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第7話
合宿と適正 ⑥
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月が、雲に隠れた。
一度は収めたはずの怒りが、再びむくむくと湧きあがってきた。
目の前には、やはり正士郎が立っている。しかし今度は、正士郎に対する怒りではなかった。
あいには騎手としての適性がない。
そう断言する正士郎に反論せず、あまつさえ納得しかけてしまった自分自身に、加奈恵は腹を立てていた。
それはそれとして。
「やっぱり、ジブンのことは好きになれんわ」
「構わないよ。僕も、君とはそりが合わないと思っていた。ただ、寮で藤刀さんと同室の君から見て、彼女がどう映っているのか、少し気になったから訊いてみただけだ。忘れてくれ」
「勝手やな。騎手にとって何が大切かとか、ウチは知らんけどな、あいは馬を大切にしとる。馬も、それに応えようとする。呼吸が合うっちゅうんは、そういうことやろう。それは、騎手に必要なことやないんか」
「もちろん。馬がいてこそだ。馬を大切にできないやつは、適正以前の問題だ。僕が言っているのは、原動力の部分さ。動機と言ってもいい」
「動機」
あいは、姉妹同然に育った馬、綾に、心配をかけない人間になるため、騎手を目指している。騎手として、生きて行こうとしている。
正士郎の言う、闘争心という言葉と照らし合わせると、その動機は内にむきすぎている、という気はする。
しかし、あいの動機が相応しくないなどと、誰が否定できる。誰にも、そんな資格はないはずだ。
「あいは騎手になる。そんで、ジブンの鼻を明かすぐらいの戦績をあげる。賭けてもええで」
「君みたいなのを、姉御肌っていうのかな」
正士郎は言うと、関心を失ったように加奈恵から視線を逸らし、立ち去ろうとした。
「そういうジブンは、どうなんや」
悔し紛れに言うと、遠ざかりかけた正士郎の背中が、ぴたりと止まった。
しばし、沈黙があった。
「殺したいほど、憎い男がいる」
正士郎が、沈んだ声で言った。
「けれど、母さんを悲しませるわけにはいかないから、騎手になって、越えるしかない」
「それって、親父さんのことか」
正士郎はそれ以上は答えず、歩き去っていった。
皮肉に感じるほど、心地よい風が吹いていた。草が靡く、微かな音が聞こえる。
少し風を浴びてから、加奈恵も民宿に戻った。
寝室に入ると、あいは布団に包《くる》まるようにして横になっていた。声をかけても、返事はない。
「眠ってもうたんか?」
布団のふくらみは、ぴくりともしない。
あいと話したかったが、眠っているのなら仕方なかった。風呂を済ませ、加奈恵も就寝した。
翌日、加奈恵は日の出前に起き出て、叔父と朝食の準備をした。
「さてと、そろそろ学校まで送ろう」
「ごめんな、叔父さん、面倒かけて」
「賑やかで楽しかったよ。加奈恵が、ここを紹介してくれたおかげさ」
叔父はあとのことを嫁に任せ、車のキーを取って先に車庫へ行った。
加奈恵が荷物をまとめて玄関で靴を履いていると、寝間着のままのあいがやって来た。
「おはよう、加奈恵」
「おはよ、ずいぶん早いやん」
合宿の起床時間には、まだ一時間ほどある。
二日目は那須ハイランドパークに行く予定であるが、その前に軽い運動の時間がとられていて、起床は五時とされていたはずだ。
「見送りに起きてきてくれたんか」
あいは、こくりと頷いた。どことなく物憂げな様子だ。
「元気ないな。どこか具合でも悪いんか?」
「う、ううん、ぜんぜん元気だよ、ほら」
とり繕うように屈伸運動するあい。
昨夜の正士郎との会話のせいで、なんとなく後ろめたい気分があり、加奈恵もそれ以上は詮索できなかった。
