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第5話
日本ダービーと師弟
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ゴールデンウィーク中、厩務員課程生は三日間の外泊が許された。
その間、実家に帰省していた加奈恵が、学校に帰って来た。
「ウチがおらんくて、寂しくしとらんかった、あい?」
「あわわわ、か、加奈恵、苦しいよ」
顔を合わせるなり、加奈恵はあいの頭をぐりぐりと撫でまわした。
「おっと、あかんあかん。堪忍な。お詫びにほい、お土産」
リュックサックから菓子の詰め合わせの箱を取り出した。
「これ、サブレなんやけどな、たこ焼き風にお好み焼き風、串カツ風の三種類あるねん」
「へ、へえ」
「ほれ、そっちの男ども。ついでにあんたらの分も買うてきたから、持っていき」
今日は騎手課程生に与えられた、週に一度の休養日だった。
朝の厩舎作業を終えた一学年の七人は、本館にある、競走馬を模してつくられた木馬で自主トレーニングをしている最中だった。
騎手課程生は卒業まで外泊できず、休養日に外出が許されているだけだった。
その休養日すら、オーバーワークにならない程度に、トレーニングに割く学生が少なくなかった。
「どうも、ありがとう」
水分補給のため木馬を降りていた正士郎が、愛想よく微笑み、加奈恵のお土産を受け取った。
「すごいな、全部ソース味なんだね」
「あぁ? あほかジブン。たこ焼きにはたこ焼きソース、お好み焼きにはお好み焼きソース、串カツには串カツソース。全部違うソースや」
「ソースにも、色々とあるんだね。勉強になったよ」
「なんや、その薄っぺらい作り笑い。いけ好かんやっちゃな」
加奈恵がじろりと睨みつける。正士郎は涼しげな笑みのままだが、そこはかとなく不穏な気配が漂っている。
あいほどではないにしろ、正士郎も男にしては小柄で、上背のある加奈恵と正対すると、見上げるような恰好になる。
「ジブン、名前は」
「諏訪正士郎」
「スワ、諏訪、ああ、今年入学した諏訪騎手の息子て、ジブンか」
父が話題に出ると、正士郎の笑みが一瞬、引き攣ったような気がした。
「正士郎」
「わかっているよ」
後ろから大矢に名を呼ばれ、正士郎は息を吐いた。
「なんや、わけありか? ま、ええわ。ひと様の家のこと、あれこれ詮索する趣味はあらへん。あい、まだトレーニング続けるんか?」
「う、うん」
「ほな、またあとでな。トレーニング中に邪魔してごめんな」
二人の剣呑な空気にはらはらとしていたあいは、ほっと胸をなでおろした。
「大矢、これ、お前の寮のロッカーに入れといてくれ」
「ん、ああ」
正士郎は加奈恵の土産を大矢に手渡し、昨日から使用許可が下りた、通常の木馬より負荷が大きい青色の木馬で、トレーニングを再開した。
翌日、あいは実技訓練でサファイアジャケットに乗った。
すでにオクサーも跳べるまでになっている。
ただ、サファイアは相変わらず警戒心が強く、あいと加奈恵以外の人間はおいそれと近づけなかった。
サファイアのことは、ゴールデンウィーク前に加奈恵に紹介していた。
あいと親しい間柄にあると察したのか、サファイアはすんなりと加奈恵を受け入れた。
これまでは、教官の指示に従う訓練ばかりだったが、今日は学生自身が担当馬の課題を考え、その課題に適した運動に取り組むように言われた。
こうした騎手の思考力を培う訓練を、今後は週に一、二回ほど組み入れていく、と小早川から訓練終わりに話があった。
昼食を挟み、午後の学科はフィジカルトレーニングだった。
体操着に着替え、体育館に集合した。
体育館には様々な道具が用意されている。バランスボールやトランポリンなど、騎乗で重要な体幹を鍛える目的のものが多い。
筋肉も必要だが、多ければいい、ということでもなかった。
フィジカルトレーニングを担当するトレーナーは、重要なのは身体操作性で、脳内のイメージと現実の躰の動きをどれだけ一致させられているか、だと言う。
トレーニングの内容も様々だった。
「今日は、まず綱登りからはじめるか」
普段はスポーツ選手のトレーニングコーチもしているトレーナーが、準備体操を終えたあいたちに、体育館の天井から吊るされた綱を指した。
七人はきびきびと綱が吊るされた一角に移動した。
綱の吊るされた場所には、下に安全のためマットが敷いてあり、傍には踏切板があった。
