26 / 43
第5話
師弟と日本ダービー ②
しおりを挟む
ほんの僅かな間、馬車に目を奪われていただけだった。
しかし、なぜか、気づくと正士郎たちとはぐれていた。
引率として同行していた、年配でごま塩頭の教官の姿もない。
競馬場で迷子になるのは、これが二度目だった。
前回は中山競馬場だったが、今回は東京競馬場である。
あいはぽつねんと途方に暮れていた。道端の花壇では、ちょっと皮肉なほどに、鮮やかな花が咲き並んでいる。
そこへ、子どものはしゃぐ声が聞こえてきた。
入場口を通って程近くに、馬を放し飼いにしている囲いがあった。そこでは馬と触れ合ったり、乗馬体験ができるらしく、日曜日ということもあり、子供連れの家族をちらほらと見かける。
朝の厩舎作業を終えてから学校を出発し、東京競馬場へ到着したのが九時過ぎだった。第一レースははじまっている。今日ここへ連れて来られたのは、午後の第十一レース、日本ダービーの観戦が目的だった。
「確か、日本ダービーは三時過ぎからだっけ。うん、まだ四時間もあるし、それまでには、ぜったい合流できるよ、うん」
小声で自らに言い聞かせ、さぁ行こうと意気込んで振り返ると、ちょうど後ろからやって来ていた歩行者とまともにぶつかってしまった。
「おっと、ごめんね。怪我はない?」
大人の女の声がして、白く艶めかしい手が差し伸べられた。
「ひゃ、ひゃい」
声を裏返るほど慌てて返事をし、視線を上げると、眼前に、今にも服からこぼれだしそうな豊満な胸があった。
「?」
束の間、あいが放心していると、女は屈みこんで膝を抱える恰好をした。
「もしかしてどこか痛めちゃった?」
「あ、いえ、大丈夫です」
あいが立ち上がると、女はふやけた笑みを浮かべた。
「よかったぁ。怪我させちゃったかと思ったよ」
チューブトップの上に初夏らしい色のシャツを羽織った、三十前後の女だった。
化粧らしい化粧はしていないが、くっきりとした目鼻立ちをしている。そして、どことなく隙の多い雰囲気がある。
競馬新聞を小脇に挟み、片手にはカップ酒を携えていた。
「ぶつかっちゃってごめんねぇ」
「そんな、私の方こそ、すみませんでした」
「わはは、いいよぉ。それより、ほんとに平気? 怪我してない?」
女は覚束ない足取りであいを見回した。その身からは、色気以上に、酒の匂いが漂ってくる。
「んん、その服、もしかして、中央競馬学校の制服?」
「あ、はい。ここの見学に来て、皆とはぐれちゃって」
「なぁるほどぉ。未来のジョッキーさんだったのかぁ」
「え、えへへ、そんな、私なんて、まだまだひよっこで」
「そんなことないよぉ。うんうん、確かに言われてみれば、どことなくそれっぽいもの」
「い、いえ、私なんて、ひよこどころか、タマゴですから」
「またまたぁ」
「いえいえ」
人から煽てられた経験のないあいは、それ故に気づかないのである。酒でとろんとした女の目の奥に、欲望の光が宿っていることに。
「ね、名前はなんて言うの? あ、私はねぇ、駒沢美冬っていうんだぁ」
「美冬さん、ですか。私は藤刀あいです」
「あいちゃんかぁ。よぅし、せっかくこうして出会えたんだし、私がここを案内してあげるよ」
任せとけ、とでも言うように、美冬は背を反らし握り拳で胸を打った。拳がぼよんと弾む。
「え、でも私、皆と合流しないと」
「だぁいじょうぶだよぉ。私もここには何回も、んや、何十回と来てるから、ちょう詳しいよ」
「そ、そういう問題じゃ」
話の雲行きが怪しくなってきたことを感じとり、あいが後退ろうとすると、先ほどからの緩慢な仕草からはちょっと想像できないぐらいの俊敏さで、美冬に背後をとられた。
両肩を押さえられると、身動きがとれなくなった。
「ちなみにさ、あいちゃん、馬券って買ったことある?」
耳元で、美冬が酒気混じりに囁いてくる。
「い、いえ、まだ、十四歳なので」
