19 / 43
第3話
綾 ⑥
しおりを挟む
中山競馬場で零と交わした約束の話を、綾は楽しそうに聞いていた。
綾と、年を越した。
年明け早々に雪が降り積もったが、交通が遮断されるほどではなかった。ここより少し北の、標高が高い地域では、区間通行止めになる場所もあったようだ。
馬郷の事務所の柱にある、日めくりカレンダーを、一枚、一枚、剥がしていった。
雪解けの水が、ちろちろと麓へ流れ、小川をつくった。
学校の卒業式が済んでからは、家と馬郷を行き来する日々だった。
天道とは以前ほどの頻度ではないものの連絡は取っていて、トレーニングメニューは試験以降もこなし続けている。
バス停から馬郷へ向かう道端に、ふきのとうが生っているのを見かけた。
あいは、さっと視線を反らし、足早に馬郷へ向かった。
月が満ち、欠けた。
「月齢二十四、一」
事務仕事を終えて出てきた山南が、夜空を見上げ、言った。
帰宅する山南を見送ってから、馬郷の厩舎で、綾と最後の夜を過ごした。
夜はまだかなり冷える。
綿入れを着込み、湯たんぽと寝袋に包まれば、なんとか寒さは凌げた。
綾と語り合ううちに、いつの間にか眠ってしまっていた。眠りながらも、綾の心臓の鼓動を、馬房越しに聞いていた気がする。
夜明け前に、綾に鼻で起こされた。
他の馬を起こさないよう、静かに馬房の柵を開け、厩舎を出た。
なだらかな丘になっている、牧草地の頂に、綾と立った。
南アルプスの陰から、陽の輪郭が出てくる。
綾が顔を寄せてきた。顎の下を撫でながら、陽が昇っていくのを見つめた。
やがて、馬郷がある山間の集落にも、陽の光が射してきた。すでに陽に輪郭はなく、直視していられいほどの眩さになっている。
「あいさん」
山南が、丘の下の方に立っていた。いま行きます、と返事をしてから、綾と向き合った。
「お母さんが、迎えに来たみたい」
別れの時が来た。綾もそれを理解していた。
「今まで、たくさん、ありがとう。いってきます」
あいは綾の鼻に触れてから、背を向け、歩き出した。
丘を半分ほど下った。
足が、石になったように、動かなくなった。心が、ふるえている。どうしようもなくなり、振り返った。
綾。一歩も動かずに、居た。
駆け戻り、その首を抱きしめていた。
涙がとめどなく溢れてくる。
互いに、言葉はなかった。嗚咽するあいを、綾は叱りも、励ましもしない。ただじっと、あいの涙が熄むのを待ってくれている。
「いっでぎまず」
綾から身を離した。洟水混じりに言って、再び背を向けた。
あい。私の、大切な姉妹。
綾の声がした。
あいは自分の弱さを振り切るように駆け出し、丘を一息に下った。
山南と、馬郷の駐車場へ行くと、母が車で待っていた。
「もういいのね?」
母が泣き腫らした跡があるあいを案じて言った。頷き、車の後部座席に乗った。窓を降ろし、山南にも、これまでの礼を伝えた。
「僕はなにも。綾が、望んだことさ」
少し寂しげな、山南の微笑に見送られ、馬郷を出た。
馬郷を、家だと思ったことはない。心の故郷。あいにとっては、そんな場所だった。
入寮するのに必要な荷物は、昨日の朝、家を出る前にトランクに積んである。
あいを乗せた車は、一路、CRA競馬学校へ向かった。
綾と、年を越した。
年明け早々に雪が降り積もったが、交通が遮断されるほどではなかった。ここより少し北の、標高が高い地域では、区間通行止めになる場所もあったようだ。
馬郷の事務所の柱にある、日めくりカレンダーを、一枚、一枚、剥がしていった。
雪解けの水が、ちろちろと麓へ流れ、小川をつくった。
学校の卒業式が済んでからは、家と馬郷を行き来する日々だった。
天道とは以前ほどの頻度ではないものの連絡は取っていて、トレーニングメニューは試験以降もこなし続けている。
バス停から馬郷へ向かう道端に、ふきのとうが生っているのを見かけた。
あいは、さっと視線を反らし、足早に馬郷へ向かった。
月が満ち、欠けた。
