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第4話
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サイガ不動産の営業がやってきたのは、翌週にAZMARUでライブを予定していたバンドから、キャンセルの申し入れがきた直後だった。
サイガの男は、仙極に絡みついてくるような眼光を発していた。これで、何度目か。用件は変わらなかった。仙極の答えも、変わらない。
いくら金を積まれようと、AZMARUを手放し、ここを立ち退くつもりはなかった。
「出演のバンドがいないとあっては、箱だけあっても、どうしようもないでしょう」
サイガの男は、がらんとしたステージに目をやっていた。今夜、本来なら三グループのライブが予定されていた。そのうちの二つのグループからは先週、それぞれ出演辞退の連絡があった。
そういうことが、今月に入って立て続けに起こっていた。
これまでは、付き合いのあるバンドに代演を依頼したり、新規に応募をかけ、その中から発掘した駆け出しのバンドで穴埋めをしてきた。だが、それにも限界があった。
出演バンドの質が下がり、それに応じて客足も目に見えて減りつつある。
「以前にも申し上げましたが、僕は代理であって、オーナーではありません。ですから、このライブハウスをどうこうする判断を、する立場にはないんです」
仙極は、カウンターのストールに腰かけたまま、背筋を伸ばした姿勢で言った。
食事の仕方と姿勢は、幼少に躾けられ、三十を過ぎた今でも身体に沁みついていた。
「ええ、承知していますよ。ですから、そのオーナーに話を通していただくか、取り次いでもらいたいのです」
「オーナーの仁羽は、静養中で、そのような話ができるような状態にはありません」
仁羽長秀の病が篤いのは、ほんとうのことだった。ただ仮に回復に向かっていたとしても、この男と引き合わせはしないだろう。仙極自身が、この場所をなくしたくない、と考えていた。
このライブハウスは、『天下布舞』のはじまった場所である。それは、仙極の原点といっても、過言ではない。
仙極は、横に立つサイガの男の方に向き直り、正面から見据えた。男がややたじろぐ気配を見せた。それは束の間のことで、すぐに作り物じみた笑みを被り直した。
「今日はこのへんで。また、来させてもらいます」
「何度来ても、変わりませんよ」
男の目が、ぎらりと光った。それも、一瞬だけだった。
「まったく、堅気がする目じゃないな」
一人になってから、首を鳴らした。
今夜唯一の出演バンドがやってきたので、仙極はジャケットを取って、出迎えた。
オーナー代理になってから、ジャケットを着るようにしていた。ドラムは、しばらく叩いていない。ジャケットは着慣れないまま、身体だけが鈍っていく感覚があった。
出演バンドの音合わせのあと、AZMARUをオープンさせた。
仙極はカウンターに入り、ぽつぽつと入りはじめた客のチケットを千切りながら、ドリンクのオーダーも受けた。フロントに人を置く余裕はなくなっている。
今晩のバンドは、実力と経歴では中堅で、チケットノルマをクリアする集客力はあった。
しかし諸経費を差し引いたAZMARUの採算を考えると、同レベルのバンドがあと二組はステージに上げなければならなかった。
他のバンドが出演を辞退した分、尺を長めにとって演奏してもらった。ワンマンで一晩やれるほどの曲数をもったバンドではなく、途中で二、三、代表的な洋楽ロックのカバーを織り交ぜていた。
上々の盛り上がりにはなったが、音楽に惹かれて現れる精霊のような光、玉響は顕れなかった。
ライブ後、楽屋へ行き、無茶を聞いてもらったことへの謝罪とともに、出演料を払った。
支度を終えたバンドグループのリーダーが帰り際に、励ますように肩を叩いてきた。
仙極は頭を下げ、見送った。
「次の出演の話は、させてもらえなかったか」
思いやりはあっても、沈みかけている泥船に乗れるかどうかは、話が別だった。
サイガ不動産がAZMARUに出入りしていたバンドを懐柔しているのか、脅迫しているのかはわからないが、AME(足利ミュージックエンタテインメント)の威光を笠を着ているのは間違いなかった。
メジャー志向がある、なしに関わらず、音楽をやっていこうという者なら、大手レーベルと揉めているライブハウスとは関わりたくないと考えるのは当然だった。
翌日、仙極は気晴らしも兼ね、バッティングセンターに入った。
平日の昼間で、ほとんど貸し切り状態だった。
十数球で数えるのをやめ、それからは無心でスイングした。
中学の途中まで野球をやっていた。だからドラムをはじめる前から、身体はできあがっていた。投球には手首のスナップも遣う。野球で培ったいくつかのものは、ドラムでも活きた。
「一息いれちゃどうだい」
球が途切れ、仙極が追加のコインを入れようと財布を出そうとすると、バッターボックスの外から声をかけられた。
「九鬼さん」
「よう」
九鬼から気さくに笑いかけられ、仙極の中で張り詰めていたものが緩んだ。
バッドを置き、ボックスから出て九鬼と合流した。
「ずいぶん根詰めてやってたな」
「見てたんですか? 恥ずかしいな」
「ドラマーからバッターにでも転向するつもりか」
「それもいいですね」
「ばか」
九鬼の冗談にお道化て返すと、肩を小突かれた。
九鬼が親指を立て、出るぞ、という仕草をした。
外に出ると、雨が吹きつけてきてジーンズの裾を濡らした。傘は持っていなかった。
「走るぞ」
九鬼が雨に煙る駐車場に飛び出した。その背中を追う。年季の入ったハイルーフのバンに駆け込んだ。
「まだこの車に乗ってるんですね」
「おう、まだまだ現役さ。最近は本業の方でしか乗り回してなかったから、ちっと潮臭いかもしれん」
九鬼の本業は漁師だった。
海から戻り、家に帰るのに、潮を被った漁業服を放り入れたりする。売り物にならない釣果を万丈篭で持ち帰ったり、補修が要る網を積むこともあると聞いたことがある。
「僕は気にならないですよ」
「お前や信永の旦那はそうだったな」
「服や楽器に臭いがつくって、和益さんや克家さんはよく文句言ってたっけ」
「旦那を真似て鷹揚に構えちゃいるが、うるせえんだ、あいつら。やれブレーキのかけ方が荒いだの、車内で屁をこくなだのってよ。こいつは陸での俺の船だぜ」
九鬼は言いながらキーを挿してエンジンを回した。車内に満ちていた雨音が、エンジン音に遠ざけられる。
「案外、几帳面な光英さんの方が、そういうところでは大らかだったな」
「お前、話は旦那から聞いているんだっけか?」
「対バンの件なら。AZMARUに押しかけてきて、協力しろって一方的に言われましたよ」
「旦那は、そうでなくちゃな」
どこへ向かうとも言わず、バンは駐車場から走り出した。
ワイパーがせわしなく左右に振れている。助手席は、メンバー内では最年少の仙極の定位置だった。
「AZMARUのオーナー代理を引き受けたんだってな」
「引き受けたというか、僕の方から申し出たんですよ。聞いてますよね、九鬼さん」
「羽芝に干されたことか?」
「まぁ、はい」
常人であれば言いづらいことも、すっぱりと言葉にできてしまうのが九鬼の性質だ。
「そんなにひどいミスをしたのか?」
「楽を、しようとしたんです。そのときは、もちろんそんな意識はなかったけど、いま振り返ると、そうだった」
「楽ねえ。あの頃は、旦那の首が回らなくなって、グループも解散になってと、いろいろあったからな。その直後で、魔が差したんだとしても、責められんと俺は思うがね」
「優しいですよね、九鬼さんって。知ってましたけど」
「よせ」
『天下布舞』解散直後、仙極は羽芝秀吉に誘われ、後継グループ発足に向けて活動していた。
四国遠征もその一環で、長宗壁を交渉の末にメンバーに加えた。そこまではよかったが、九州から当地に進出してきた島津から、対バンを挑まれ、受けた。
なぜ受けたのか、はっきりと覚えていなかった。
九鬼の言葉に甘えるつもりはないが、信永がいなくなり、どこか漫然としていたところはなかったか。
記憶に鮮明なのは、対バンライブでの島津の演奏で、玉響がふよふよしていたことだ。
玉響に呼応するように、客は熱気を高めていった。
玉響を呼びこむことに躍起になればなるほど、仙極の刻むビートは型にはまったものになっていった。結果、自滅といっていい負け方をした。
玉響がなんなのかは、よくわかっていない。プロでも、見たことがある人間と、そうでない人間がいる。
そんな不確かなものに縋ろうとしたのは、心がどこかで楽になりたがっていたからに他ならない。
「失ったもの、変わったことをあげつらえても仕方ねえ。そこから、どこへ向かうか、なにを拾い上げるかだ」
赤信号で停止していたバンが、青信号になり、ぐんっと発進した。