「そうだよねぇ。大丈夫、馬券を買うのは私だから、あいちゃんは、ちょっちアドバイスくれるだけで、ね」
「だ、大丈夫って、なにがですか。それに、アドバイスって言われても」
「この馬が走りそうだな、っていうのを、教えてくれるだけでいいの。難関の中央競馬の学校に入学できるぐらいだから、きっと見る目もあるよ」
「そんなのないです。それに、私、今日どんな馬がレースに出るのかも知らないです」
「おっけ、じゃ、今日の出走馬の、前走のレース動画を観よう。多いけど、いまからなら第五レースまでには間に合うはず。あとは、パドックでの様子を見て、さ」
第五レースは、昼頃開始のはずだったと、あいは頭の中で思い浮かべた。
「それから青嵐賞、薫風ステークス、むらさき賞とあって、大本命の日本ダービー。あいちゃん、一緒に夢を掴んじゃおう」
「で、でも、騎手が競馬のアドバイスとかすると、ペナルティがあるって、授業で習ったんですけど」
「あいちゃんはまだ学生じゃん。セーフだよ、セーフ」
美冬の腕が、獲物を逃がすまいとする蛇のように、しゅるりと絡みついてくる。その腕の中で、あいは生まれたての小鹿のように震えるしかない。
「ひ、ひぃい」
「あ、でも、一応騒ぎになるとまずいから、私のシャツ、上に羽織っておこっか」
美冬の目は、本気である。
馬蹄の音を鳴らしながら、馬車が道の向こうからやってきた。厳かな車輪に、光沢のある革張りのソファ。御者は立体感のあるダブルのベストを着こなし、馬車を引く馬は誇り高い表情をしている。
まるで童話から抜け出してきたみたいな、この馬車に見惚れなければ、とあいは悔やんだが、あとの祭りだった。
しかし、なぜか、気づくと正士郎たちとはぐれていた。
引率として同行していた、年配でごま塩頭の教官の姿もない。
競馬場で迷子になるのは、これが二度目だった。
前回は中山競馬場だったが、今回は東京競馬場である。
あいはぽつねんと途方に暮れていた。道端の花壇では、ちょっと皮肉なほどに、鮮やかな花が咲き並んでいる。
そこへ、子どものはしゃぐ声が聞こえてきた。
入場口を通って程近くに、馬を放し飼いにしている囲いがあった。そこでは馬と触れ合ったり、乗馬体験ができるらしく、日曜日ということもあり、子供連れの家族をちらほらと見かける。
朝の厩舎作業を終えてから学校を出発し、東京競馬場へ到着したのが九時過ぎだった。第一レースははじまっている。今日ここへ連れて来られたのは、午後の第十一レース、日本ダービーの観戦が目的だった。
「確か、日本ダービーは三時過ぎからだっけ。うん、まだ四時間もあるし、それまでには、ぜったい合流できるよ、うん」
小声で自らに言い聞かせ、さぁ行こうと意気込んで振り返ると、ちょうど後ろからやって来ていた歩行者とまともにぶつかってしまった。
「おっと、ごめんね。怪我はない?」
大人の女の声がして、白く艶めかしい手が差し伸べられた。
「ひゃ、ひゃい」
声を裏返るほど慌てて返事をし、視線を上げると、眼前に、今にも服からこぼれだしそうな豊満な胸があった。
「?」
束の間、あいが放心していると、女は屈みこんで膝を抱える恰好をした。
「もしかしてどこか痛めちゃった?」
「あ、いえ、大丈夫です」
あいが立ち上がると、女はふやけた笑みを浮かべた。
「よかったぁ。怪我させちゃったかと思ったよ」
チューブトップの上に初夏らしい色のシャツを羽織った、三十前後の女だった。
化粧らしい化粧はしていないが、くっきりとした目鼻立ちをしている。そして、どことなく隙の多い雰囲気がある。
競馬新聞を小脇に挟み、片手にはカップ酒を携えていた。
「ぶつかっちゃってごめんねぇ」
「そんな、私の方こそ、すみませんでした」
「わはは、いいよぉ。それより、ほんとに平気? 怪我してない?」
女は覚束ない足取りであいを見回した。その身からは、色気以上に、酒の匂いが漂ってくる。