「月齢二十四、一」
事務仕事を終えて出てきた山南が、夜空を見上げ、言った。
帰宅する山南を見送ってから、馬郷の厩舎で、綾と最後の夜を過ごした。
夜はまだかなり冷える。
綿入れを着込み、湯たんぽと寝袋に包まれば、なんとか寒さは凌げた。
綾と語り合ううちに、いつの間にか眠ってしまっていた。眠りながらも、綾の心臓の鼓動を、馬房越しに聞いていた気がする。
夜明け前に、綾に鼻で起こされた。
他の馬を起こさないよう、静かに馬房の柵を開け、厩舎を出た。
なだらかな丘になっている、牧草地の頂に、綾と立った。
南アルプスの陰から、陽の輪郭が出てくる。
綾が顔を寄せてきた。顎の下を撫でながら、陽が昇っていくのを見つめた。
やがて、馬郷がある山間の集落にも、陽の光が射してきた。すでに陽に輪郭はなく、直視していられいほどの眩さになっている。
「あいさん」
山南が、丘の下の方に立っていた。いま行きます、と返事をしてから、綾と向き合った。
「お母さんが、迎えに来たみたい」
別れの時が来た。綾もそれを理解していた。
「今まで、たくさん、ありがとう。いってきます」
あいは綾の鼻に触れてから、背を向け、歩き出した。
丘を半分ほど下った。
足が、石になったように、動かなくなった。心が、ふるえている。どうしようもなくなり、振り返った。
綾。一歩も動かずに、居た。
駆け戻り、その首を抱きしめていた。
涙がとめどなく溢れてくる。
互いに、言葉はなかった。嗚咽するあいを、綾は叱りも、励ましもしない。ただじっと、あいの涙が熄むのを待ってくれている。
「いっでぎまず」
綾から身を離した。洟水混じりに言って、再び背を向けた。
あい。私の、大切な姉妹。
綾の声がした。
あいは自分の弱さを振り切るように駆け出し、丘を一息に下った。
山南と、馬郷の駐車場へ行くと、母が車で待っていた。
「もういいのね?」
母が泣き腫らした跡があるあいを案じて言った。頷き、車の後部座席に乗った。窓を降ろし、山南にも、これまでの礼を伝えた。
「僕はなにも。綾が、望んだことさ」
少し寂しげな、山南の微笑に見送られ、馬郷を出た。
馬郷を、家だと思ったことはない。心の故郷。あいにとっては、そんな場所だった。
入寮するのに必要な荷物は、昨日の朝、家を出る前にトランクに積んである。
あいを乗せた車は、一路、CRA競馬学校へ向かった。
0
あなたにおすすめの小説
大人への門
相良武有
現代文学
思春期から大人へと向かう青春の一時期、それは驟雨の如くに激しく、強く、そして、短い。
が、男であれ女であれ、人はその時期に大人への確たる何かを、成熟した人生を送るのに無くてはならないものを掴む為に、喪失をも含めて、獲ち得るのである。人は人生の新しい局面を切り拓いて行くチャレンジャブルな大人への階段を、時には激しく、時には沈静して、昇降する。それは、驟雨の如く、強烈で、然も短く、将に人生の時の瞬なのである。
中1でEカップって巨乳だから熱く甘く生きたいと思う真理(マリー)と小説家を目指す男子、光(みつ)のラブな日常物語
jun( ̄▽ ̄)ノ
大衆娯楽
中1でバスト92cmのブラはEカップというマリーと小説家を目指す男子、光の日常ラブ
★作品はマリーの語り、一人称で進行します。
あるフィギュアスケーターの性事情
蔵屋
恋愛
この小説はフィクションです。
しかし、そのようなことが現実にあったかもしれません。
何故ならどんな人間も、悪魔や邪神や悪神に憑依された偽善者なのですから。
この物語は浅岡結衣(16才)とそのコーチ(25才)の恋の物語。
そのコーチの名前は高木文哉(25才)という。
この物語はフィクションです。
実在の人物、団体等とは、一切関係がありません。
ヤンデレ美少女転校生と共に体育倉庫に閉じ込められ、大問題になりましたが『結婚しています!』で乗り切った嘘のような本当の話
桜井正宗
青春
――結婚しています!