九鬼が自分と話すために車を走らせてくれていることは、なんとなく伝わってきた。
「明池さんもな」
「光秀さんとも会ったんですか」
「旦那に頼まれて、探し出したのよ。で、対バンの件を伝えてきた」
「なんて?」
「自分に断る資格があるはずもない、だとよ」
「やっぱり、グループを唐突に脱退したこと、気に病んでいるんですね」
「そら、そうだろう。真面目な人さ。しかし、なら、なんであんなふうな辞め方をした」
市街地を抜け、田畠が増えてきていた。
ぽつぽつと民家が見えた。接ぎ穂した樹木のような、二階をあとから建増した跡を残した家が目につく。
「違うか。なんで明池さんは旦那を裏切らなくちゃならなかった」
「訊いたんですか?」
「知りたいのは、俺だけじゃねえだろう。けど、そのことについちゃ、あの人は頑なに口を開かねえ」
「なにか言うことで、言い訳になると思っているのかもしれませんね」
「確かにあの人なら、潔くねえと考えそうだ。旦那は旦那で、どうでもいいという態度だしな。周りだけがやきもきさせられてんのは、ある意味滑稽だな」
仙極は、光秀と対バンをやると言い出した信永に、復讐する気かと言ってどつかれたのを思い出した。
信永がどういう男か知りながら、あんなことを口走ったことには、後悔しかなかった。
「にしても、行方知れずだった光秀さんを探すの、九鬼さんが頼まれていたんですね」
「おう。お前も、なにか頼まれてるんだろ」
「それが、ただ協力しろとしか。なにをしろとか、具体的なことはなにも言われてなくて」
「ふうん」
「僕はなにをしたらいいんですかね」
言ってから、自分がいつの間にか二人の対バンに積極的にかかわろうとしていることに、仙極は気づいた。
「さあな。旦那の心胆を知りたいなら、訊く相手が違えや。仁羽さんや羽芝だろ、そういうのが得意なのは」
「それは、そうなんですが」
秀吉には、会いづらい。仁羽のところには、信永本人が転がり込んでしまっていた。
「腹減ったな。考えてもわからんことは傍に置いておいて、肉でも食いに行こうぜ、仙極」
「この辺、焼き肉屋なんてなさそうですけど」
「見つかるまで走りゃいいさ」
通り雨が過ぎ去り、雲間から光が差し込みはじめた。水分を蓄えた土から、湯気が立ち昇ってくる。
九鬼はワイパーを止め、車のリアウィンドウを開け、鼻歌を歌い出す。
『天下布舞』のファーストシングル『魔境』のメロディが、靄と混ざり合った。
サイガの男は、仙極に絡みついてくるような眼光を発していた。これで、何度目か。用件は変わらなかった。仙極の答えも、変わらない。
いくら金を積まれようと、AZMARUを手放し、ここを立ち退くつもりはなかった。
「出演のバンドがいないとあっては、箱だけあっても、どうしようもないでしょう」
サイガの男は、がらんとしたステージに目をやっていた。今夜、本来なら三グループのライブが予定されていた。そのうちの二つのグループからは先週、それぞれ出演辞退の連絡があった。
そういうことが、今月に入って立て続けに起こっていた。
これまでは、付き合いのあるバンドに代演を依頼したり、新規に応募をかけ、その中から発掘した駆け出しのバンドで穴埋めをしてきた。だが、それにも限界があった。
出演バンドの質が下がり、それに応じて客足も目に見えて減りつつある。
「以前にも申し上げましたが、僕は代理であって、オーナーではありません。ですから、このライブハウスをどうこうする判断を、する立場にはないんです」
仙極は、カウンターのストールに腰かけたまま、背筋を伸ばした姿勢で言った。
食事の仕方と姿勢は、幼少に躾けられ、三十を過ぎた今でも身体に沁みついていた。
「ええ、承知していますよ。ですから、そのオーナーに話を通していただくか、取り次いでもらいたいのです」
「オーナーの仁羽は、静養中で、そのような話ができるような状態にはありません」
仁羽長秀の病が篤いのは、ほんとうのことだった。ただ仮に回復に向かっていたとしても、この男と引き合わせはしないだろう。仙極自身が、この場所をなくしたくない、と考えていた。
このライブハウスは、『天下布舞』のはじまった場所である。それは、仙極の原点といっても、過言ではない。
仙極は、横に立つサイガの男の方に向き直り、正面から見据えた。男がややたじろぐ気配を見せた。それは束の間のことで、すぐに作り物じみた笑みを被り直した。
「今日はこのへんで。また、来させてもらいます」
「何度来ても、変わりませんよ」