「んん、その服、もしかして、中央競馬学校の制服?」
「あ、はい。ここの見学に来て、皆とはぐれちゃって」
「なぁるほどぉ。未来のジョッキーさんだったのかぁ」
「え、えへへ、そんな、私なんて、まだまだひよっこで」
「そんなことないよぉ。うんうん、確かに言われてみれば、どことなくそれっぽいもの」
「い、いえ、私なんて、ひよこどころか、タマゴですから」
「またまたぁ」
「いえいえ」
人から煽てられた経験のないあいは、それ故に気づかないのである。酒でとろんとした女の目の奥に、欲望の光が宿っていることに。
「ね、名前はなんて言うの? あ、私はねぇ、駒沢美冬っていうんだぁ」
「美冬さん、ですか。私は藤刀あいです」
「あいちゃんかぁ。よぅし、せっかくこうして出会えたんだし、私がここを案内してあげるよ」
任せとけ、とでも言うように、美冬は背を反らし握り拳で胸を打った。拳がぼよんと弾む。
「え、でも私、皆と合流しないと」
「だぁいじょうぶだよぉ。私もここには何回も、んや、何十回と来てるから、ちょう詳しいよ」
「そ、そういう問題じゃ」
話の雲行きが怪しくなってきたことを感じとり、あいが後退ろうとすると、先ほどからの緩慢な仕草からはちょっと想像できないぐらいの俊敏さで、美冬に背後をとられた。
両肩を押さえられると、身動きがとれなくなった。
「ちなみにさ、あいちゃん、馬券って買ったことある?」
耳元で、美冬が酒気混じりに囁いてくる。
「い、いえ、まだ、十四歳なので」
「そうだよねぇ。大丈夫、馬券を買うのは私だから、あいちゃんは、ちょっちアドバイスくれるだけで、ね」
「だ、大丈夫って、なにがですか。それに、アドバイスって言われても」
「この馬が走りそうだな、っていうのを、教えてくれるだけでいいの。難関の中央競馬の学校に入学できるぐらいだから、きっと見る目もあるよ」
「そんなのないです。それに、私、今日どんな馬がレースに出るのかも知らないです」
「おっけ、じゃ、今日の出走馬の、前走のレース動画を観よう。多いけど、いまからなら第五レースまでには間に合うはず。あとは、パドックでの様子を見て、さ」
第五レースは、昼頃開始のはずだったと、あいは頭の中で思い浮かべた。
「それから青嵐賞、薫風ステークス、むらさき賞とあって、大本命の日本ダービー。あいちゃん、一緒に夢を掴んじゃおう」
「で、でも、騎手が競馬のアドバイスとかすると、ペナルティがあるって、授業で習ったんですけど」
「あいちゃんはまだ学生じゃん。セーフだよ、セーフ」
美冬の腕が、獲物を逃がすまいとする蛇のように、しゅるりと絡みついてくる。その腕の中で、あいは生まれたての小鹿のように震えるしかない。
「ひ、ひぃい」
「あ、でも、一応騒ぎになるとまずいから、私のシャツ、上に羽織っておこっか」
美冬の目は、本気である。
馬蹄の音を鳴らしながら、馬車が道の向こうからやってきた。厳かな車輪に、光沢のある革張りのソファ。御者は立体感のあるダブルのベストを着こなし、馬車を引く馬は誇り高い表情をしている。
まるで童話から抜け出してきたみたいな、この馬車に見惚れなければ、とあいは悔やんだが、あとの祭りだった。
0
あなたにおすすめの小説
中1でEカップって巨乳だから熱く甘く生きたいと思う真理(マリー)と小説家を目指す男子、光(みつ)のラブな日常物語
jun( ̄▽ ̄)ノ
大衆娯楽
中1でバスト92cmのブラはEカップというマリーと小説家を目指す男子、光の日常ラブ
★作品はマリーの語り、一人称で進行します。
地味男はイケメン元総長
緋村燐
青春
高校一年になったばかりの灯里は、メイクオタクである事を秘密にしながら地味子として過ごしていた。
GW前に、校外学習の班の親交を深めようという事で遊園地に行くことになった灯里達。
お化け屋敷に地味男の陸斗と入るとハプニングが!
