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第5話
師弟と日本ダービー ③
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正士郎は、東京競馬場の場内を走り回っていた。
引率の老教官、落合から、はぐれて行方不明になったあいの捜索を共に頼まれたのだ。
なぜ自分が、とは思ったが、断れはしなかった。
老教官は日頃から柔和な微笑を湛え、仏の落合、と呼ばれる人だったが、有無を言わせず人を従える妙な圧があった。
鬼教官として学生の間で恐れられているあの小早川も、落合には頭が上がらないようだった。
そうでなくとも、教官の指示は絶対で、それは校外学習の最中でも変わらなかった。
「あのこけし女、どこに行ったんだ」
周りに知人はおらず、つい、優等生の仮面が剥がれ、悪態が口をつく。こけしのような髪型だとは、常々、心中では思っていたことだ。
この頃、あいに苛立つことが増えてきていた。
ゴールデンウィーク前に、雨天練習用の覆馬場で球技大会が催され、同期でチームに分かれてサッカーをやった。
そこで、あいはことごとく足を引っ張った。
手を抜いているのではなく、純粋に下手なのだとは、必死にボールを追おうとする姿を見ていれば伝わってきた。
所詮はレクリエーションで、同じチームで負けたからといって責める同期はいなかった。
あいの運動音痴は、フィジカルトレーニングなどで全員が承知している。大矢などが、意気消沈するあいを慰めたりもしていた。
日頃の生活でも、ことあるごとに、あいのどんくささは目立った。
東京競馬場へ来て、一人で迷子になっている現状が、まさにいい例だった。
その度に、同期の中で学級委員的な扱いをされるようになってきた正士郎が、尻ぬぐいをしていた。
それ自体は、構わなかった。
善良な仮面を被り、優等生として振舞っているのは、ほかならぬ正士郎の意志だった。
自分の生活に支障をきたさない程度に、不出来な同期の世話をするぐらい、どうということはない。
正士郎が肚《はら》に据えかねているのは、ただ一点。
あいの乗馬能力が、かなり高いことだった。
実技訓練では、自分と同じか、あるいはそれ以上に、馬を乗りこなす。まだ基礎馬術の段階だが、馬との折り合いには卓越したものがあった。
そこが、気に食わなかった。
なぜ、普段はあれほど不器用で、どんくさいやつが、と思わざるを得ない。
担当馬であるサファイアジャケットに関しても、若く、難しい気性に難渋したのは数日だけだった。障害飛越のクロスバーを成功させて以来、すっかり心を通い合わせていた。
気性を抜きにすれば、脚力のある馬だった。まだ若く、レースでも通用するポテンシャルはありそうなくらいなのだ。
その青毛の馬が、あいにしか懐かず、それ以外は近寄るのも認めようとしないことも、肚が立った。
ただ、そうしたどろどろとした感情を、人前で出すことはしなかった。
自分を律することができず、周囲に不満を発散する行為は恥ずべきだ。
そういう愚かな姿を、身近で、嫌というほど目にして正士郎は育った。
「くそ、全然見つからないじゃないか」
場内をひとしきり探し回っても、あいは見つからなかった。どこかで、入れ違いになったのか。
人通りは、入場したときより少なくなっていた。
第八レースの青嵐賞が終わり、三勝クラスのレースがはじまろうとしている。それも終わると、今日のメインである東京優駿、日本ダービーだった。
「あぁもう、ホントにどこ行ったんだ、あのこけし女」
正士郎は、人が入るはずもない、路上のごみ箱の中を覗きこんだ。
引率の老教官、落合から、はぐれて行方不明になったあいの捜索を共に頼まれたのだ。
なぜ自分が、とは思ったが、断れはしなかった。
老教官は日頃から柔和な微笑を湛え、仏の落合、と呼ばれる人だったが、有無を言わせず人を従える妙な圧があった。
鬼教官として学生の間で恐れられているあの小早川も、落合には頭が上がらないようだった。
そうでなくとも、教官の指示は絶対で、それは校外学習の最中でも変わらなかった。
「あのこけし女、どこに行ったんだ」
周りに知人はおらず、つい、優等生の仮面が剥がれ、悪態が口をつく。こけしのような髪型だとは、常々、心中では思っていたことだ。
この頃、あいに苛立つことが増えてきていた。
ゴールデンウィーク前に、雨天練習用の覆馬場で球技大会が催され、同期でチームに分かれてサッカーをやった。
そこで、あいはことごとく足を引っ張った。
手を抜いているのではなく、純粋に下手なのだとは、必死にボールを追おうとする姿を見ていれば伝わってきた。
所詮はレクリエーションで、同じチームで負けたからといって責める同期はいなかった。
あいの運動音痴は、フィジカルトレーニングなどで全員が承知している。大矢などが、意気消沈するあいを慰めたりもしていた。
日頃の生活でも、ことあるごとに、あいのどんくささは目立った。
東京競馬場へ来て、一人で迷子になっている現状が、まさにいい例だった。
その度に、同期の中で学級委員的な扱いをされるようになってきた正士郎が、尻ぬぐいをしていた。
それ自体は、構わなかった。
善良な仮面を被り、優等生として振舞っているのは、ほかならぬ正士郎の意志だった。
自分の生活に支障をきたさない程度に、不出来な同期の世話をするぐらい、どうということはない。
正士郎が肚《はら》に据えかねているのは、ただ一点。
あいの乗馬能力が、かなり高いことだった。
実技訓練では、自分と同じか、あるいはそれ以上に、馬を乗りこなす。まだ基礎馬術の段階だが、馬との折り合いには卓越したものがあった。
そこが、気に食わなかった。
なぜ、普段はあれほど不器用で、どんくさいやつが、と思わざるを得ない。
担当馬であるサファイアジャケットに関しても、若く、難しい気性に難渋したのは数日だけだった。障害飛越のクロスバーを成功させて以来、すっかり心を通い合わせていた。
気性を抜きにすれば、脚力のある馬だった。まだ若く、レースでも通用するポテンシャルはありそうなくらいなのだ。
その青毛の馬が、あいにしか懐かず、それ以外は近寄るのも認めようとしないことも、肚が立った。
ただ、そうしたどろどろとした感情を、人前で出すことはしなかった。
自分を律することができず、周囲に不満を発散する行為は恥ずべきだ。
そういう愚かな姿を、身近で、嫌というほど目にして正士郎は育った。
「くそ、全然見つからないじゃないか」
場内をひとしきり探し回っても、あいは見つからなかった。どこかで、入れ違いになったのか。
人通りは、入場したときより少なくなっていた。
第八レースの青嵐賞が終わり、三勝クラスのレースがはじまろうとしている。それも終わると、今日のメインである東京優駿、日本ダービーだった。
「あぁもう、ホントにどこ行ったんだ、あのこけし女」
正士郎は、人が入るはずもない、路上のごみ箱の中を覗きこんだ。
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