綱登りとは別に、踏切板を使い、空中の縄に飛びつき、振り子のように揺らして次々に綱を渡っていく、というトレーニングもあった。
そのトレーニングでは、あいは、いまのところ二本目の綱に移るので精一杯だったが、他の同期は、七本ある綱の四、五本目までは進めている。正士郎などは、ほとんど失敗せず、七本を渡りきっていた。
壁際にある籠からバレーボールを取り、マットに上がった。
ボールを膝に挟み、綱に取りついた。フィジカルトレーニングでの綱登りは、脚は使わず、上半身の力だけで登っていく。
綱が揺れる。その揺れのタイミングに合わせて、全身を上へと引き上げる。
最初にこのトレーニングをやったときは、闇雲に登ろうとして、何度も綱に振り落とされた。タイミングなのだとわかったのは、二回目からだった。
綱の三分の一まできたところで、腕が痺れてきた。筋肉が足りていないのもあるが、登るのに時間がかかり過ぎていた。
隣の正士郎の足先が、視界の隅を掠めた。あいが一拍に一つ登るのに対して、正士郎は一拍の四つ登る。つまり正士郎は、一拍四拍子のリズムで、登るタイミングを掴んでいるのだ。
「こ、のっ」
根性で、綱に食らいつこうとして、バランスを崩した。天井が、同期の背が、遠ざかる。
「藤刀さん、大丈夫ですか」
トレーナーが駆け寄ってきて、起きあがるのに手を貸してくれた。
「は、はい」
「登るのに一生懸命になるのはいいことです。でも、落ちる時は受け身をとりましょう。怪我をしては元も子もない」
「気を、つけます」
柔道の受け身のとり方を学ぶ授業があった。また、フィジカルトレーニングの初日は、前転、後転といった、基本的なマット運動からはじまり、様子を見ながら負荷のかかる内容が加えられていた。
騎手を養成するのが最終目的であるのは当然だが、その間のカリキュラムは、学生が怪我をしないことを第一に考えられている。
トレーニングの後半は、バランスボールに中腰で立ち、鞭を振るった。このトレーニングは、鞭の扱いを覚えることより、不安定な足場の上でも自在に動ける体幹を身に付けるのが目的だった。
しかし、あたかも騎手になったような気分になれるのか、同期は活き活きと鞭を振るっている。
あいの気分は浮かなかった。
鞭で空を切る感触が苦手だった。この鞭で、馬を打つのだ。考えるだけで、暗い気持ちになる。
それでも、騎手になるには避けられないことだった。
その間、実家に帰省していた加奈恵が、学校に帰って来た。
「ウチがおらんくて、寂しくしとらんかった、あい?」
「あわわわ、か、加奈恵、苦しいよ」
顔を合わせるなり、加奈恵はあいの頭をぐりぐりと撫でまわした。
「おっと、あかんあかん。堪忍な。お詫びにほい、お土産」
リュックサックから菓子の詰め合わせの箱を取り出した。
「これ、サブレなんやけどな、たこ焼き風にお好み焼き風、串カツ風の三種類あるねん」
「へ、へえ」
「ほれ、そっちの男ども。ついでにあんたらの分も買うてきたから、持っていき」
今日は騎手課程生に与えられた、週に一度の休養日だった。
朝の厩舎作業を終えた一学年の七人は、本館にある、競走馬を模してつくられた木馬で自主トレーニングをしている最中だった。
騎手課程生は卒業まで外泊できず、休養日に外出が許されているだけだった。
その休養日すら、オーバーワークにならない程度に、トレーニングに割く学生が少なくなかった。
「どうも、ありがとう」
水分補給のため木馬を降りていた正士郎が、愛想よく微笑み、加奈恵のお土産を受け取った。
「すごいな、全部ソース味なんだね」
「あぁ? あほかジブン。たこ焼きにはたこ焼きソース、お好み焼きにはお好み焼きソース、串カツには串カツソース。全部違うソースや」
「ソースにも、色々とあるんだね。勉強になったよ」
「なんや、その薄っぺらい作り笑い。いけ好かんやっちゃな」
加奈恵がじろりと睨みつける。正士郎は涼しげな笑みのままだが、そこはかとなく不穏な気配が漂っている。
あいほどではないにしろ、正士郎も男にしては小柄で、上背のある加奈恵と正対すると、見上げるような恰好になる。
「ジブン、名前は」
「諏訪正士郎」
「スワ、諏訪、ああ、今年入学した諏訪騎手の息子て、ジブンか」
父が話題に出ると、正士郎の笑みが一瞬、引き攣ったような気がした。
「正士郎」
「わかっているよ」
後ろから大矢に名を呼ばれ、正士郎は息を吐いた。
「なんや、わけありか? ま、ええわ。ひと様の家のこと、あれこれ詮索する趣味はあらへん。あい、まだトレーニング続けるんか?」
