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第3話
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光秀が倉庫での作業を終え、事務所に戻ると、専務が仕事を中断して席を立った。
「仕分け終わりました」
「おお、お疲れ様です、明池さん。じつはさっきあんたに客があってね。仕事中だと伝えたら、この名刺を預かったんだ」
四十そこそこの専務だった。パートタイムではあっても、年嵩の光秀には一種の敬意を払ってくれていた。
「僕に、客ですか」
光秀は首に巻いたタオルで額から垂れてくる汗をぬぐい、差し出された名刺を受け取った。見ると、コート紙に、サイガ不動産と印字されていた。
「なんでも、七時までなら駅前の喫茶店にいるというから、今から会ってきちゃどうです。今日はもうこれといって頼みたい仕事もありませんから、タイムカードは、定時に打刻しておきますわ」
「どうも、すみません。ではお言葉に甘えさせてもらいます」
ロック好きだという専務は、光秀が『天下布舞』のメインギターだったことも承知している。しばしば親切すぎるほどに気を回してくれるのが、かえって重苦しくもあった。
とはいえ、ロックを捨て、食っていく職を漫然と探していた時に、偶然知り合って働き口を都合してくれた彼には、感謝しかなかった。
作業着を着替え、駅前の喫茶店に向かった。
店員に待ち合わせだと告げ、奥に進むと、ボックスシートの一つから声をかけられた。
「驚きましたよ。ロックギタリストとしては知らん者はいない明池光秀が、あんな泥臭い卸問屋で下働きしているなんて」
「死にましたよ、ギタリストだった僕は。それより、不動産屋が、なんの用です」
光秀は男の対面に座り、アイスコーヒーを注文した。雑談をする気はなかった。男は下卑た笑みをちらりと覗かせ、吸っていた煙草を灰皿に揉み消した。
「じつは今度、AMEが新しく音楽ホールを建設しようというプロジェクトが進んでおりましてね。うちは土地の確保を頼まれてまして、目星はついておるのですが、ちょっと厄介なことになっていまして」
AMEの名が出た時から、いや、サイガの名刺を見た時から、光秀は警戒心を抱いていた。それだけに、無視することもできなかった。
AMEは、足利ミュージックエンタテインメントという、大手レーベルの略称だった。
「いやね、その土地で商売をしている多くの店とは、移転してもらうかたちで合意を得ているのですが」
光秀が注文したアイスコーヒーが運ばれてきて、男は言葉を切った。店員が離れて行くと、唇をひと舐めして仕切り直した。
「 AZMARUというライブハウスだけ、てこでも動かん、という態度なんですわ。ご存知ですよね、このライブハウス」
「ええ」
話は大方見えた。
「要するに、AMEは、また俺を利用しようとしているのか」
光秀が低い声で言うと、男はテーブルに乗り出していた身を引いた。
「そのあたりのことは、わたくしはなにも。ただ、土地の確保が難航していると伝えたら、あなたに相談しろ、と言われましてな」
「そうですか」
「どうです、力になってもらえませんか」
光秀の言質を求めるように、男は言った。
AZMARUは、信永の兄弟分である、仁羽がオーナーを務めるライブハウスだった。その立ち退きを手伝え、というのか。
目の前の男に、アイスコーヒーをひっかけてやりたくなる衝動を、寸でのところで抑え込んだ。
考えておく、とだけ答え、席を立った。
自分の飲み物代だけ払い、店を出た。
アパートに帰ると、郵便受けに手紙が来ていた。封書の裏側を見ると、差出人に細川の名が書かれていた。
シャワーを浴び、焼いたベーコンとちぎったレタス、スライスしたトマトを挟んだだけの簡単なトーストサンドを、コンロの前に立ったまま腹に入れた。
それから隣の畳が敷かれた部屋に移り、手紙の封を切った。
便箋から、かすかにオイルの匂いがした。