「ほな、また学校でな」
「うん。また、ね」
あいに見送られ、加奈恵は叔父の車に乗り込んだ。
那須の民宿からCRA(中央競馬協会)競馬学校までは、車で三時間ほどだった。
叔父に礼を言って寮に戻ると、手早く着替え、午前の実技訓練から厩務員課程の同期と合流した。
酷暑だった。訓練からあがると、馬と一緒に水を浴びた。男も女も、肌は浅黒く灼けている。
厩務員課程生が預かる馬の厩舎は、コの字の形で建てられている。中央には、噴水のような水飲み場があり、訓練後はそこで水を飲ませた。
昼食を挟み、馬の飼養管理などを学ぶ学科の授業を受けた。
夕方には厩舎に出て馬の手入れをし、飼葉桶に飼料を補充した。
CRAでは、厩務員課程の就学期間は二年間と定められている。騎手課程生は三年間なので、加奈恵はあいより一年早く学校を卒業することになる。
卒業後の進路は、まだ漠然としていた。
農業高校の畜産学科を卒業し、家業を継ぐつもりだったが、卒業前に家が廃業した。
両親に、いままで苦労をかけた分、やりたい道に進んでほしいと言われて、真っ先に思い浮かんだのが馬だった。
馬に関わる仕事がしたい。
その一念で本学の厩務員課程を受験し、入学したが、その先に明確なビジョンがあるわけではなかった。
だからだろうか。
騎手になるという一つの目的にむかって、日々、訓練に明け暮れているあいや正士郎たちが、加奈恵には眩しかった。
馬は好きだ。けれどいまはそれだけでなく、かれら騎手の力にもなりたい、という思いも芽生えつつある。
就寝時間となり、加奈恵は寮の自室に入った。
あいの、空のベッドに腰を下ろした。
あいを、騎手の適正がないと断定した、正士郎の言葉がよみがえり、きゅっと胸が締め付けられるような感覚に襲われた。
壁に並べて掛けてある、二つの蹄鉄に目を向けた。
装蹄所の職人に魔除けとして貰ったもので、片方はあいのだ。
あいが傷つくところは見たくない。できることなら、自分が守ってやりたい、と加奈恵は思った。
一度は収めたはずの怒りが、再びむくむくと湧きあがってきた。
目の前には、やはり正士郎が立っている。しかし今度は、正士郎に対する怒りではなかった。
あいには騎手としての適性がない。
そう断言する正士郎に反論せず、あまつさえ納得しかけてしまった自分自身に、加奈恵は腹を立てていた。
それはそれとして。
「やっぱり、ジブンのことは好きになれんわ」
「構わないよ。僕も、君とはそりが合わないと思っていた。ただ、寮で藤刀さんと同室の君から見て、彼女がどう映っているのか、少し気になったから訊いてみただけだ。忘れてくれ」
「勝手やな。騎手にとって何が大切かとか、ウチは知らんけどな、あいは馬を大切にしとる。馬も、それに応えようとする。呼吸が合うっちゅうんは、そういうことやろう。それは、騎手に必要なことやないんか」
「もちろん。馬がいてこそだ。馬を大切にできないやつは、適正以前の問題だ。僕が言っているのは、原動力の部分さ。動機と言ってもいい」
「動機」
あいは、姉妹同然に育った馬、綾に、心配をかけない人間になるため、騎手を目指している。騎手として、生きて行こうとしている。
正士郎の言う、闘争心という言葉と照らし合わせると、その動機は内にむきすぎている、という気はする。
しかし、あいの動機が相応しくないなどと、誰が否定できる。誰にも、そんな資格はないはずだ。
「あいは騎手になる。そんで、ジブンの鼻を明かすぐらいの戦績をあげる。賭けてもええで」
「君みたいなのを、姉御肌っていうのかな」
正士郎は言うと、関心を失ったように加奈恵から視線を逸らし、立ち去ろうとした。
「そういうジブンは、どうなんや」
悔し紛れに言うと、遠ざかりかけた正士郎の背中が、ぴたりと止まった。
しばし、沈黙があった。
「殺したいほど、憎い男がいる」