「う、うん」
「ほな、またあとでな。トレーニング中に邪魔してごめんな」
二人の剣呑な空気にはらはらとしていたあいは、ほっと胸をなでおろした。
「大矢、これ、お前の寮のロッカーに入れといてくれ」
「ん、ああ」
正士郎は加奈恵の土産を大矢に手渡し、昨日から使用許可が下りた、通常の木馬より負荷が大きい青色の木馬で、トレーニングを再開した。
翌日、あいは実技訓練でサファイアジャケットに乗った。
すでにオクサーも跳べるまでになっている。
ただ、サファイアは相変わらず警戒心が強く、あいと加奈恵以外の人間はおいそれと近づけなかった。
サファイアのことは、ゴールデンウィーク前に加奈恵に紹介していた。
あいと親しい間柄にあると察したのか、サファイアはすんなりと加奈恵を受け入れた。
これまでは、教官の指示に従う訓練ばかりだったが、今日は学生自身が担当馬の課題を考え、その課題に適した運動に取り組むように言われた。
こうした騎手の思考力を培う訓練を、今後は週に一、二回ほど組み入れていく、と小早川から訓練終わりに話があった。
昼食を挟み、午後の学科はフィジカルトレーニングだった。
体操着に着替え、体育館に集合した。
体育館には様々な道具が用意されている。バランスボールやトランポリンなど、騎乗で重要な体幹を鍛える目的のものが多い。
筋肉も必要だが、多ければいい、ということでもなかった。
フィジカルトレーニングを担当するトレーナーは、重要なのは身体操作性で、脳内のイメージと現実の躰の動きをどれだけ一致させられているか、だと言う。
トレーニングの内容も様々だった。
「今日は、まず綱登りからはじめるか」
普段はスポーツ選手のトレーニングコーチもしているトレーナーが、準備体操を終えたあいたちに、体育館の天井から吊るされた綱を指した。
七人はきびきびと綱が吊るされた一角に移動した。
綱の吊るされた場所には、下に安全のためマットが敷いてあり、傍には踏切板があった。
綱登りとは別に、踏切板を使い、空中の縄に飛びつき、振り子のように揺らして次々に綱を渡っていく、というトレーニングもあった。
そのトレーニングでは、あいは、いまのところ二本目の綱に移るので精一杯だったが、他の同期は、七本ある綱の四、五本目までは進めている。正士郎などは、ほとんど失敗せず、七本を渡りきっていた。
壁際にある籠からバレーボールを取り、マットに上がった。
ボールを膝に挟み、綱に取りついた。フィジカルトレーニングでの綱登りは、脚は使わず、上半身の力だけで登っていく。
綱が揺れる。その揺れのタイミングに合わせて、全身を上へと引き上げる。
最初にこのトレーニングをやったときは、闇雲に登ろうとして、何度も綱に振り落とされた。タイミングなのだとわかったのは、二回目からだった。
綱の三分の一まできたところで、腕が痺れてきた。筋肉が足りていないのもあるが、登るのに時間がかかり過ぎていた。
隣の正士郎の足先が、視界の隅を掠めた。あいが一拍に一つ登るのに対して、正士郎は一拍の四つ登る。つまり正士郎は、一拍四拍子のリズムで、登るタイミングを掴んでいるのだ。
「こ、のっ」
根性で、綱に食らいつこうとして、バランスを崩した。天井が、同期の背が、遠ざかる。
「藤刀さん、大丈夫ですか」
トレーナーが駆け寄ってきて、起きあがるのに手を貸してくれた。
「は、はい」
「登るのに一生懸命になるのはいいことです。でも、落ちる時は受け身をとりましょう。怪我をしては元も子もない」
「気を、つけます」
柔道の受け身のとり方を学ぶ授業があった。また、フィジカルトレーニングの初日は、前転、後転といった、基本的なマット運動からはじまり、様子を見ながら負荷のかかる内容が加えられていた。
騎手を養成するのが最終目的であるのは当然だが、その間のカリキュラムは、学生が怪我をしないことを第一に考えられている。
トレーニングの後半は、バランスボールに中腰で立ち、鞭を振るった。このトレーニングは、鞭の扱いを覚えることより、不安定な足場の上でも自在に動ける体幹を身に付けるのが目的だった。
しかし、あたかも騎手になったような気分になれるのか、同期は活き活きと鞭を振るっている。
あいの気分は浮かなかった。
鞭で空を切る感触が苦手だった。この鞭で、馬を打つのだ。考えるだけで、暗い気持ちになる。
それでも、騎手になるには避けられないことだった。
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