細川精工は、ギターのブリッジやペグなんかを作る町工場である。
最初は、その腕を見込んでオーダーメイドをしてもらったりと、仕事での付き合いがあった。そこから光秀の娘が細川に嫁いで、家族ぐるみの関係になっていった。
細川の親父からの手紙には、仕事の話のほか、娘の近況も綴られていた。
娘が、職場を変えたい、と言い出しているらしかった。知人の伝手で、海外の出版物を仕入れている商社で働けそうなのだという。
光秀は、手紙の行間から、書かれている事柄以上のことを感じとった。
手紙をちゃぶ台に置き、部屋の隅にある妻の仏壇の前へ行き、胡坐をかいた。
「気づかれたのかな」
最愛の妻の位牌に向かって、光秀は語りかけた。
妻が病で死んでからは、妻の面影を映した娘の身の上が、光秀の最大の懸案になった。
細川精工は、長年培ってきた確かな製造技術と、堅実な地盤をもった工場だった。
そこへ嫁に収まった以上、娘の将来はもう心配いらないと考えていた。
そんな細川精工から、従業員の一色という男が訪ねてきたのは、いつだったか。
正確には思い出せないが、光秀は全国ツアーに向けて準備を進めるグループの中で、忙しくしていたことは憶えている。
古い仕事仲間で死線も共にした仲らしく、細川は一色を信用しきっていた。AMEで働いていた経験もあり、一色の営業によって細川精工の業績は二倍近くになった、という話も聞いていた。
営業手腕をばねにして、細川精工の財務を掌握した一色という男は、AMEが放った矢だった。
娘と細川精工の倅がくっつくところまで、すべてが計算ずくだったとは考え難い。ただ、矢は信永だけに狙いを定められていた。
信永は当時AMEと袂を分かち、インディーズでありながら音楽業界を席巻しつつあった。それだけに、信永の躍進は、ANEには忌々しいことだったはずだ。
光秀は、娘か、グループかの選択を迫られた。
全国ツアーの真っ最中に、主力の光秀が抜けることは、グループの、ひいては信永のミュージシャンとしての死に繋がることは、理解していた。
それでも光秀は、娘を、選んだ。
その時点で、ロックで生きていくことは捨てた。仲間だった羽芝からの対バンの申し出には応じたが、勝とうという気はほぼなかった。
対バンに敗れ、ロック界から落ちぶれたあと、AMEからはフォークでなら売ってやるという誘いが隠密に来たが、無視した。
信永のミュージシャン生命を断った。これ以上、音楽で食っていきたいという思いは、かけらも残っていなかった。
「また俺に、仲間だった男の背を斬れというのか」
今度は位牌にではなく、自分自身に向けて、言った。
そこで、はっと気づいた。
「俺、か」
ロックを捨ててからは、僕、という一人称を遣うよう心掛けていた。
「捨てきれていないのか」
光秀は妻の位牌に線香をあげてから、細川に返書をしたためた。
光秀がロックを捨てる遠因になったことに、娘が気づいたかどうかは、定かではない。
娘は、石山レーベルに務めていた。石山レーベルとAMEとは、業務上、兄弟のような関係だ。もしどこかで真実を知ったのだとしたら、娘が石山レーベルから、AMEとは関係のない、舶来品を扱う商社に転職を考えたとしても、不思議ではない。
すべて、想像だった。確かなことはわからない。
光秀は、娘の意思を尊重してやってほしい旨を、細川に書いて送った。細川家は娘にはよくしてくれている。そこは、心配していなかった。
手紙に封をすると、なにか、どっと疲れが押し寄せてきた。肉体労働による疲れとは、異なる疲労感だ。
倒れ込むようにして、布団に横になった。
疲れているはずなのに、浅い眠りを繰り返すうちに、夜が明けて朝になった。
アパートのインターホンが鳴ったのは、光秀が仕事に出る身支度を終え、靴を履こうとしていたときだった。
ドアを開けると、『天下布舞』で専属のドライバーをやっていた、九鬼が目の前に立っていた。
「信永の旦那から、対バンの誘いですぜ、明池さん」
言うと、九鬼はにやりと笑った。本職は、船乗りだった。ドライバーは、兼業ということになる。
潮焼けして浅黒い肌に、九鬼の白い歯が眩しく感じた。
「仕分け終わりました」
「おお、お疲れ様です、明池さん。じつはさっきあんたに客があってね。仕事中だと伝えたら、この名刺を預かったんだ」
四十そこそこの専務だった。パートタイムではあっても、年嵩の光秀には一種の敬意を払ってくれていた。
「僕に、客ですか」
光秀は首に巻いたタオルで額から垂れてくる汗をぬぐい、差し出された名刺を受け取った。見ると、コート紙に、サイガ不動産と印字されていた。
「なんでも、七時までなら駅前の喫茶店にいるというから、今から会ってきちゃどうです。今日はもうこれといって頼みたい仕事もありませんから、タイムカードは、定時に打刻しておきますわ」
「どうも、すみません。ではお言葉に甘えさせてもらいます」
ロック好きだという専務は、光秀が『天下布舞』のメインギターだったことも承知している。しばしば親切すぎるほどに気を回してくれるのが、かえって重苦しくもあった。
とはいえ、ロックを捨て、食っていく職を漫然と探していた時に、偶然知り合って働き口を都合してくれた彼には、感謝しかなかった。
作業着を着替え、駅前の喫茶店に向かった。
店員に待ち合わせだと告げ、奥に進むと、ボックスシートの一つから声をかけられた。
「驚きましたよ。ロックギタリストとしては知らん者はいない明池光秀が、あんな泥臭い卸問屋で下働きしているなんて」
「死にましたよ、ギタリストだった僕は。それより、不動産屋が、なんの用です」
光秀は男の対面に座り、アイスコーヒーを注文した。雑談をする気はなかった。男は下卑た笑みをちらりと覗かせ、吸っていた煙草を灰皿に揉み消した。
「じつは今度、AMEが新しく音楽ホールを建設しようというプロジェクトが進んでおりましてね。うちは土地の確保を頼まれてまして、目星はついておるのですが、ちょっと厄介なことになっていまして」
AMEの名が出た時から、いや、サイガの名刺を見た時から、光秀は警戒心を抱いていた。それだけに、無視することもできなかった。
AMEは、足利ミュージックエンタテインメントという、大手レーベルの略称だった。
「いやね、その土地で商売をしている多くの店とは、移転してもらうかたちで合意を得ているのですが」
光秀が注文したアイスコーヒーが運ばれてきて、男は言葉を切った。店員が離れて行くと、唇をひと舐めして仕切り直した。
「 AZMARUというライブハウスだけ、てこでも動かん、という態度なんですわ。ご存知ですよね、このライブハウス」
「ええ」
話は大方見えた。
「要するに、AMEは、また俺を利用しようとしているのか」
光秀が低い声で言うと、男はテーブルに乗り出していた身を引いた。
「そのあたりのことは、わたくしはなにも。ただ、土地の確保が難航していると伝えたら、あなたに相談しろ、と言われましてな」
「そうですか」
「どうです、力になってもらえませんか」
光秀の言質を求めるように、男は言った。
AZMARUは、信永の兄弟分である、仁羽がオーナーを務めるライブハウスだった。その立ち退きを手伝え、というのか。
目の前の男に、アイスコーヒーをひっかけてやりたくなる衝動を、寸でのところで抑え込んだ。
考えておく、とだけ答え、席を立った。
自分の飲み物代だけ払い、店を出た。
アパートに帰ると、郵便受けに手紙が来ていた。封書の裏側を見ると、差出人に細川の名が書かれていた。
シャワーを浴び、焼いたベーコンとちぎったレタス、スライスしたトマトを挟んだだけの簡単なトーストサンドを、コンロの前に立ったまま腹に入れた。
それから隣の畳が敷かれた部屋に移り、手紙の封を切った。
便箋から、かすかにオイルの匂いがした。
細川精工は、ギターのブリッジやペグなんかを作る町工場である。
最初は、その腕を見込んでオーダーメイドをしてもらったりと、仕事での付き合いがあった。そこから光秀の娘が細川に嫁いで、家族ぐるみの関係になっていった。
細川の親父からの手紙には、仕事の話のほか、娘の近況も綴られていた。
娘が、職場を変えたい、と言い出しているらしかった。知人の伝手で、海外の出版物を仕入れている商社で働けそうなのだという。
光秀は、手紙の行間から、書かれている事柄以上のことを感じとった。
手紙をちゃぶ台に置き、部屋の隅にある妻の仏壇の前へ行き、胡坐をかいた。
「気づかれたのかな」
最愛の妻の位牌に向かって、光秀は語りかけた。
妻が病で死んでからは、妻の面影を映した娘の身の上が、光秀の最大の懸案になった。
細川精工は、長年培ってきた確かな製造技術と、堅実な地盤をもった工場だった。
そこへ嫁に収まった以上、娘の将来はもう心配いらないと考えていた。
そんな細川精工から、従業員の一色という男が訪ねてきたのは、いつだったか。
正確には思い出せないが、光秀は全国ツアーに向けて準備を進めるグループの中で、忙しくしていたことは憶えている。
古い仕事仲間で死線も共にした仲らしく、細川は一色を信用しきっていた。AMEで働いていた経験もあり、一色の営業によって細川精工の業績は二倍近くになった、という話も聞いていた。
営業手腕をばねにして、細川精工の財務を掌握した一色という男は、AMEが放った矢だった。
娘と細川精工の倅がくっつくところまで、すべてが計算ずくだったとは考え難い。ただ、矢は信永だけに狙いを定められていた。
信永は当時AMEと袂を分かち、インディーズでありながら音楽業界を席巻しつつあった。それだけに、信永の躍進は、ANEには忌々しいことだったはずだ。
光秀は、娘か、グループかの選択を迫られた。
全国ツアーの真っ最中に、主力の光秀が抜けることは、グループの、ひいては信永のミュージシャンとしての死に繋がることは、理解していた。
それでも光秀は、娘を、選んだ。
その時点で、ロックで生きていくことは捨てた。仲間だった羽芝からの対バンの申し出には応じたが、勝とうという気はほぼなかった。
対バンに敗れ、ロック界から落ちぶれたあと、AMEからはフォークでなら売ってやるという誘いが隠密に来たが、無視した。
信永のミュージシャン生命を断った。これ以上、音楽で食っていきたいという思いは、かけらも残っていなかった。
「また俺に、仲間だった男の背を斬れというのか」
今度は位牌にではなく、自分自身に向けて、言った。
そこで、はっと気づいた。
「俺、か」
ロックを捨ててからは、僕、という一人称を遣うよう心掛けていた。
「捨てきれていないのか」
光秀は妻の位牌に線香をあげてから、細川に返書をしたためた。
光秀がロックを捨てる遠因になったことに、娘が気づいたかどうかは、定かではない。
娘は、石山レーベルに務めていた。石山レーベルとAMEとは、業務上、兄弟のような関係だ。もしどこかで真実を知ったのだとしたら、娘が石山レーベルから、AMEとは関係のない、舶来品を扱う商社に転職を考えたとしても、不思議ではない。
すべて、想像だった。確かなことはわからない。
光秀は、娘の意思を尊重してやってほしい旨を、細川に書いて送った。細川家は娘にはよくしてくれている。そこは、心配していなかった。
手紙に封をすると、なにか、どっと疲れが押し寄せてきた。肉体労働による疲れとは、異なる疲労感だ。
倒れ込むようにして、布団に横になった。
疲れているはずなのに、浅い眠りを繰り返すうちに、夜が明けて朝になった。
アパートのインターホンが鳴ったのは、光秀が仕事に出る身支度を終え、靴を履こうとしていたときだった。
ドアを開けると、『天下布舞』で専属のドライバーをやっていた、九鬼が目の前に立っていた。
「信永の旦那から、対バンの誘いですぜ、明池さん」
言うと、九鬼はにやりと笑った。本職は、船乗りだった。ドライバーは、兼業ということになる。
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