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第2話
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鉄道に揺られていた。
向かい合ったボックスシートの下の隙間に、犬の藤吉が丸まって収まっている。
鈍行だった。
駅に停車するたび、線路を隔てて、上り列車を待つホームに、家族連れの姿が多くあった。
夏のボーナスを受け取り、連休を使って遠出をしようというのだろう。
「藤吉、俺の親父はな、尾張の県庁に勤めていたのだ。いまぐらいの時期に、家に帰って来た親父が、ボーナスの入った茶封筒を、母にぽんと手渡していたのを、ふと思い出した」
信永は、ほとんど独り言のように、足元の藤吉に話しかけた。
車窓から浴びる初夏の風が心地よかったが、藤吉のところには届かず、蒸し暑そうに舌を垂らしていた。
「当時高価だったエレキを、その親父が道楽で買ってきてな。それが、俺が音楽をはじめたきっかけだな」
あの頃、エレキ楽器は国内ではほぼ造られておらず、ほとんどが舶来品だった。
「それから楽器一本で世に出て、音楽だけをやって生きてきた。二十代は、客を呼ばなければその日食うものもなかった。山里のあたりをふらついていたちょっと前のお前と、似たようなものだ」
大手の音楽レーベルから声がかかり、初のレコードを出したのは、三十をいくらか過ぎた頃だ。
それに前後して、尾張、美濃一円で最大の人気を誇っていた井間川率いるロックグループを破った。
そこが転機だった。
井間川との対バンで敗れ、野に消えていてもおかしくはなかった、と信永はいまにして思う。実力は拮抗していて、勝てたのは運のようなものだったのだ。
越前の駅で、信永は降車した。
人波を掻き分け、駅前に出た。道の端に寄り、植え込みの傍で藤吉に水をやった。
水を飲み終えると、藤吉が湿った鼻頭を突き出してくる。その先を指先で軽く弾いてから、頭を撫でてやった。藤吉は気持ちよさそうに喉を鳴らした。
路面電車が通り抜けた後の道を渡り、煉瓦造りの都市銀行が建っている角を曲がった。電柱が立ち並び、頭上には蜘蛛が糸を吐いたように電線が張り巡らされている。
大通りから一本奥に入った通りには、ぱっと見ただけでも、薬屋が多い感じがあった。
トラベルバッグを肩に掛け、片手にベースケースを引っ提げていた。
滞在していた安宿を引き払って来たので、バッグには身の回りのものがすべて入っている。それでもベース一本と重さはさほど変わらない。
適当な薬屋に立ち寄り、店のおやじを呼んだ。
「この店で一番よく効く薬をくれ」
「よく効くったって、風邪なのか腹痛なのかとか、症状でも変わってきますわ」
「なんにでも効くやつがいい」
「そんなもんがあったら、おらぁ今頃、都か東京でひと財産築いてますわい」
薬屋のおやじは豪放に笑い飛ばした。
信永は、店内を見回し、目についた薬を三つ四つ取って買った。紙袋をトラベルバッグにつっこみ、店を出た。
藤吉は、店の前で大人しく待っていた。
眼下をゆったりと流れる足羽川沿いに出た。
橋の手前で、藤吉が尻尾を股下に潜らせ立ち竦み、鳴声を上げた。
「なんだ、こんな橋が怖いのか。野良だった根性を見せてみろ」
信永が言い、それ以上構わないと、藤吉は諦めてついてきた。
橋を渡りきると、元の調子を取り戻し、信永の前に歩み出てきた。ぷりっとした尻を得意げに左右に振っている。
「越前に来るのははじめてのくせに、俺を先導しているつもりか、お前」
閑静とした住宅街の一角を借りて、平屋の日本家屋が建っていた。そこが、仁羽長秀が静養している邸であった。
生垣伝いに裏へ回り、木戸を押して中に入った。
裏庭で、桃の木が青々と葉を茂らせていた。その横には、生垣に立てかけるようにして竹で支柱が組まれており、そこに蔓を巻きつけた朝顔が、花をぶら下げていた。
藤吉が朝顔にそろそろと近づいていき、花弁についた雫の香りを確かめるように鼻先を近づけた。
その様子を眺めていると、障子が開き、濡縁に寝衣姿の長秀が出てきた。
「今日はもうしぼんでしまったね。どうせなら、綺麗に花を咲かせているところを見てもらいたかった」
「明日も明後日も咲くだろう。気が向いたときにでも見るさ」
信永が言うと、長秀は細い眉をちょっと持ち上げ、信永が肩に掛けているトラベルバッグに目を向けた。
「その荷物、しばらくここに滞在するつもりなのか?」
「そのつもりで宿は引き払って来た。手土産も買ってきた」
バッグを濡縁に置き、薬屋の紙袋を長秀に手渡した。
「病人には薬か。風情の欠片もない。お前らしいといえばらしいが」
長秀は苦笑し、腰を下ろした。もともと華奢な男だった。洒脱なところもあり、昔からよく女に言い寄られていた。
その頃に比べると、痩せた印象がある。髪には白いものが目立ってもいる。
「この数年で、ずいぶん白髪が増えたな」
「私と歳は変わらないのに、お前は黒いなぁ」
「ロックをやるにはな。髪は黒くなくっちゃ格好がつかん」
「なんだ、染めていたのか」
「ホースがあるな」
「ん、ああ。庭木や花なんかに水をやるのにな」
「ちょうどいい。少し水を借りるぞ」
信永はホースを手に取り、蛇口を回した。藤吉を掴まえ、水を浴びせた。嫌がりはせず、遊びの一種と思っているのか水を追いかけ飛びかかってくる。信永も、すぐに水浸しになった。
「まるで親犬と仔犬だな」
「おい、長秀、水をひっかけられたくなかったら、俺を二度と犬扱いするんじゃないぜ」
ぎろりと睨むと、長秀は声を上げて笑った。自分の睨みを笑い流してしまえるのは、世界広しといえこの男だけだ、と信永は思った。
そんな兄弟同然の男が、なぜ篤い病に冒されねばならないのか、とも思ったが、それは考えてもどうしようもない。
もし立場が逆なら、長秀だけには慰められたくない。長秀も、同じ気持ちなはずだ。
「誰から私が病だと聞いたんだ? お前、グループを解散してからは、消息を断っていたろう」
「九鬼が来て報せてくれた。ずいぶんと探させたようだがな」
「なるほど。彼は音楽業界以外にも、顔が広かったものな」
信永がどこにいたのか、長秀は訊いてこなかった。尋ねられれば、大島にいた、とは答えられるが、なにかをするためにそこにいたわけでもない。
わざわざ海を渡ってまで、大島に行った理由は、自分でも説明できなかった。
全国ツアーの途次で、光秀が裏切るようにしてグループを抜けた。
大手音楽レーベルと袂を分かち、会場、スタッフの手配から宣伝まで、すべてグループ名義で金を引っ張ってきておこなった。
そのツアーが、尻切れに終わり、チケットの払い戻しを含めた赤字は、すべてグループ、ひいては信永にかかってきた。
なんとか破産はせずに済んだが、営々と築き上げてきた活動地盤は失った。
そういう話は、長秀には改めてするまでもなかった。
信永がロックミュージシャンとして路上ライブをはじめた頃から、長秀とは一緒だったのだ。
肩を並べて演奏する、ということはなかった。お前が楽器をやるなら、私がその場所をつくってやる。
そう言って長秀は尾張にライブハウスを開き、求められたので信永が『 AZMARU』の屋号を与えた。
知名度を得るまでは、様々に融通の利くAZMARUが、信永の拠点の役割を果たしてくれた。
大手音楽レーベルと契約し、メジャーデビューしてからも、長秀は後援会という立場で直接的な支援をしてくれていた。
長秀や、グループの専属運転手だった九鬼は、ミュージシャンではなくとも紛れもなく『天下布舞』の一員だった。
信長は蛇口を締め、水を止めた。
藤吉が身震いして水滴を飛ばす。洗ったおかげで、小汚かった藤吉はそれなりにきれいになった。
「それで、今度はなにをするつもだ? まさか私の見舞いのためだけに、戻って来たのではないだろう」
それでは悪いのか、と言いかけて、やめた。長秀の言う通り、ここを訪ねたのは見舞いだけが理由ではなかった。
「光秀と対バンをやる」
「そうか」
長秀は庭にできた水たまりに反射する陽射しに目を細めながら、簡素に応えた。
「それだけか?」
「なにか言ってほしかったのか?」
「そうではないが、二日前に仙極と会って話したときには、復讐するつもりではないかと馬鹿なことを言われた」
あの時は、俺がそんなタマか、と腹が立ってどついてしまったが、そう勘繰られても仕方がないと、少ししてから思った。
「復讐なら、対バンじゃなくていい」
「まぁな」
「明池は、グループを抜けると早々にロック界から消えていった。一悶着あったにはあったが、納得いかないか」
「その、人の心の内を見透かしたような言い方はやめろ」
「悪い、お前相手にはついな」
信永は、溜息をついて腕を組んだ。
「だがまあ、そうだ。グループを抜けたことは、この際いい。事情を知りたいとも思わん。ただ、あいつがロックを手放したのか。それを対バンで、見極めたい」
「見極めて、捨てていないとわかったら?」
「そのときは、そのときだ」
先のことを考えていないでもないが、このところ思案はある程度の深さより先に進まなくなっていた。
「いまの俺は、亡霊のようなものだからな」
諦念とも、また違う感情だった。
一度、死んだ。命を失うこととは、別の死だ。
大島で、海と向き合い続けているうちに、その死から抜け出した。すると、やりたいことが溢れだしてきた。まずたらふく飯を食い、次に考えたのが、光秀との対バンだった。
ロックで天下を奪るのが、信永の抱いた夢だった。
それは、潰えたといっていい。
潰えた夢の跡から、新たに芽吹くものがあるのか。それはまだわからない。天下とはなんなのか、改めて考えてみたりもした。頂点が明確に決まっている世界ではないのだ。
ただ、一心不乱にロックをやっていた若い頃と比べても、意欲は衰えていない。新しく湧いてきたやりたいことの一つひとつは、かなりはっきりした輪郭を持ってもいる。
「明池も、あるいはどこかで亡霊になっているのかもしれない」
「それならそれでいい」
「仙極君とも会ったと言っていたね。彼はどんな様子だい」
「ライブハウスのオーナー気取りで、似合わないジャケットなど着ていた」
「私が病で伏せっていると知って、義理堅いことに、オーナー代行を申し出てくれたんだよ」
「義理か。島津との対バンライブで敗れ、秀吉のバンドメンバーから外されたのだろう。要は行き所に困っていただけだ」
「だとしても、私を訪ねてきてくれたのは、彼なりの思いやりだよ。それに甘える恰好になってしまっているのが、心苦しくもあってね。彼も、このままでは亡霊になってしまいはしないか」
「やつの場合は、腑抜けているだけだ。光秀との対バンの折にでも、活を入れてやるさ」
「私みたいな老いのとば口に立った病人に付き合わせるには、仙極君はまだ若い」
「お前は、病身であっても世話焼きなのは変わらないのだな」
「性分かな」
長秀が言って浅く息を吐いた。すっかり白くなった長秀の肌が、すっと透けるような錯覚を受け、信永の太い両の眉がぐいと寄った。
再び、庭に目を向けた。
長秀の邸は、草木の匂いに包まれている。そこに、水で濡れ、夏の日差しに照らされた土の匂いが立ち昇ってきていた。