「なぁ、オレの秘密知っちゃった?」
「誰にも言わないからっ! だから代わりに……」
ヒミツの関係はじめよう?
*野いちごに掲載しているものを改稿した作品です。
野いちご様
ベリーズカフェ様
エブリスタ様
カクヨム様
にも掲載しています。
あるフィギュアスケーターの性事情
蔵屋
恋愛
この小説はフィクションです。
しかし、そのようなことが現実にあったかもしれません。
何故ならどんな人間も、悪魔や邪神や悪神に憑依された偽善者なのですから。
この物語は浅岡結衣(16才)とそのコーチ(25才)の恋の物語。
そのコーチの名前は高木文哉(25才)という。
この物語はフィクションです。
実在の人物、団体等とは、一切関係がありません。
大人への門
相良武有
現代文学
思春期から大人へと向かう青春の一時期、それは驟雨の如くに激しく、強く、そして、短い。
が、男であれ女であれ、人はその時期に大人への確たる何かを、成熟した人生を送るのに無くてはならないものを掴む為に、喪失をも含めて、獲ち得るのである。人は人生の新しい局面を切り拓いて行くチャレンジャブルな大人への階段を、時には激しく、時には沈静して、昇降する。それは、驟雨の如く、強烈で、然も短く、将に人生の時の瞬なのである。
上司、快楽に沈むまで
赤林檎
BL
完璧な男――それが、営業部課長・**榊(さかき)**の社内での評判だった。
冷静沈着、部下にも厳しい。私生活の噂すら立たないほどの隙のなさ。
だが、その“完璧”が崩れる日がくるとは、誰も想像していなかった。
入社三年目の篠原は、榊の直属の部下。
真面目だが強気で、どこか挑発的な笑みを浮かべる青年。
ある夜、取引先とのトラブル対応で二人だけが残ったオフィスで、
篠原は上司に向かって、いつもの穏やかな口調を崩した。「……そんな顔、部下には見せないんですね」
疲労で僅かに緩んだ榊の表情。
その弱さを見逃さず、篠原はデスク越しに距離を詰める。
「強がらなくていいですよ。俺の前では、もう」
指先が榊のネクタイを掴む。
引き寄せられた瞬間、榊の理性は音を立てて崩れた。
拒むことも、許すこともできないまま、
彼は“部下”の手によって、ひとつずつ乱されていく。
言葉で支配され、触れられるたびに、自分の知らなかった感情と快楽を知る。それは、上司としての誇りを壊すほどに甘く、逃れられないほどに深い。
だが、篠原の視線の奥に宿るのは、ただの欲望ではなかった。
そこには、ずっと榊だけを見つめ続けてきた、静かな執着がある。
「俺、前から思ってたんです。
あなたが誰かに“支配される”ところ、きっと綺麗だろうなって」
支配する側だったはずの男が、
支配されることで初めて“生きている”と感じてしまう――。
上司と部下、立場も理性も、すべてが絡み合うオフィスの夜。
秘密の扉を開けた榊は、もう戻れない。
快楽に溺れるその瞬間まで、彼を待つのは破滅か、それとも救いか。
――これは、ひとりの上司が“愛”という名の支配に沈んでいく物語。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる