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第3話
綾 ④
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天道は、あいと一旦わかれ、中山競馬場の上階にある特別来賓室へ向かった。
「まだデビュー前だっていうのに、女帝の綽名は伊達じゃないなぁ」
「天道」
振り返った小早川が、部屋に入ってきた天道を見て、眉根を寄せた。
「そんな顔ばかりしていると、眉間に皺の跡がついちゃうぜ? あ、もう手遅れか」
「大きなお世話だ」
窓辺に立つ小早川と肩を並べた。
ターフが見下ろせた。
先ほど今春零が圧巻の一着で勝利を飾った模擬レースの様子を、小早川を含め、数名の関係者はここで観戦していたのだ。
他の関係者はすでにおらず、いまは二人だけだった。天井の照明や壁の中継モニターは切られ、部屋は薄暗い。
「ほぼ理想的な逃げだった。絶妙な緩急のつけ方で、先行する女帝にペースを乱されているとも気づかない子もいたんじゃないかな」
天道は、芝のスタンドから観戦していた。一緒だったあいは、零の、他の追随を許さぬ逃げに、かなり強烈な衝撃を受けたようだった。
見たところ、馬の差は、それほどなかったはずだ。
「熊谷は、気づいていた」
「そりゃ、現役騎手だもの。中央に来てまだ日は浅いけど、地方からの叩き上げではある」
「遅かった、いや、早過ぎたのか。お前はどう見る、天道」
「馬の脚を削られる前に仕掛けたのは、正解さ」
「そんなことはわかっている」
「女帝のペースだと気づくのが遅かったのか、そこから抜け出そうと逸ったのか。こればかりはなんとも言えないな。実際の競り合いの中でしか、感じ取れない機微はあるしね」
馬でも人間でも、一定のペースで駈けるのが最も負担が少ない。今春零は、レース開始直後、先頭に立つと、さりげなく緩急をつけて後続のペースを乱した。
レースで先頭を駈けることを、逃げ、と呼ぶ。
逃げで肝要なのは、どれだけ自分が騎乗する馬の体力、つまり脚を残しながら、後続を消耗させるかだった。
逃げがレースの主導権を奪るということ自体は、珍しくはない。
「結局、騎手は、馬との折り合いさ。熊谷はレース後半にかけて、本気で一着を狙いに行った。でも、届かなかった。女帝の方が馬と折り合えていて、馬の力を引き出しきった」
熊谷が最初から本気だったなら、あれほど一方的なレース展開にはならなかったかもしれない。
模擬レースでは、出走直後のポジショニングはある程度指示されている。その後の展開は騎手に任されているとはいえ、実際のレースのかけ引きとはやや異なる。
それを踏まえても、今春零の騎乗は、例年の見習い騎手のレベルをはるかに上回っていた。
「ありきたりな解説だ」
小早川が腕を組んだ。
「悪かったね、教官の君には、物足りない回答だった?」
「馬との折り合い。手綱さばき、鞭さばき。フィジカル。メンタル。優秀な騎手に必要な要素は、色々挙げられる。しかし、勝ち続けるごく一部の騎手だけが持つ、なにかがある。それは、運などというものでもない」
「わかるよ。言葉では言い表せないし、まして数値で測定できるものでもない。けど、確かにある」
「俺や、山南にはなかったものだ」
「僕にはあったって?」
小早川の顔を覗きこもうとして、そっぽを向かれた。
「その道の才能があっても、続けられないことはある。それこそ運さ」
運という言葉を、小早川は嫌っている。呪ってすらいるだろう。知っていて、天道はあえて使った。
「天道、お前、なにしに来たのだ」
「今年の入学試験で、僕の弟子が世話になったから、そのお礼を言いにね」
「お前に、弟子だと? ……藤刀あいか」
「よくわかったね」
「今年の受験生で、一番目立っていた」
「面白そうな子だったろ」
「騎手には向いていない、と俺は感じた」
「とか言って、最後の個人面談じゃ、わざわざ担当を替わってもらったんだろ。聞いたぜ。あいが気になったんだ?」
「知らん」
「精神的に追い詰められたシチュエーションでも、思考を止めず、勝ち筋を探し求められるか、どうか。個人面談を使って、あいを試したろ。で、君のその試練を、あいは突破した」
「勝手に妄想していろ。俺はもう行く」
天道の推察を冷たくあしらうと、小早川は部屋を出て行ってしまった。
「相変わらず、素直じゃないねぇ」
あいとは、四時にベンジャミンが植えられている地下広場で待ち合わせていた。
壁の時計に目をやると、すでに四時を回っていた。
地下広場に行くと、あいが待っていた。
なぜか、前髪を角のようにゴムで結んでいる。
「わぉ、かわいいね」
「か、からかわないでください。これは、零ちゃんが」
どうやら、少し前まであいは、模擬レースを終えたばかりの今春零と一緒にいたらしい。
なにがどうしてそうなったのか、天道は車に戻りがてら聞くことにした。
「まだデビュー前だっていうのに、女帝の綽名は伊達じゃないなぁ」
「天道」
振り返った小早川が、部屋に入ってきた天道を見て、眉根を寄せた。
「そんな顔ばかりしていると、眉間に皺の跡がついちゃうぜ? あ、もう手遅れか」
「大きなお世話だ」
窓辺に立つ小早川と肩を並べた。
ターフが見下ろせた。
先ほど今春零が圧巻の一着で勝利を飾った模擬レースの様子を、小早川を含め、数名の関係者はここで観戦していたのだ。
他の関係者はすでにおらず、いまは二人だけだった。天井の照明や壁の中継モニターは切られ、部屋は薄暗い。
「ほぼ理想的な逃げだった。絶妙な緩急のつけ方で、先行する女帝にペースを乱されているとも気づかない子もいたんじゃないかな」
天道は、芝のスタンドから観戦していた。一緒だったあいは、零の、他の追随を許さぬ逃げに、かなり強烈な衝撃を受けたようだった。
見たところ、馬の差は、それほどなかったはずだ。
「熊谷は、気づいていた」
「そりゃ、現役騎手だもの。中央に来てまだ日は浅いけど、地方からの叩き上げではある」
「遅かった、いや、早過ぎたのか。お前はどう見る、天道」
「馬の脚を削られる前に仕掛けたのは、正解さ」
「そんなことはわかっている」
「女帝のペースだと気づくのが遅かったのか、そこから抜け出そうと逸ったのか。こればかりはなんとも言えないな。実際の競り合いの中でしか、感じ取れない機微はあるしね」
馬でも人間でも、一定のペースで駈けるのが最も負担が少ない。今春零は、レース開始直後、先頭に立つと、さりげなく緩急をつけて後続のペースを乱した。
レースで先頭を駈けることを、逃げ、と呼ぶ。
逃げで肝要なのは、どれだけ自分が騎乗する馬の体力、つまり脚を残しながら、後続を消耗させるかだった。
逃げがレースの主導権を奪るということ自体は、珍しくはない。
「結局、騎手は、馬との折り合いさ。熊谷はレース後半にかけて、本気で一着を狙いに行った。でも、届かなかった。女帝の方が馬と折り合えていて、馬の力を引き出しきった」
熊谷が最初から本気だったなら、あれほど一方的なレース展開にはならなかったかもしれない。
模擬レースでは、出走直後のポジショニングはある程度指示されている。その後の展開は騎手に任されているとはいえ、実際のレースのかけ引きとはやや異なる。
それを踏まえても、今春零の騎乗は、例年の見習い騎手のレベルをはるかに上回っていた。
「ありきたりな解説だ」
小早川が腕を組んだ。
「悪かったね、教官の君には、物足りない回答だった?」
「馬との折り合い。手綱さばき、鞭さばき。フィジカル。メンタル。優秀な騎手に必要な要素は、色々挙げられる。しかし、勝ち続けるごく一部の騎手だけが持つ、なにかがある。それは、運などというものでもない」
「わかるよ。言葉では言い表せないし、まして数値で測定できるものでもない。けど、確かにある」
「俺や、山南にはなかったものだ」
「僕にはあったって?」
小早川の顔を覗きこもうとして、そっぽを向かれた。
「その道の才能があっても、続けられないことはある。それこそ運さ」
運という言葉を、小早川は嫌っている。呪ってすらいるだろう。知っていて、天道はあえて使った。
「天道、お前、なにしに来たのだ」
「今年の入学試験で、僕の弟子が世話になったから、そのお礼を言いにね」
「お前に、弟子だと? ……藤刀あいか」
「よくわかったね」
「今年の受験生で、一番目立っていた」
「面白そうな子だったろ」
「騎手には向いていない、と俺は感じた」
「とか言って、最後の個人面談じゃ、わざわざ担当を替わってもらったんだろ。聞いたぜ。あいが気になったんだ?」
「知らん」
「精神的に追い詰められたシチュエーションでも、思考を止めず、勝ち筋を探し求められるか、どうか。個人面談を使って、あいを試したろ。で、君のその試練を、あいは突破した」
「勝手に妄想していろ。俺はもう行く」
天道の推察を冷たくあしらうと、小早川は部屋を出て行ってしまった。
「相変わらず、素直じゃないねぇ」
あいとは、四時にベンジャミンが植えられている地下広場で待ち合わせていた。
壁の時計に目をやると、すでに四時を回っていた。
地下広場に行くと、あいが待っていた。
なぜか、前髪を角のようにゴムで結んでいる。
「わぉ、かわいいね」
「か、からかわないでください。これは、零ちゃんが」
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