懐かしい匂いだ、と信永は思った。
向かい合ったボックスシートの下の隙間に、犬の藤吉が丸まって収まっている。
鈍行だった。
駅に停車するたび、線路を隔てて、上り列車を待つホームに、家族連れの姿が多くあった。
夏のボーナスを受け取り、連休を使って遠出をしようというのだろう。
「藤吉、俺の親父はな、尾張の県庁に勤めていたのだ。いまぐらいの時期に、家に帰って来た親父が、ボーナスの入った茶封筒を、母にぽんと手渡していたのを、ふと思い出した」
信永は、ほとんど独り言のように、足元の藤吉に話しかけた。
車窓から浴びる初夏の風が心地よかったが、藤吉のところには届かず、蒸し暑そうに舌を垂らしていた。
「当時高価だったエレキを、その親父が道楽で買ってきてな。それが、俺が音楽をはじめたきっかけだな」
あの頃、エレキ楽器は国内ではほぼ造られておらず、ほとんどが舶来品だった。
「それから楽器一本で世に出て、音楽だけをやって生きてきた。二十代は、客を呼ばなければその日食うものもなかった。山里のあたりをふらついていたちょっと前のお前と、似たようなものだ」
大手の音楽レーベルから声がかかり、初のレコードを出したのは、三十をいくらか過ぎた頃だ。
それに前後して、尾張、美濃一円で最大の人気を誇っていた井間川率いるロックグループを破った。
そこが転機だった。
井間川との対バンで敗れ、野に消えていてもおかしくはなかった、と信永はいまにして思う。実力は拮抗していて、勝てたのは運のようなものだったのだ。
越前の駅で、信永は降車した。
人波を掻き分け、駅前に出た。道の端に寄り、植え込みの傍で藤吉に水をやった。
水を飲み終えると、藤吉が湿った鼻頭を突き出してくる。その先を指先で軽く弾いてから、頭を撫でてやった。藤吉は気持ちよさそうに喉を鳴らした。
路面電車が通り抜けた後の道を渡り、煉瓦造りの都市銀行が建っている角を曲がった。電柱が立ち並び、頭上には蜘蛛が糸を吐いたように電線が張り巡らされている。
大通りから一本奥に入った通りには、ぱっと見ただけでも、薬屋が多い感じがあった。
トラベルバッグを肩に掛け、片手にベースケースを引っ提げていた。
滞在していた安宿を引き払って来たので、バッグには身の回りのものがすべて入っている。それでもベース一本と重さはさほど変わらない。
適当な薬屋に立ち寄り、店のおやじを呼んだ。
「この店で一番よく効く薬をくれ」
「よく効くったって、風邪なのか腹痛なのかとか、症状でも変わってきますわ」
「なんにでも効くやつがいい」
「そんなもんがあったら、おらぁ今頃、都か東京でひと財産築いてますわい」
薬屋のおやじは豪放に笑い飛ばした。
信永は、店内を見回し、目についた薬を三つ四つ取って買った。紙袋をトラベルバッグにつっこみ、店を出た。
藤吉は、店の前で大人しく待っていた。
眼下をゆったりと流れる足羽川沿いに出た。
橋の手前で、藤吉が尻尾を股下に潜らせ立ち竦み、鳴声を上げた。
「なんだ、こんな橋が怖いのか。野良だった根性を見せてみろ」
信永が言い、それ以上構わないと、藤吉は諦めてついてきた。
橋を渡りきると、元の調子を取り戻し、信永の前に歩み出てきた。ぷりっとした尻を得意げに左右に振っている。
「越前に来るのははじめてのくせに、俺を先導しているつもりか、お前」
閑静とした住宅街の一角を借りて、平屋の日本家屋が建っていた。そこが、仁羽長秀が静養している邸であった。
生垣伝いに裏へ回り、木戸を押して中に入った。
裏庭で、桃の木が青々と葉を茂らせていた。その横には、生垣に立てかけるようにして竹で支柱が組まれており、そこに蔓を巻きつけた朝顔が、花をぶら下げていた。