男の目が、ぎらりと光った。それも、一瞬だけだった。
「まったく、堅気がする目じゃないな」
一人になってから、首を鳴らした。
今夜唯一の出演バンドがやってきたので、仙極はジャケットを取って、出迎えた。
オーナー代理になってから、ジャケットを着るようにしていた。ドラムは、しばらく叩いていない。ジャケットは着慣れないまま、身体だけが鈍っていく感覚があった。
出演バンドの音合わせのあと、AZMARUをオープンさせた。
仙極はカウンターに入り、ぽつぽつと入りはじめた客のチケットを千切りながら、ドリンクのオーダーも受けた。フロントに人を置く余裕はなくなっている。
今晩のバンドは、実力と経歴では中堅で、チケットノルマをクリアする集客力はあった。
しかし諸経費を差し引いたAZMARUの採算を考えると、同レベルのバンドがあと二組はステージに上げなければならなかった。
他のバンドが出演を辞退した分、尺を長めにとって演奏してもらった。ワンマンで一晩やれるほどの曲数をもったバンドではなく、途中で二、三、代表的な洋楽ロックのカバーを織り交ぜていた。
上々の盛り上がりにはなったが、音楽に惹かれて現れる精霊のような光、玉響は顕れなかった。
ライブ後、楽屋へ行き、無茶を聞いてもらったことへの謝罪とともに、出演料を払った。
支度を終えたバンドグループのリーダーが帰り際に、励ますように肩を叩いてきた。
仙極は頭を下げ、見送った。
「次の出演の話は、させてもらえなかったか」
思いやりはあっても、沈みかけている泥船に乗れるかどうかは、話が別だった。
サイガ不動産がAZMARUに出入りしていたバンドを懐柔しているのか、脅迫しているのかはわからないが、AME(足利ミュージックエンタテインメント)の威光を笠を着ているのは間違いなかった。
メジャー志向がある、なしに関わらず、音楽をやっていこうという者なら、大手レーベルと揉めているライブハウスとは関わりたくないと考えるのは当然だった。
翌日、仙極は気晴らしも兼ね、バッティングセンターに入った。
平日の昼間で、ほとんど貸し切り状態だった。
十数球で数えるのをやめ、それからは無心でスイングした。
中学の途中まで野球をやっていた。だからドラムをはじめる前から、身体はできあがっていた。投球には手首のスナップも遣う。野球で培ったいくつかのものは、ドラムでも活きた。
「一息いれちゃどうだい」
球が途切れ、仙極が追加のコインを入れようと財布を出そうとすると、バッターボックスの外から声をかけられた。
「九鬼さん」
「よう」
九鬼から気さくに笑いかけられ、仙極の中で張り詰めていたものが緩んだ。
バッドを置き、ボックスから出て九鬼と合流した。
「ずいぶん根詰めてやってたな」
「見てたんですか? 恥ずかしいな」
「ドラマーからバッターにでも転向するつもりか」
「それもいいですね」
「ばか」
九鬼の冗談にお道化て返すと、肩を小突かれた。
九鬼が親指を立て、出るぞ、という仕草をした。
外に出ると、雨が吹きつけてきてジーンズの裾を濡らした。傘は持っていなかった。
「走るぞ」
九鬼が雨に煙る駐車場に飛び出した。その背中を追う。年季の入ったハイルーフのバンに駆け込んだ。
「まだこの車に乗ってるんですね」
「おう、まだまだ現役さ。最近は本業の方でしか乗り回してなかったから、ちっと潮臭いかもしれん」
九鬼の本業は漁師だった。
海から戻り、家に帰るのに、潮を被った漁業服を放り入れたりする。売り物にならない釣果を万丈篭で持ち帰ったり、補修が要る網を積むこともあると聞いたことがある。
「僕は気にならないですよ」
「お前や信永の旦那はそうだったな」
「服や楽器に臭いがつくって、和益さんや克家さんはよく文句言ってたっけ」
「旦那を真似て鷹揚に構えちゃいるが、うるせえんだ、あいつら。やれブレーキのかけ方が荒いだの、車内で屁をこくなだのってよ。こいつは陸での俺の船だぜ」
九鬼は言いながらキーを挿してエンジンを回した。車内に満ちていた雨音が、エンジン音に遠ざけられる。
「案外、几帳面な光英さんの方が、そういうところでは大らかだったな」
「お前、話は旦那から聞いているんだっけか?」
「対バンの件なら。AZMARUに押しかけてきて、協力しろって一方的に言われましたよ」
「旦那は、そうでなくちゃな」
どこへ向かうとも言わず、バンは駐車場から走り出した。
ワイパーがせわしなく左右に振れている。助手席は、メンバー内では最年少の仙極の定位置だった。
「AZMARUのオーナー代理を引き受けたんだってな」
「引き受けたというか、僕の方から申し出たんですよ。聞いてますよね、九鬼さん」
「羽芝に干されたことか?」
「まぁ、はい」
常人であれば言いづらいことも、すっぱりと言葉にできてしまうのが九鬼の性質だ。
「そんなにひどいミスをしたのか?」
「楽を、しようとしたんです。そのときは、もちろんそんな意識はなかったけど、いま振り返ると、そうだった」
「楽ねえ。あの頃は、旦那の首が回らなくなって、グループも解散になってと、いろいろあったからな。その直後で、魔が差したんだとしても、責められんと俺は思うがね」
「優しいですよね、九鬼さんって。知ってましたけど」
「よせ」
『天下布舞』解散直後、仙極は羽芝秀吉に誘われ、後継グループ発足に向けて活動していた。
四国遠征もその一環で、長宗壁を交渉の末にメンバーに加えた。そこまではよかったが、九州から当地に進出してきた島津から、対バンを挑まれ、受けた。
なぜ受けたのか、はっきりと覚えていなかった。
九鬼の言葉に甘えるつもりはないが、信永がいなくなり、どこか漫然としていたところはなかったか。
記憶に鮮明なのは、対バンライブでの島津の演奏で、玉響がふよふよしていたことだ。
玉響に呼応するように、客は熱気を高めていった。
玉響を呼びこむことに躍起になればなるほど、仙極の刻むビートは型にはまったものになっていった。結果、自滅といっていい負け方をした。
玉響がなんなのかは、よくわかっていない。プロでも、見たことがある人間と、そうでない人間がいる。
そんな不確かなものに縋ろうとしたのは、心がどこかで楽になりたがっていたからに他ならない。
「失ったもの、変わったことをあげつらえても仕方ねえ。そこから、どこへ向かうか、なにを拾い上げるかだ」
赤信号で停止していたバンが、青信号になり、ぐんっと発進した。
九鬼が自分と話すために車を走らせてくれていることは、なんとなく伝わってきた。
「明池さんもな」
「光秀さんとも会ったんですか」
「旦那に頼まれて、探し出したのよ。で、対バンの件を伝えてきた」
「なんて?」
「自分に断る資格があるはずもない、だとよ」
「やっぱり、グループを唐突に脱退したこと、気に病んでいるんですね」
「そら、そうだろう。真面目な人さ。しかし、なら、なんであんなふうな辞め方をした」
市街地を抜け、田畠が増えてきていた。
ぽつぽつと民家が見えた。接ぎ穂した樹木のような、二階をあとから建増した跡を残した家が目につく。
「違うか。なんで明池さんは旦那を裏切らなくちゃならなかった」
「訊いたんですか?」
「知りたいのは、俺だけじゃねえだろう。けど、そのことについちゃ、あの人は頑なに口を開かねえ」
「なにか言うことで、言い訳になると思っているのかもしれませんね」
「確かにあの人なら、潔くねえと考えそうだ。旦那は旦那で、どうでもいいという態度だしな。周りだけがやきもきさせられてんのは、ある意味滑稽だな」
仙極は、光秀と対バンをやると言い出した信永に、復讐する気かと言ってどつかれたのを思い出した。
信永がどういう男か知りながら、あんなことを口走ったことには、後悔しかなかった。
「にしても、行方知れずだった光秀さんを探すの、九鬼さんが頼まれていたんですね」
「おう。お前も、なにか頼まれてるんだろ」
「それが、ただ協力しろとしか。なにをしろとか、具体的なことはなにも言われてなくて」
「ふうん」
「僕はなにをしたらいいんですかね」
言ってから、自分がいつの間にか二人の対バンに積極的にかかわろうとしていることに、仙極は気づいた。
「さあな。旦那の心胆を知りたいなら、訊く相手が違えや。仁羽さんや羽芝だろ、そういうのが得意なのは」
「それは、そうなんですが」
秀吉には、会いづらい。仁羽のところには、信永本人が転がり込んでしまっていた。
「腹減ったな。考えてもわからんことは傍に置いておいて、肉でも食いに行こうぜ、仙極」
「この辺、焼き肉屋なんてなさそうですけど」
「見つかるまで走りゃいいさ」
通り雨が過ぎ去り、雲間から光が差し込みはじめた。水分を蓄えた土から、湯気が立ち昇ってくる。
九鬼はワイパーを止め、車のリアウィンドウを開け、鼻歌を歌い出す。
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