉症なの」
「花粉症、この時季に?」
「症状は春なんだけど、条件反射っていうか、春を連想させるものとか、言葉を聞いただけで、鼻がむずむずしてくしゃみが出ちゃうんだ」
「春を連想するもの。もしかして、苗字も?」
「そ。だから、あたしのことは零って、名前で呼んでほしいな」
「れ、れれれ、零、さん」
綾や、幼馴染の朔以外、誰かを名前で呼んだことはない。緊張で、声がうわずった。
「呼び捨てでいいよ。あと、敬語も。友達なんだから」
「と、ともだち」
「あれ、違った?」
あいはぶんぶんと首を横に振った。
曲がり角を三つ通り過ぎ、通路を進むと、見覚えのある店の前に出た。
「あ、ここからなら、行き方、わかり、ます、る」
「わかりまする?」
「敬語じゃないの、難しくって」
「がんばって馴れて。じゃ、あたしはこれで。またね、あいちゃん」
「あ、あのっ、零、ちゃん」
「ん、なぁに?」
「レース、すごく、格好よかった」
「あんなの大したことないよ。所詮、模擬レースだし」
零は鼻白んだように言った。
「そんな。私もいつか、零ちゃんみたいな騎手になりたい」
「ウソ」
「え」
立ち去ろうとしていた零が、ひらりとあいに身を寄せてきた。
目と目が合う。互いの鼻先が触れそうな距離で、目の反らしようがない。
あらゆる光を吸い込む闇のような、零の、澄んだ瞳。
綺麗だ、とあいは感じた。
「二次試験の乗馬実技で、裸馬を乗りこなすあいちゃんをひと目見た瞬間、感じたの。ああ、あたしはいつか、この子と真剣勝負をするんだろうな、って」
「え」
「私は、誰よりも疾い騎手になりたい。あいちゃんも、そうでしょ」
「私は、」
人の期待に応えられるような、強い人になりたい。
零とは、言葉は違えど、目指しているのは同じなのか。
「ほんとうは、今日のレースを見て想像してた。私なら、どうしただろう。どうやったら、零ちゃんを抜けたかな、って」
「やっぱり」
零の手に、前髪を掻き上げられた。
「ねぇ、おでこ出したら? そっちの方が似合う気がする」
言いながら、ブレザーのポケットからヘアゴムを取り出し、あいの前髪を結い上げる。
「じゃん。完成、ユニコーン」
「ユニコーン? え、私の前髪、今どうなってるの?」
「ふふ、ね、あい、約束しよ」
急に名前を呼び捨てにされ、どきりとした。零が右手の小指を差し出してくる。
「三年後、あいが出る模擬レースに、あたしは現役騎手の枠で参加する。だから、そこで真剣勝負をしようよ」
「私も、零ちゃんと勝負してみたい」
「なら、決まりだ」
零の小指に、自分の小指を絡ませた。束の間、この世界に零と二人きりになったような錯覚を、あいは覚えた。
小指をするりと解くと、零は不敵な笑みを残して去っていった。
残されたあいは、しばし呆然としていたが、やがて我に返った。
「時間、もう過ぎちゃう。急がなきゃ」
「わぉ、かわいいね」
「か、からかわないでください。これは、零ちゃんが、」
あいはヘアゴムで角のように結わえられた前髪を慌てて解き、額を隠した。
受験に際して前髪は目元にかからないぐらい短くしたが、額を晒すのには抵抗があった。
待ち合わせに遅れそうになり、ここまで必死だったので、髪を直し忘れていたのだ。
「今春零と会ったのかい?」
天道が関心を示し、車へ戻る道すがら、あいは経緯を話した。
~30分前~
「ま、迷っちゃった」
あいは、中山競馬場の中でしたたかに迷子になっていた。
用事があるという天道と、一旦別行動をとることになり、先に車に戻っているかとも訊かれたが、もう少し競馬場内を見て回りたい気持ちがあった。
はじめて間近でレースを観戦した興奮が冷めず、じっとしていられない気分でもあった。
そして、うろうろしているうちに、道を見失ったのだった。
「たしか、こっちから来たんだっけ? 向こうから、、、?」
地元にある大きな建物といえば、学校かスーパーマーケットが精々だった。
競馬学校の集団面接の対策で、何度か都市部に足を運んだが、その時は母が付き添ってくれ、迷う心配はなかった。
ショッピングモールのような大規模な施設を一人で歩くのは初めてだった。
「あれ、あいちゃんだ。こんなところでなにやってるの?」