正士郎が、沈んだ声で言った。
「けれど、母さんを悲しませるわけにはいかないから、騎手になって、越えるしかない」
「それって、親父さんのことか」
正士郎はそれ以上は答えず、歩き去っていった。
皮肉に感じるほど、心地よい風が吹いていた。草が靡く、微かな音が聞こえる。
少し風を浴びてから、加奈恵も民宿に戻った。
寝室に入ると、あいは布団に包《くる》まるようにして横になっていた。声をかけても、返事はない。
「眠ってもうたんか?」
布団のふくらみは、ぴくりともしない。
あいと話したかったが、眠っているのなら仕方なかった。風呂を済ませ、加奈恵も就寝した。
翌日、加奈恵は日の出前に起き出て、叔父と朝食の準備をした。
「さてと、そろそろ学校まで送ろう」
「ごめんな、叔父さん、面倒かけて」
「賑やかで楽しかったよ。加奈恵が、ここを紹介してくれたおかげさ」
叔父はあとのことを嫁に任せ、車のキーを取って先に車庫へ行った。
加奈恵が荷物をまとめて玄関で靴を履いていると、寝間着のままのあいがやって来た。
「おはよう、加奈恵」
「おはよ、ずいぶん早いやん」
合宿の起床時間には、まだ一時間ほどある。
二日目は那須ハイランドパークに行く予定であるが、その前に軽い運動の時間がとられていて、起床は五時とされていたはずだ。
「見送りに起きてきてくれたんか」
あいは、こくりと頷いた。どことなく物憂げな様子だ。
「元気ないな。どこか具合でも悪いんか?」
「う、ううん、ぜんぜん元気だよ、ほら」
とり繕うように屈伸運動するあい。
昨夜の正士郎との会話のせいで、なんとなく後ろめたい気分があり、加奈恵もそれ以上は詮索できなかった。
「ほな、また学校でな」
「うん。また、ね」
あいに見送られ、加奈恵は叔父の車に乗り込んだ。
那須の民宿からCRA(中央競馬協会)競馬学校までは、車で三時間ほどだった。
叔父に礼を言って寮に戻ると、手早く着替え、午前の実技訓練から厩務員課程の同期と合流した。
酷暑だった。訓練からあがると、馬と一緒に水を浴びた。男も女も、肌は浅黒く灼けている。
厩務員課程生が預かる馬の厩舎は、コの字の形で建てられている。中央には、噴水のような水飲み場があり、訓練後はそこで水を飲ませた。
昼食を挟み、馬の飼養管理などを学ぶ学科の授業を受けた。
夕方には厩舎に出て馬の手入れをし、飼葉桶に飼料を補充した。
CRAでは、厩務員課程の就学期間は二年間と定められている。騎手課程生は三年間なので、加奈恵はあいより一年早く学校を卒業することになる。
卒業後の進路は、まだ漠然としていた。
農業高校の畜産学科を卒業し、家業を継ぐつもりだったが、卒業前に家が廃業した。
両親に、いままで苦労をかけた分、やりたい道に進んでほしいと言われて、真っ先に思い浮かんだのが馬だった。
馬に関わる仕事がしたい。
その一念で本学の厩務員課程を受験し、入学したが、その先に明確なビジョンがあるわけではなかった。
だからだろうか。
騎手になるという一つの目的にむかって、日々、訓練に明け暮れているあいや正士郎たちが、加奈恵には眩しかった。
馬は好きだ。けれどいまはそれだけでなく、かれら騎手の力にもなりたい、という思いも芽生えつつある。
就寝時間となり、加奈恵は寮の自室に入った。
あいの、空のベッドに腰を下ろした。
あいを、騎手の適正がないと断定した、正士郎の言葉がよみがえり、きゅっと胸が締め付けられるような感覚に襲われた。
壁に並べて掛けてある、二つの蹄鉄に目を向けた。
装蹄所の職人に魔除けとして貰ったもので、片方はあいのだ。
あいが傷つくところは見たくない。できることなら、自分が守ってやりたい、と加奈恵は思った。
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