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第3話
綾 ⑥
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中山競馬場で零と交わした約束の話を、綾は楽しそうに聞いていた。
綾と、年を越した。
年明け早々に雪が降り積もったが、交通が遮断されるほどではなかった。ここより少し北の、標高が高い地域では、区間通行止めになる場所もあったようだ。
馬郷の事務所の柱にある、日めくりカレンダーを、一枚、一枚、剥がしていった。
雪解けの水が、ちろちろと麓へ流れ、小川をつくった。
学校の卒業式が済んでからは、家と馬郷を行き来する日々だった。
天道とは以前ほどの頻度ではないものの連絡は取っていて、トレーニングメニューは試験以降もこなし続けている。
バス停から馬郷へ向かう道端に、ふきのとうが生っているのを見かけた。
あいは、さっと視線を反らし、足早に馬郷へ向かった。
月が満ち、欠けた。
「月齢二十四、一」
事務仕事を終えて出てきた山南が、夜空を見上げ、言った。
帰宅する山南を見送ってから、馬郷の厩舎で、綾と最後の夜を過ごした。
夜はまだかなり冷える。
綿入れを着込み、湯たんぽと寝袋に包まれば、なんとか寒さは凌げた。
綾と語り合ううちに、いつの間にか眠ってしまっていた。眠りながらも、綾の心臓の鼓動を、馬房越しに聞いていた気がする。
夜明け前に、綾に鼻で起こされた。
他の馬を起こさないよう、静かに馬房の柵を開け、厩舎を出た。
なだらかな丘になっている、牧草地の頂に、綾と立った。
南アルプスの陰から、陽の輪郭が出てくる。
綾が顔を寄せてきた。顎の下を撫でながら、陽が昇っていくのを見つめた。
やがて、馬郷がある山間の集落にも、陽の光が射してきた。すでに陽に輪郭はなく、直視していられいほどの眩さになっている。
「あいさん」
山南が、丘の下の方に立っていた。いま行きます、と返事をしてから、綾と向き合った。
「お母さんが、迎えに来たみたい」
別れの時が来た。綾もそれを理解していた。
「今まで、たくさん、ありがとう。いってきます」
あいは綾の鼻に触れてから、背を向け、歩き出した。
丘を半分ほど下った。
足が、石になったように、動かなくなった。心が、ふるえている。どうしようもなくなり、振り返った。
綾。一歩も動かずに、居た。
駆け戻り、その首を抱きしめていた。
涙がとめどなく溢れてくる。
互いに、言葉はなかった。嗚咽するあいを、綾は叱りも、励ましもしない。ただじっと、あいの涙が熄むのを待ってくれている。
「いっでぎまず」
綾から身を離した。洟水混じりに言って、再び背を向けた。
あい。私の、大切な姉妹。
綾の声がした。
あいは自分の弱さを振り切るように駆け出し、丘を一息に下った。
山南と、馬郷の駐車場へ行くと、母が車で待っていた。
「もういいのね?」
母が泣き腫らした跡があるあいを案じて言った。頷き、車の後部座席に乗った。窓を降ろし、山南にも、これまでの礼を伝えた。
「僕はなにも。綾が、望んだことさ」
少し寂しげな、山南の微笑に見送られ、馬郷を出た。
馬郷を、家だと思ったことはない。心の故郷。あいにとっては、そんな場所だった。
入寮するのに必要な荷物は、昨日の朝、家を出る前にトランクに積んである。
あいを乗せた車は、一路、CRA競馬学校へ向かった。
綾と、年を越した。
年明け早々に雪が降り積もったが、交通が遮断されるほどではなかった。ここより少し北の、標高が高い地域では、区間通行止めになる場所もあったようだ。
馬郷の事務所の柱にある、日めくりカレンダーを、一枚、一枚、剥がしていった。
雪解けの水が、ちろちろと麓へ流れ、小川をつくった。
学校の卒業式が済んでからは、家と馬郷を行き来する日々だった。
天道とは以前ほどの頻度ではないものの連絡は取っていて、トレーニングメニューは試験以降もこなし続けている。
バス停から馬郷へ向かう道端に、ふきのとうが生っているのを見かけた。
あいは、さっと視線を反らし、足早に馬郷へ向かった。
月が満ち、欠けた。
「月齢二十四、一」
事務仕事を終えて出てきた山南が、夜空を見上げ、言った。
帰宅する山南を見送ってから、馬郷の厩舎で、綾と最後の夜を過ごした。
夜はまだかなり冷える。
綿入れを着込み、湯たんぽと寝袋に包まれば、なんとか寒さは凌げた。
綾と語り合ううちに、いつの間にか眠ってしまっていた。眠りながらも、綾の心臓の鼓動を、馬房越しに聞いていた気がする。
夜明け前に、綾に鼻で起こされた。
他の馬を起こさないよう、静かに馬房の柵を開け、厩舎を出た。
なだらかな丘になっている、牧草地の頂に、綾と立った。
南アルプスの陰から、陽の輪郭が出てくる。
綾が顔を寄せてきた。顎の下を撫でながら、陽が昇っていくのを見つめた。
やがて、馬郷がある山間の集落にも、陽の光が射してきた。すでに陽に輪郭はなく、直視していられいほどの眩さになっている。
「あいさん」
山南が、丘の下の方に立っていた。いま行きます、と返事をしてから、綾と向き合った。
「お母さんが、迎えに来たみたい」
別れの時が来た。綾もそれを理解していた。
「今まで、たくさん、ありがとう。いってきます」
あいは綾の鼻に触れてから、背を向け、歩き出した。
丘を半分ほど下った。
足が、石になったように、動かなくなった。心が、ふるえている。どうしようもなくなり、振り返った。
綾。一歩も動かずに、居た。
駆け戻り、その首を抱きしめていた。
涙がとめどなく溢れてくる。
互いに、言葉はなかった。嗚咽するあいを、綾は叱りも、励ましもしない。ただじっと、あいの涙が熄むのを待ってくれている。
「いっでぎまず」
綾から身を離した。洟水混じりに言って、再び背を向けた。
あい。私の、大切な姉妹。
綾の声がした。
あいは自分の弱さを振り切るように駆け出し、丘を一息に下った。
山南と、馬郷の駐車場へ行くと、母が車で待っていた。
「もういいのね?」
母が泣き腫らした跡があるあいを案じて言った。頷き、車の後部座席に乗った。窓を降ろし、山南にも、これまでの礼を伝えた。
「僕はなにも。綾が、望んだことさ」
少し寂しげな、山南の微笑に見送られ、馬郷を出た。
馬郷を、家だと思ったことはない。心の故郷。あいにとっては、そんな場所だった。
入寮するのに必要な荷物は、昨日の朝、家を出る前にトランクに積んである。
あいを乗せた車は、一路、CRA競馬学校へ向かった。
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