半泣きで、通路の角を曲がると、今春零と出くわした。
零はレースで着ていたスーツから、制服に変わっていた。騎乗でかいた汗がまだ引かないのか、毛先がかすかに湿っている。
「今春、さん」
「くしゅん」
零が、小さくくしゃみをした。
「ごめんごめん。で、どうしたの?」
「あの、私、地下広場に出たいんです、けど、道がわからなくなっちゃって。ここって、」
「それは盛大に迷ったね。この先は騎手の更衣室とか控室しかないよ。というか、ここ、一般の人は立ち入り禁止だから、見つかったら怒られちゃうかも」
「ご、ごめんなさいっ、すぐ出ます」
来た道を駆け戻ろうとすると、零に服の袖を取られた。
「待って、あたしが案内してあげる」
「え、でも、抜けて大丈夫、なん、ですか。勝利者インタビューみたいなのが、あるんじゃ」
「ん、まぁ、少しくらい大丈夫だよ。ほら、行こ」
零に腕を引かれ歩き出す。
「あの、ありがとうございます、今春さん」
「くしゅん」
零がまたくしゃみをした。
「今春、さん?」
「くしゅん、くしゅん」
今度は立て続けだった。あいは、小首を傾げた。
「もしかして、風邪気味ですか?」
「そういうわけじゃなくって。あたし、重度の花粉症なの」
「花粉症、この時季に?」
「症状は春なんだけど、条件反射っていうか、春を連想させるものとか、言葉を聞いただけで、鼻がむずむずしてくしゃみが出ちゃうんだ」
「春を連想するもの。もしかして、苗字も?」
「そ。だから、あたしのことは零って、名前で呼んでほしいな」
「れ、れれれ、零、さん」
綾や、幼馴染の朔以外、誰かを名前で呼んだことはない。緊張で、声がうわずった。
「呼び捨てでいいよ。あと、敬語も。友達なんだから」
「と、ともだち」
「あれ、違った?」
あいはぶんぶんと首を横に振った。
曲がり角を三つ通り過ぎ、通路を進むと、見覚えのある店の前に出た。
「あ、ここからなら、行き方、わかり、ます、る」
「わかりまする?」
「敬語じゃないの、難しくって」
「がんばって馴れて。じゃ、あたしはこれで。またね、あいちゃん」
「あ、あのっ、零、ちゃん」
「ん、なぁに?」
「レース、すごく、格好よかった」
「あんなの大したことないよ。所詮、模擬レースだし」
零は鼻白んだように言った。
「そんな。私もいつか、零ちゃんみたいな騎手になりたい」
「ウソ」
「え」
立ち去ろうとしていた零が、ひらりとあいに身を寄せてきた。
目と目が合う。互いの鼻先が触れそうな距離で、目の反らしようがない。
あらゆる光を吸い込む闇のような、零の、澄んだ瞳。
綺麗だ、とあいは感じた。
「二次試験の乗馬実技で、裸馬を乗りこなすあいちゃんをひと目見た瞬間、感じたの。ああ、あたしはいつか、この子と真剣勝負をするんだろうな、って」
「え」
「私は、誰よりも疾い騎手になりたい。あいちゃんも、そうでしょ」
「私は、」
人の期待に応えられるような、強い人になりたい。
零とは、言葉は違えど、目指しているのは同じなのか。
「ほんとうは、今日のレースを見て想像してた。私なら、どうしただろう。どうやったら、零ちゃんを抜けたかな、って」
「やっぱり」
零の手に、前髪を掻き上げられた。
「ねぇ、おでこ出したら? そっちの方が似合う気がする」
言いながら、ブレザーのポケットからヘアゴムを取り出し、あいの前髪を結い上げる。
「じゃん。完成、ユニコーン」
「ユニコーン? え、私の前髪、今どうなってるの?」
「ふふ、ね、あい、約束しよ」
急に名前を呼び捨てにされ、どきりとした。零が右手の小指を差し出してくる。
「三年後、あいが出る模擬レースに、あたしは現役騎手の枠で参加する。だから、そこで真剣勝負をしようよ」
「私も、零ちゃんと勝負してみたい」
「なら、決まりだ」
零の小指に、自分の小指を絡ませた。束の間、この世界に零と二人きりになったような錯覚を、あいは覚えた。
小指をするりと解くと、零は不敵な笑みを残して去っていった。
残されたあいは、しばし呆然としていたが、やがて我に返った。
「時間、もう過ぎちゃう。急がなきゃ」
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