藤吉が朝顔にそろそろと近づいていき、花弁についた雫の香りを確かめるように鼻先を近づけた。
その様子を眺めていると、障子が開き、濡縁に寝衣姿の長秀が出てきた。
「今日はもうしぼんでしまったね。どうせなら、綺麗に花を咲かせているところを見てもらいたかった」
「明日も明後日も咲くだろう。気が向いたときにでも見るさ」
信永が言うと、長秀は細い眉をちょっと持ち上げ、信永が肩に掛けているトラベルバッグに目を向けた。
「その荷物、しばらくここに滞在するつもりなのか?」
「そのつもりで宿は引き払って来た。手土産も買ってきた」
バッグを濡縁に置き、薬屋の紙袋を長秀に手渡した。
「病人には薬か。風情の欠片もない。お前らしいといえばらしいが」
長秀は苦笑し、腰を下ろした。もともと華奢な男だった。洒脱なところもあり、昔からよく女に言い寄られていた。
その頃に比べると、痩せた印象がある。髪には白いものが目立ってもいる。
「この数年で、ずいぶん白髪が増えたな」
「私と歳は変わらないのに、お前は黒いなぁ」
「ロックをやるにはな。髪は黒くなくっちゃ格好がつかん」
「なんだ、染めていたのか」
「ホースがあるな」
「ん、ああ。庭木や花なんかに水をやるのにな」
「ちょうどいい。少し水を借りるぞ」
信永はホースを手に取り、蛇口を回した。藤吉を掴まえ、水を浴びせた。嫌がりはせず、遊びの一種と思っているのか水を追いかけ飛びかかってくる。信永も、すぐに水浸しになった。
「まるで親犬と仔犬だな」
「おい、長秀、水をひっかけられたくなかったら、俺を二度と犬扱いするんじゃないぜ」
ぎろりと睨むと、長秀は声を上げて笑った。自分の睨みを笑い流してしまえるのは、世界広しといえこの男だけだ、と信永は思った。
そんな兄弟同然の男が、なぜ篤い病に冒されねばならないのか、とも思ったが、それは考えてもどうしようもない。
もし立場が逆なら、長秀だけには慰められたくない。長秀も、同じ気持ちなはずだ。
「誰から私が病だと聞いたんだ? お前、グループを解散してからは、消息を断っていたろう」
「九鬼が来て報せてくれた。ずいぶんと探させたようだがな」
「なるほど。彼は音楽業界以外にも、顔が広かったものな」
信永がどこにいたのか、長秀は訊いてこなかった。尋ねられれば、大島にいた、とは答えられるが、なにかをするためにそこにいたわけでもない。
わざわざ海を渡ってまで、大島に行った理由は、自分でも説明できなかった。
全国ツアーの途次で、光秀が裏切るようにしてグループを抜けた。
大手音楽レーベルと袂を分かち、会場、スタッフの手配から宣伝まで、すべてグループ名義で金を引っ張ってきておこなった。
そのツアーが、尻切れに終わり、チケットの払い戻しを含めた赤字は、すべてグループ、ひいては信永にかかってきた。
なんとか破産はせずに済んだが、営々と築き上げてきた活動地盤は失った。
そういう話は、長秀には改めてするまでもなかった。
信永がロックミュージシャンとして路上ライブをはじめた頃から、長秀とは一緒だったのだ。
肩を並べて演奏する、ということはなかった。お前が楽器をやるなら、私がその場所をつくってやる。
そう言って長秀は尾張にライブハウスを開き、求められたので信永が『 AZMARU』の屋号を与えた。
知名度を得るまでは、様々に融通の利くAZMARUが、信永の拠点の役割を果たしてくれた。
大手音楽レーベルと契約し、メジャーデビューしてからも、長秀は後援会という立場で直接的な支援をしてくれていた。
長秀や、グループの専属運転手だった九鬼は、ミュージシャンではなくとも紛れもなく『天下布舞』の一員だった。
信長は蛇口を締め、水を止めた。
藤吉が身震いして水滴を飛ばす。洗ったおかげで、小汚かった藤吉はそれなりにきれいになった。
「それで、今度はなにをするつもだ? まさか私の見舞いのためだけに、戻って来たのではないだろう」
それでは悪いのか、と言いかけて、やめた。長秀の言う通り、ここを訪ねたのは見舞いだけが理由ではなかった。
「光秀と対バンをやる」
「そうか」
長秀は庭にできた水たまりに反射する陽射しに目を細めながら、簡素に応えた。
「それだけか?」
「なにか言ってほしかったのか?」
「そうではないが、二日前に仙極と会って話したときには、復讐するつもりではないかと馬鹿なことを言われた」
あの時は、俺がそんなタマか、と腹が立ってどついてしまったが、そう勘繰られても仕方がないと、少ししてから思った。
「復讐なら、対バンじゃなくていい」
「まぁな」
「明池は、グループを抜けると早々にロック界から消えていった。一悶着あったにはあったが、納得いかないか」
「その、人の心の内を見透かしたような言い方はやめろ」
「悪い、お前相手にはついな」
信永は、溜息をついて腕を組んだ。
「だがまあ、そうだ。グループを抜けたことは、この際いい。事情を知りたいとも思わん。ただ、あいつがロックを手放したのか。それを対バンで、見極めたい」
「見極めて、捨てていないとわかったら?」
「そのときは、そのときだ」
先のことを考えていないでもないが、このところ思案はある程度の深さより先に進まなくなっていた。
「いまの俺は、亡霊のようなものだからな」
諦念とも、また違う感情だった。
一度、死んだ。命を失うこととは、別の死だ。
大島で、海と向き合い続けているうちに、その死から抜け出した。すると、やりたいことが溢れだしてきた。まずたらふく飯を食い、次に考えたのが、光秀との対バンだった。
ロックで天下を奪るのが、信永の抱いた夢だった。
それは、潰えたといっていい。
潰えた夢の跡から、新たに芽吹くものがあるのか。それはまだわからない。天下とはなんなのか、改めて考えてみたりもした。頂点が明確に決まっている世界ではないのだ。
ただ、一心不乱にロックをやっていた若い頃と比べても、意欲は衰えていない。新しく湧いてきたやりたいことの一つひとつは、かなりはっきりした輪郭を持ってもいる。
「明池も、あるいはどこかで亡霊になっているのかもしれない」
「それならそれでいい」
「仙極君とも会ったと言っていたね。彼はどんな様子だい」
「ライブハウスのオーナー気取りで、似合わないジャケットなど着ていた」
「私が病で伏せっていると知って、義理堅いことに、オーナー代行を申し出てくれたんだよ」
「義理か。島津との対バンライブで敗れ、秀吉のバンドメンバーから外されたのだろう。要は行き所に困っていただけだ」
「だとしても、私を訪ねてきてくれたのは、彼なりの思いやりだよ。それに甘える恰好になってしまっているのが、心苦しくもあってね。彼も、このままでは亡霊になってしまいはしないか」
「やつの場合は、腑抜けているだけだ。光秀との対バンの折にでも、活を入れてやるさ」
「私みたいな老いのとば口に立った病人に付き合わせるには、仙極君はまだ若い」
「お前は、病身であっても世話焼きなのは変わらないのだな」
「性分かな」
長秀が言って浅く息を吐いた。すっかり白くなった長秀の肌が、すっと透けるような錯覚を受け、信永の太い両の眉がぐいと寄った。
再び、庭に目を向けた。
長秀の邸は、草木の匂いに包まれている。そこに、水で濡れ、夏の日差しに照らされた土の匂いが立ち昇ってきていた。
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