それは二人だけの秘密。
高校二年の遙と遥は結婚した。
近年法律が変わり、高校生(十六歳)からでも結婚できるようになっていた。だから、問題はなかった。
キッカケは、体育倉庫に閉じ込められた事件から始まった。校長先生に問い詰められ、とっさに誤魔化した。二人は退学の危機を乗り越える為に本当に結婚することにした。
ワケありヤンデレ美少女転校生の『小桜 遥』と”新婚生活”を開始する――。
*結婚要素あり
*ヤンデレ要素あり
わたしの下着 母の私をBBA~と呼ぶことのある息子がまさか...
MisakiNonagase
青春
39才の母・真知子は息子が私の下着を持ち出していることに気づいた。
ネットで同様の事象がないか調べると、案外多いようだ。
さて、真知子は息子を問い詰める? それとも気づかないふりを続けてあげるか?
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
上司、快楽に沈むまで
赤林檎
BL
完璧な男――それが、営業部課長・**榊(さかき)**の社内での評判だった。
冷静沈着、部下にも厳しい。私生活の噂すら立たないほどの隙のなさ。
だが、その“完璧”が崩れる日がくるとは、誰も想像していなかった。
入社三年目の篠原は、榊の直属の部下。
真面目だが強気で、どこか挑発的な笑みを浮かべる青年。
ある夜、取引先とのトラブル対応で二人だけが残ったオフィスで、
篠原は上司に向かって、いつもの穏やかな口調を崩した。「……そんな顔、部下には見せないんですね」
疲労で僅かに緩んだ榊の表情。
その弱さを見逃さず、篠原はデスク越しに距離を詰める。
「強がらなくていいですよ。俺の前では、もう」
指先が榊のネクタイを掴む。
引き寄せられた瞬間、榊の理性は音を立てて崩れた。
拒むことも、許すこともできないまま、
彼は“部下”の手によって、ひとつずつ乱されていく。
言葉で支配され、触れられるたびに、自分の知らなかった感情と快楽を知る。それは、上司としての誇りを壊すほどに甘く、逃れられないほどに深い。
だが、篠原の視線の奥に宿るのは、ただの欲望ではなかった。
そこには、ずっと榊だけを見つめ続けてきた、静かな執着がある。
「俺、前から思ってたんです。
あなたが誰かに“支配される”ところ、きっと綺麗だろうなって」
支配する側だったはずの男が、
支配されることで初めて“生きている”と感じてしまう――。
上司と部下、立場も理性も、すべてが絡み合うオフィスの夜。
秘密の扉を開けた榊は、もう戻れない。
快楽に溺れるその瞬間まで、彼を待つのは破滅か、それとも救いか。
――これは、ひとりの上司が“愛”という名の支配に沈んでいく物語。
診察室の午後<菜の花の丘編>その1
スピカナ
恋愛
神的イケメン医師・北原春樹と、病弱で天才的なアーティストである妻・莉子。
そして二人を愛してしまったイケメン御曹司・浅田夏輝。
「菜の花クリニック」と「サテライトセンター」を舞台に、三人の愛と日常が描かれます。
時に泣けて、時に笑える――溺愛とBL要素を含む、ほのぼの愛の物語。
多くのスタッフの人生がここで楽しく花開いていきます。
この小説は「医師の兄が溺愛する病弱な義妹を毎日診察する甘~い愛の物語」の1000話以降の続編です。
※医学描写と他もすべて架空です。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる